反省なんてできないんだから

自己批判とか強制しない。

ただ一体どうやって生きているか?を説明するだけ。

そもそもの間違いは、個人に責任おっかぶせすぎってこと。

「できる」って思える人は勝手にやればいい。

他人にもそれをやれ!なんて言ってしまう人はその時点で「できていない」し頑張ったところで「できない」人なんだから、違う道を選べばいいのだ。

自分のことは自分で責任取るなんて言わなくたって生きていけるから。

ああそうそう。頑張んなくてもいいからね。無理に。

無理に頑張るというのは責任と全く一緒。他人に頑張れ!とか強制してしまうような頑張りのこと。

頑張っていいのは死んでも頑張っちゃうような人だけ。頑張りの価値だとか全く無関心に。


では。別の道を一つ。

世の中には一人一人では到底抗し難いパワーというものが作用している。国家なんて結局個人の集まりだ、と言ったって、何で一億とかいうオーダーの人間が大した抵抗もせずに税金やら各種保険料を納めているのか?そのパワーを一人一人の生存への動機などなどに落とし込むことは困難だ。

とはいえ、一人一人事実生きているわけで、その生き方とか考え方が、国家なる得体のしれないパワーを発揮するモノの性質も決めているという側面もある。昔なら有無を言わさず労働を提供させられていたものが、一応特定の法の定めるところにしたがってしかできなくなったり。

権力への抵抗というと、デモやらストやら目に見える活動がイメージされるけれど、平和的な権力入れ替えというのは人類史上まれで、かなりな血が流れても抵抗が失敗することの方が多い。こうした傾向を見るに、権力が特定の箇所に集中してしまって、大多数の人間はそれに従うように生きる、というのは避けがたい。仕方がないから権力集中は無条件に是認する、とまでは言わないけれど、おっきな趨勢を踏まえて、その中でできることがあるのではないか?しかもより崇高な理想なんてものも完全には棄却せずに。

いよいよ提案。

私たち一人一人は事実としてこうして生きているわけだから、間違いなく権力の形成・集中・維持・比較的マイナーな編成替えなどなどに影響は及ぼしているはず。でも一体どんな風に??というのはあまりうまく説明されていないように感じる。そこです。

現時点ではもうはっきりとした流れがある。それは、「目に見えるとほぼ皆が直観的に信じられるモノ。これを基準として、見えなかったものを見えるようにしたり、その後量を計測したりして世の中の色々をマネジメントしていこう。」という流れ。そうした流れが確立されていく上で、細かい手続きなどは厳密に分析・検討が行われているけれど、そうした流れがほぼ全ての人間の生活に浸透していっているのは、必ずしも厳密な分析や検討の結果ではない。つまり、「目に見えるものでマネジメント!」というおっきな方向性が、人々によって解釈された結果、人々の考え方や生活態様、行動に反映されるようになっているということ。

でも、私たちはほとんどその「解釈している」という実感を持っていない。これは問題だ。いわば知らないうちに「見えるものでマネジメント!」に取り込まれてしまっているわけだから。それで皆がハッピーなら問題ないけれど、勿論そういうわけにはいかない。さらに、「見えるものでマネジメント!」だけではちょっと限界じゃないか??という印象も強くなってきている。じゃあということで、いきなり目に見えないものでマネジメントを!なんてのは不可能。

目に見えるものでマネジメント!に含まれている要素を、私たちの日々の生活に則して解釈してみる。例えば人権。例えば民主主義。例えば参加型開発。例えば合理的客観的証拠とそれが合理的客観的であるかどうかの判断。例えば効率最大化の原則。こうしたものがちょっと振り返ってみれば、必ずしも法律や政治学の専門家、経済学者、評価・モニタリングの専門家でなくても、ぼんやりとでも日々の生活での考え方、選択肢の設定の仕方、言葉遣いなどなどに浸透しているとは思いませんか?そう。それがどのようにして起こっているのか?を「見える化」してみようと(心眼で)。

民主主義というのは統治制度としてほぼ世界的に採用されるようになってきているけれど、その理想上の価値、「一人一人が自らを律する統治のプロセスに参画し、積極的な統治の維持・改善へ関与することで、一人一人の自己実現の一部とする。」これは中々実現されているとは言い難い。どちらかというと、一人一人の責任・参画が強調される結果、できる人、できそうな人と全くお話にもなんない人との間で明らかな分断さえ生まれてしまっているように見える。

統治に参画なんて言うけれど、そんなことしないでも、安全平和な生活ぐらい実現してくれよ。そう感じたって何もおかしいことはないだろう。けれどもそういうのはかなりな高確率で「非協力的」と詰られるだろう。でも、詰る人々だってどこまでが十分な参画なのか?それを実現するために日々の生活でどういうことができるのか?までははっきりとは分かっていない。選挙には必ず行く?新聞読む?たまにはデモにでも参加する?つまり、私たち一人一人は、まずそれぞれ個人のことにだって十分な統治なんて実現できてはいないということ。

まさか個人の個人による統治なんてものが可能だなんて思わない。それは自己責任論と大して変わらないから。でも、コントロールできるかもしれないこと、できないことの違いを知ろうとすることぐらいは可能なのではないか?何のため?民主主義などといわれる大仰な言葉が何でここまで幅を利かしているのか?を知るため。何で?民主主義という言葉に対して、自分なりの解釈を加えるため。それでどうなる?それが、一般社会で知識とされるものに対して、自分なりの統治を試みるということ。

一人一人の自由であるとかコントロールというものは、そういった知識を巡る一つ一つの解釈・再解釈の繰り返しなのではないか?それが私の提言。

知識というものは、広く一般に知識と認められているもの(学問上の分野や教科など主に体系的に整理されたもの)とそうでないもの(個別具体的な場面場面で適宜でも繰り返し活用されるようなノウハウのようなもの)がある。いずれにしても、知識には必ず一定の枠組みがあったり(ということは既に膨大な知的、時には政治的労力をもって整理され、正統性が確立されている)、よく知っている人とそうでない人との差があったり、という完全平等ではない関係が含まれている。であるからして、知識の解釈・再解釈というのは、自分たちが巻き込まれている或はこれから巻き込まれんとしている関係性を理解すること(”民主主義”の原理原則ではなく、それって一体誰がどういう風にして使うようになってきたのか?)であり、そうして得られる関係性の理解こそが、一人一人が自他に及ぼすコントロールだということ。

繰り返しておくと、大きな流れとしては、どこかに集中された権力に従うように生きざるをえない。そうなるには理屈がある。そこには人間の生まれもっての性質(だから自然から与えられている制約)というものも含まれる。それを知ることも大事。だけれども、いや、それを知るためにも、まずは私たちは一体どうやっておっきな流れの中でやりくりしながら日々をやり過ごしているのか?急いで理路整然とした説明を試みるのではなく、出発点として、私たちって四六時中何が人生の目的だ?とか何のため誰のために生きているのか?とかもっと実際的な先々の出費・収入の検討ですら、完璧に計算なんてできていない。そういった、理想や憂いや心配事、計画性なんてものもあるにはあるけど、大概は流れの中で厳密になったりならなかったり、、、という現実。そこに一々立ち戻る感じで分析してみることが大切だと感じている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?