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日本一アツい大人がいる地域~岐阜県郡上市の地域の日常に入り込んで~vol1


はじめに


先日のGWに、岐阜県郡上市に3日間滞在した。
私は、ただお金を消費するだけの旅行よりも、地域のおもろい大人にその地域の事を案内してもらったり、初対面の人の家に泊めて頂いたり、人と人のご縁やあったかさを感じる旅が好きだ。
今回の旅もその一種だった。今まで、およそ10ほどの地域を短期間ではあるが訪れた私でも、岐阜県郡上市は今までの中で一番一人一人の人間に本音で向き合う人が多いアツい地域だった。

イライラしているサラリーマン

自分が住んでいる滋賀県の町(個人情報なので伏せる)から米原まで向かう電車の中ですごく舌打ちしてイライラして、周りにそのイライラを伝染させるサラリーマンがいた。
その人は、イライラした感じを出しつつ、私の後ろの席に座っていたが、何が気に入らなかったのかさらに後ろの席へと移動した。
それを見て、「自分のご機嫌を自分でとれないだけではなく、人にまでイライラを伝染させる大人にはなりたくないなぁ」と感じたことを覚えている。

長良川鉄道の車窓から

美濃太田駅から長良川鉄道にのり、郡上八幡を目指す。
窓を眺めていると、エメラルドグリーンの川の景色が現れた。
このような色の川を見たのは、人生初なので、思わず見惚れる。

長良川鉄道の車窓より


30年間自給自足をしている方、ゆるさんに案内してもらう

綺麗な川がある地域は日本に沢山ある(高知の四万十など)が、郡上と他の川がある地域は何が違うのか。
それは、「水と人々の暮らしがともにあり、水でここまで遊んでいる地域は郡上を差し置いて、他にない」という。

町を歩いているときに、10メートル(マンションの3階建てくらい)ほどの橋があった。
この橋のすぐそばに小学校があり、小学生は学校が終わるとすぐ川で遊ぶのだという。
小学校4年生くらいになると、10メートルほどのはしから飛び降りることが出来るのが普通らしい。

また、郡上の子供は小さい頃から、どう行動するのが正解かわからない自然を相手にして遊んでいる。
そのため、「自分の頭で考えて行動」しており、先生や親の話を聞いて受け入れて、あまり自分の意見がない環境で育った人よりも頭が良いという。

また、この地域では 大人力(おとなりょく)という言葉があると教わった。
自分の大切な子供や親、友達などが10メートルもある橋から飛び込もうとすると、下手したら死ぬ可能性は大いにある。
飛び込んでも大丈夫という事を知らない大人などは、相手を心配して、「危ない!」という言葉をかけると思う。

しかし、相手を信じて、見守り、危ないなどの言葉をかけない、余計なことを言わないのが、本当の大人だという。

一番高い13メートルほどの橋にかかっている看板がある。
川に飛び込むことを日常的にしていない観光客が飛び込んで亡くなった例や、怪我をした例もたくさんある。
他の地域では、亡くなった人が出ている橋に飛び込む行為を禁止という看板をかけるところが多いだろう。
しかし、郡上では大人力 がある、禁止ではなく警告の看板だった。

10メートルほどの高さの橋 ここから川へ飛び下りる


禁止ではなく、警告と書いてある看板


郡上では、町全体を川が流れているが、一家に一台川の流れをせき止める板がある。
この板があることで、何かを洗いたいときに、その板をはめれるような凹凸が川にはあり、板で川の流れをせき止めて、洗うことが出来る。

一家に一つ、水をせき止めるための板がある


板で水をせきとめ、車のタイヤを洗っている
共用の、芋を洗う板 持ち出し禁止と書いてある。


袖壁 火事が起きたときに、隣の家に火が移らないようにする


神秘的すぎる森と割れなかった薪割り

その後、トトロが出てくるんじゃないかと思うくらいの神秘的な森へ。
裸足で冷たすぎる川の中を歩いた。
苔がふさふさしてて気持ちよかった。 
森には神様が宿っていて、苔は、悪いものではなく、本当に水が綺麗なところだけに生えているという。

薪割りをするときには、自分の顔についている目ではなく、心の目で薪の上の部分を見て斧をおろすという。
それは、実際の目で見てしまうと、斧を当てたい部分に当たらなくなってしまう。
ゆるさんやその娘さんは、顔の真上まで斧を持って、ストンといとも簡単に斧をおろしており、綺麗に薪を割っていた。
正直、斧が足に当たるんじゃないかと思うと、本当に怖かった。
また、腰や足を落として斧を下すのがいいと言われたが、一度斧が足の30センチ手前まで来たことがあり、それからはビビッて私は薪を割ることが出来なかった。

郷土料理 鶏ちゃんの二面性 

岐阜県には、鶏ちゃんという郷土料理がある。
これは、内臓や卵巣やホルモンなど市場であまり売り出されていない部位を命を美味しくいただくという意味で、しょうや味噌をベースにしたたれにつけて、キャベツと一緒に炒めたものだ。(昨年、市場では売られていない琵琶湖の未利用魚を使ったシューマイをマルシェで作ったことを思い出した。)
少し濃くてビールと合う癖になりそうな味だった。

しかし、命を美味しくいただくという意味の鶏ちゃんが、道の駅やお土産屋さんではむねやももなどのお金になる部位しか使わず、売られており、
本来の意味が失われているという。

その料理に込められた意味を教わってから鶏ちゃんを食べることが出来て、本当に良かった。というか、意味を知らずにもしただの旅行で来ていたら、本来の意味ではないもも肉の鶏ちゃんを何とも思わずに、食べていたかもしれない。

人間はバカだから説明されないとわからないことがある」と、
次の日に宴会でおっしゃっていた人がいたが、本当にこの日聞いたことは鶏ちゃんの話も含めて、全て説明されないとわからないことだった。

作っていただいた鶏ちゃん
道の駅で売っていた鶏ちゃん


甲斐性がある、一人前、稼ぎと仕事の違いとは?

ここで、ゆるさんから「一人前ってどういう言葉の意味だと思う?」という投げかけがあった。
この時、私はどう答えたのか覚えていないが、ほとんどの人に、この質問をすると、経済的にお金を稼いで自立することとの答えが返ってくるらしい。
郡上では、甲斐性があることを一人前という。

甲斐性とは、郡上の表現で(お金を稼ぐとかではなく)、人間として生きていく力の事だ。
薪を割ったり、かまどでご飯を炊いたり、どれが食べられる山菜なのか見分けてとったり、調味料や食べ物を自分で作ったりということを意味している。
また、稼ぎと仕事は昨今いっしょくたにされることが多いが、本来は違う意味だという。

稼ぎ:自給自足 先ほど説明した甲斐性の事
仕事:お金という外貨を稼ぐこと


よく、田舎には仕事がないからといって都会に働きに出る人が多いが、その人にもし人間として生きていく甲斐性があれば、そんなに都会でお金を稼ぐ必要はないという。

また、仕事で営業マン、商社マンなどの職種に就くとする。
一つの仕事しかやっていない場合、不景気になると、仕事が回ってこなかったり、場合によっては仕事を失ったりと、景気や時代の流れに左右される。
しかし、甲斐性という人間が本来生きていく力があれば、時代の流れに左右されることなく、暮らしていける。

甲斐性の話からの私の所感

私は、今までの人生で当り前かのようにスーパーで食べ物を買ってきてそれを食べていたし、ご飯もかまどでなくて炊飯器で炊いたもので食べている。
また、薪なんぞ割ったことがないし、山菜も食べたことがあるが山菜は食べられない野草は毒で死ぬ場合も大いにあるため、食べられる野草かどうかなんてわからない。
私だけではなく、現代人のほとんどがそうではないか。

この甲斐性が人間としての生き方なのに、皆必要以上にお金を稼いで本来抱える必要のないストレスを抱えて生きているのかもしれない。この話を郡上から帰ってきて、毎日思い出している。
帰りに名古屋を通ったのだが、高層ビルが立ち並ぶ町にはGWだというのに、沢山のサラリーマンがいた。
甲斐性の話が衝撃的過ぎて、世の中の見え方が変わったというか、これまでかけてなかった色眼鏡をかけたような感じで、サラリーマンを見るたびに、「頑張って外貨稼いでいるんだなぁ」と思ってしまう。


本来の人間の生き方を忘れて、現代のように洗濯機で洗濯して、調味料はスーパーの物を買う生活の沼に自然とハマっている中で、急に甲斐性がない人が甲斐性がある生活へと変わるのは少し無理があるようにも思う。

人間本来の生活に戻らなくても、必要なお金から逆算すれば、人間は週に5日も働く必要がない。郡上のような中山間地域でなくても、仮に東京でも、幸せに暮らせると衝撃を受けたYoutubeがこれだ。

この人は、週2日だけ働いている。(つまり、週休5日)年収90万円という税金を払わなくてもいいラインで暮らしており、毎日納豆とご飯とみそ汁と鯖缶を食べている。しかし、その人はめちゃくちゃハッピーなのだ。
中田敦彦も、何百万円と稼いでいても、週に3日は働いているため、この方の生き方が素晴らしすぎて悔しいと言っているくらいだ。
(その秘密は、こちら。)

中田敦彦のYoutube大学 「年収90万円で東京ハッピーライフ」


人間として何が幸せなのか
郡上に行っていなかったら、私は甲斐性がない ということを自覚しないまま、資本主義の渦に飲まれて生きていたかもしれない。

私がマイナビ型就活を辞めた(仕事探しはやめてないw)のにはなんとなくではないし、5千文字書いたほどの違和感があったからだが、
自分の意見を言うと会社で扱いにくい存在と思われるよ という訳分からん言葉でもうビビッと自分の意志が固まった。
もっと、「人間らしく生きていきたい」と思ったからだ。

人間らしい人間らしく生きるは、人との違いを楽しむとか、自分の意見が言えるとか、やらかしをたくさんするとか、色々あると思う。
その内の一つというより根底にあるものが、甲斐性を自分の体全体で、身に着けて生きていくということなんじゃないかと今回郡上で思った。


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