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BL小説「悪魔を宿すマリアの残痕」

【歪んだ主従関係・兄弟愛】
【読み切り・短編・読書時間20分程度】

【あらすじ】
小さい頃、大好きだった兄を火事で亡くした長谷川真理阿はせがわまりあ・25歳はゲレンデのバイトで出会った佐木田樹里さきたじゅり・29歳とその日のうちに身体を交わし、そのまま同棲を始めた。彼は金曜日の夜しか身体を求めてこず、死んだ兄・英連えれんしか愛せない真理阿は樹里との金曜日を憂鬱に感じていたが、「命令」をされると身体は勝手に従う体質のため、断れず情事を重ねていた。

ある日、電車で拾った名刺の裏に書かれた「悪魔」のメールアドレスにメールをすると、探偵事務所から返事が。
その探偵、藤原直城ふじわらなおきは兄の同級生で、兄が亡くなった原因である未解決放火事件の犯人を突き止めたという。
その犯人の特徴は「左腕にマリア像の刺青がある神父」らしい。
愛がない関係でも命令があれば快楽が得られる関係を選ぶのか、兄への主従を貫くのか。
それとも命令のない世界で、同じ傷を背負った者同士、絆を深めてゆくのか──。
主従関係がもたらすサスペンスラブ!

全文お読みいただけます
(あとがきが有料ゾーン)



「悪魔を宿すマリアの残痕」


 窮屈な金曜日。自分が自分でなくなる金曜日。
 下北沢商店街からすこし離れた場所に建てられたアパートは築年数を重ねすぎて、レトロな建物だと若者のあいだで有名らしい。
 ギシギシと聞こえてはいけない音が気になる1DKで、薄明りに灯されながら小さな丸テーブルに向かって座り、日記帳を開く。

『金曜日なんて、無くなればいい』

 シャワーの音が響き渡る部屋の片隅で、ボクは日記帳にそう書き込む。
 ほどなくしてシャワーの水音が止まると夜が深まる合図のように狭いアパートの部屋には静寂が訪れた。

真理阿マリア、バスタオルが無いから、持って来て?」

 ボクの名前、長谷部真理阿はせがわまりあを呼ぶその声は、冬のあいだにゲレンデのロッジでアルバイトしていたときに出会った男、佐木田樹里さきたじゅり だ。彼と出会った金曜日から、季節がひとつ変わろうとしているというのに、彼と出会ったばかりにボクの穏やかな金曜日は失われた。

「はい、いま持って行きます」

 口でそう答えたわりには、身体はびくとも動かなかった。バスタオルがないということは、服を着ることができない。つまり裸の樹里にそのまま犯されやしないかという考えが過ぎる。途端に動悸が激しくなり、胸を押さえながらボクはさっき日記帳に挟んだ一枚の名刺を探した。

『サン・プロモーション 取締役・小林光成』

 明朝体で印刷された名刺にはどんな企業か想像がつかない会社名と名前が印刷されている。ボクは咳き込みながら名刺を裏返す。

『devil@xxx.com』

 油性ボールペンで走り書きされた悪魔のメールアドレスを指でなぞりながら深呼吸を繰り返すと少しずつ心臓の高鳴りは収まってゆく。
 再び樹里に命令される前にバスタオルを届けなければ──。寝室のラックに置かれたバスタオルを取り、浴室へ向かう。
(デビル……、悪魔……)
 あのメールアドレスの持ち主はきっとボクと同じように身体のなかに悪魔を宿していると確信している。それを誰かに気づいて欲しいからメールアドレスに「悪魔」なんてつけたのだろう。七才の頃から二十五歳になる今でもずっとボクは悪魔を身体のどこかに宿しながら生きているから、誰にも知られてはいけない秘密を隠し続ける重みを理解できるのだ。

「ありがとう、真理阿」

 半開きの脱衣所のドアから腕だけ伸ばして樹里にバスタオルを渡すとすぐにボクは踵を返し、テーブルに出しっぱなしの日記帳を片付けてベッドへ潜り込んだ。すぐにペタ、ペタ、とフローリングを裸足で歩く樹里の足音が耳に届く。

「あぁ、いい子だね、真理阿は。先にベッドに入って、俺のことを待っていてくれたんだね」

 掛け布団が捲られて、適度についた筋肉質だけど華奢な肢体を持つ樹里が覆い被さる。ボクは固く瞑った目をうっすらと開けて樹里の姿を確認した。
 切れ長の目を細めてボクを見下ろし、この先の行為を想像して興奮していることを隠すように唇を真一文字に結ぶ樹里。
 ボクは彼の左腕に入っている刺青をちらりと見やる。そこには聖母マリアが宿り、彼女と目が合うと腕を伸ばして彼のマリアへ冷えた指で触れた。

「どこを見てるの? ちゃんと俺の目を見て、真理阿……。俺だけを、見て? 俺だけを……」

 樹里の命令は絶対だ。
 出会った瞬間に樹里から命令を下されたボクはそのときから彼の支配下に置かれた。
 ボクは必然的に彼から逃げられない。脳内を甘く溶かすように命令は駆け巡り、意思とは関係なく身体が従ってしまう。
 世の中にはまだ解明されていないことがたくさんある。どうやら一定数の割合で、「命令」に背けない体質の人間が生まれるらしい。そして特別なパートナーに血を吸われるとこの上ない極めた快楽へ堕ちることができる。
 その体質に該当するボクは誰かに「命令」をされると、勝手に従ってしまう。
「はい……、樹里だけ……」と呟きながら、瞳孔を開いて彼に従順を示す。
 樹里は待ち構えていたようにボクの唇に噛みつく強さでキスをした。
 まだ彼に血を吸われてはいない。13日の金曜日で満月でなければ契りを交わすことができないからだ。

「いい子、とってもいい子だよ、真理阿」

 これが樹里と出会ってから欠かさず続いている金曜日の交わり。感情や恋などそこにはない。あるのは支配と従順。それでも樹里の命令に従っているあいだは何もかも忘れられる。辛くて悲しい事実さえ、消え去るのだ。
 こんな偽りの快楽だけを求める金曜日を今夜で終わりにすると決意できたのは、あの名刺を拾ったから。
 悪魔に繋がるメールアドレス。ボクは真理阿なんていう名前を頂きながら、身体のなかには悪魔を宿している。
 背負う十字架を捨てることはできないけれど、せめて誰かに共有できればと、すがる思いでメールを送信した。
 悪魔同士、絶対、返事が来ると信じて──。

 ***

 待ち遠しかった金曜日。
 悪魔のメールアドレスにメールを送ってから前を向く気力が湧いたのは間違いない。樹里と出会ってからそんなふうに思えたのは初めてだ。
 ボクはいつもの日記帳に、「四月に降る雪を待ちわびて」と書き残し、テーブルの上に置いて部屋で出た。
 金曜日の夜、ボクを抱くことだけを考えながらどこかから帰宅する樹里は日記を見つけたらどんな顔をするだろう。仕事をしているのかも知らない。四つ年上ということくらいしか分からなかった。
 血相を変えて、ボクを探しに来るだろうか。それとも諦めて違う誰かを抱くのだろうか。彼は決して他の曜日にボクを抱くことはない。然るべき金曜日を待ちわびるように樹里は毎週欠かさずボクを抱いた。
 それまでボクは誰かと身体の関係を持ったこともなければ恋人もいない。なぜなら小さい頃に死んだ兄以外、ボクには心を許せる相手などこの世にいないと信じているから。それでも樹里に身体を許したのは命令を下されたからだけではなく、彼の左腕に存在するマリアのせいだ。

 クリスチャンの両親に育てられたボクは四歳年上の兄・英連えれんと毎日のように近所の教会へ通い、祈りを捧げた。お祈りが終わると神父と一緒に兄はピアノを、ボクは讃美歌をたしなんだ。そのうちボクらは他の信者たちに神童だともてはやされるようになり、ミサのときには小さなコンサートを行うようになった。それが小学一年生のころだ。
 ある日、いつものようにボクと兄が演奏をしていると外から「火事だ!」という叫び声が聞こえ、神父に誘導されながら庭へ逃げた。しかし周りを見渡すと兄の姿がなく、ボクは取り乱して神父にすがった。

「神父さま、英連がいません! ボクらと一緒に逃げたのではありませんか?」

 神父が「真理阿はここで待ってなさい」と慌てて、教会へ戻るともはやそこは火の海にさらわれている。神父は煙を吸わないように口元を抑えながら、ボクとそれから他の人たちに建物から離れてと叫び、ボクは泣きながら兄の名前を何度も呼び続けた。

「英連、いやだーっ、離れたくない、英連……っ!」

 兄はボクのことをとても可愛がってくれて、両親が喜ぶくらい仲の良い兄弟だった。いや、それ以上だったはずだ。
 まだ小さいボクは兄と一緒にいると楽しくて嬉しくて離れたくない存在ではあったけれど「好き」という感情を意識していなかった。大人になってから思えば、ボクと兄は禁断の仲であったことには間違いない。
 両親はボクに真理阿という名前をつけたのは女の子が欲しかったからだと想像してやまない。たしかに生まれたときから小柄で顔つきも女の子と間違えられるほどだ。どちらかというと可愛らしい服を着せられることもあり、兄から妹のように扱われることも多かった。
 火事が起こるすこし前から兄は異常にボクを可愛がるようになった。ハグだけでは済まず唇を重ねることもあった。
「真理阿、キス……」と初めて命じられたとき、自分の体質を自覚した。目が回ったかのように、くらりと身体が揺れて、兄の言葉が甘くて全身を暖かい毛布で包まれたように心地よく、感じたことのないくすぐったさと気持ちよさが混じったような感覚に襲われた。
 恐る恐る兄の唇に音を立てるように口づけをすると、頭のてっぺんから足先まで熱くなる。
「……英連、なんか変な感じ」と自分の下半身がむずむずすると伝えると「僕もだよ」と兄は抱き締めてくれた。
 それから両親の目を盗んで、ボクは兄の命令に従い続けた。もし兄が、いまも生きていたら、ボクはきっと兄と身体を交わした上に、契りも結んでしまったかもしれない──。


 結局、教会の火事で兄だけが死んだ。警察は放火事件として扱ったが犯人不明のまま、事故として処理されたと大人たちから聞いた。
 兄が死んでからのボクは生き場所を失った。
 頭脳明晰で優秀だった兄を失くした両親も落胆し、同じようにボクに期待をしたけれど、兄のようになれるはずもなく、高校を卒業するとボクは居心地の悪い実家を飛び出した。
 元々ボクはあの家で要らない存在だ。女の子が欲しかった両親からは期待外れの烙印を生まれながらに押されていたのだから。
 真理阿なんて名前は、ボクにとって男でいる資格がないと告げているようで、余計に男という性に執着するようになった。
 兄に命令をされたい。もう一度、溶けるようなキスをしたい。そんなことをずっと考えながら生きていたが、樹里と出会い、ボクは恋愛感情がなくても命令に従うことで快感を得られること悟った。

「やっと見つけたよ、真理阿……。見てLOOK 、俺だけを」

 そのひとことは兄に命令されたときと同じようにくらくらと目の前が真っ暗になった。気が付いたらボクは初めてを樹里に捧げ、自分の奥深くで彼が果てたとき、左腕に宿るマリアと目が合ったことをいまでも忘れたことはない。

「マリア……さま、許してください……」

 兄を裏切って快感を得た自分を戒めるように許しを乞うたが、樹里のマリアは微笑みを崩さずボクを抱き締めてくれた。
 ただでさえ、実の兄に恋愛感情を抱き、口づけを交わし続けた秘密という悪魔を宿しているというのに、樹里のマリアはそんなボクでさえも優しく包み込んでくれた。この感覚をボクは小さい頃から知っている。それは兄が死んだ教会にあったマリア像と樹里の腕に宿るマリアが全く同じ姿だからだ──。

 小田急線・新宿行の各停に乗ったボクは悪魔のメールアドレスの持ち主に指定された待ち合わせ場所に向かった。
 悪魔のメールアドレスの正体は探偵事務所の相談窓口だった。

『悪魔を宿す人を探しています。 サタンと結託したマリアより』

 いたずらだと思われても仕方がないメール内容だと言うのに、丁寧に返事が来たことに驚いた。

『ご依頼ありがとうございます。私、デビル探偵事務所の藤原直城ふじわらなおきと申します。むかしの知り合いにマリアという名の方がいて、難しいご依頼ではありますが、見逃すことができませんでした。いちど詳しくお話を聞かせてください。御足労をお掛けしますが、事務所までお越しくださると幸いです。四月に降る雪を、待ちわびる探偵デビルより』

 デビル探偵事務所は代々木八幡駅の近くらしいが、わかりにくい場所にあるとのことで、藤原さんが駅まで迎えに来てくれるとのことだった。
 マリアという名前の知り合いがいるなんて偶然にもほどがある。いや、もしかすると外国の知り合いかもしれないし、女性かもしれない。そう考えると決して珍しい名前ではないけれど、とにかく藤原さんに親近感が湧いて仕方がない。
 電車が代々木八幡駅に停車して、ボクは改札に向かうと紺色のカジュアルなスーツを纏い、度が強そうな眼鏡をかけた細面の男性が、ボクを見るなり「マリアさん?」と呼び止めた。

「……どうしてボクだって分かったんですか?」
「いや、その、むかし知っていたマリアにそっくりだったんで……つい」と藤原さんは手で口元を覆った。「間違っていたら、忘れて欲しいんだが、もしかして長谷川真理阿くん?」
「えっ? どうしてボクの名を?」

 探偵だからなのか、それともボクのことを本当に昔から知っているのか。動揺を隠せずにすこし後ずさる。

「実は、仕事というか個人的な事情というか、キミのお兄さんが亡くなった火事について、いまだに調べているんだ……」
「兄のことも知っているんですか!」

 両親から離れたあと、兄のことを話せる相手などいなかったので、ボクは興奮気味に藤原さんの腕を掴んでしまう。

「あぁ、私は英連の同級生で親友だった。彼は……私のことをどう思っていたかは分からないけれど」

 藤原さんの瞳は哀しげに揺れる。そこに映るボクが歪むくらいに。

「えっと、それで四月に降る雪を待ちわびて、とはどういう意味だったんですか?」
「あぁ、それは……、英連が死んだ日のことだよ」

 探偵事務所からの返信メールの文末に『四月に降る雪』と書かれていたことがひどくボクの心を揺さぶった。珍しい現象に鬱屈とした金曜日から抜け出せるような期待さえはらんでいたからだ。

「マリアという名前を見た瞬間、もしかしたら長谷川兄弟に引き合わせてくれたのかなって、一か八かでキミに返事をした。……実は事件の真犯人が分かりそうなんだ」
「兄を殺した……いえ、放火の?」

「あぁ、そうだ」といちど藤原さんは口を噤んで下を向いたあと、再びボクの瞳を覗き込む。

「もし私が犯人を捜し出すことができたら、警察に引き渡したあと、東京から離れようと思っている。探偵事務所もたたんでね。四月に降る雪が見られる土地にでも引っ越してさ」
「……それは東京ではない?」とボクは藤原さんの哀しげな瞳から目を離せずにいる。

「ねぇ、真理阿くん……覚えてる? 英連が死んだ日、京都では珍しく四月に雪が降ったってニュースがやっていたんだ。英連が死んだ火事のニュースをあっさりと読み上げたあと、すぐにね」

 彼の瞳はさきほどよりも深く淀み、ボクが彼の腕を掴んでいる手に自分の手のひらを重ねた。

「とりあえず、事務所へ行こう。キミには話しておく必要がある」

 藤原さんに手を引かれて事務所へ向かう途中、背後からペタ、ペタ、とフローリングを歩く樹里の足音が聞こえた気がした。当たり前だが、ここはアスファルトだ。フローリングのわけがない。ボクは幻聴だと顔を左右に何度が振った。


 藤原さんの言うとおり、ひとりでは迷ってしまいそうな雑居ビルに探偵事務所はあった。四階まで階段で登り、辛気臭い事務所で藤原さんが突き止めたという犯人像の話を聞いた。彼の声が途切れると電車の走行音が建物のなかまで響き渡る。

「どうやら犯人は、当時、真理阿くんか英連に異常な執着を抱いていたようなんだ。まぁ、キミたちはあの教会の神父にとっても愛されていたから、妬まれても仕方はないかもしれないが……」
「そんなことはないです。もてはやしたのは神父さまではなくて、他の信徒さんたちで。神父さまは誰にでも優しかったです……」

 藤原さんは、そうか、と溜息をついて続ける。

「犯人は誰にでも優しい神父を許せなかったんじゃないかな。キミたちのことも神父に寵愛されていると勘違いするくらいに」
「なぜ、そんなに?」
「犯人は神父と密接にあった女性の子供らしいんだ──」

 静寂を許さない事務所には何本目かの電車が通り過ぎる音が入り込んで地鳴りのように建物が揺れる。

「そしていまは自ら神父になり、下北沢周辺の教会にいるらしい。ここまで分かっているならば、一軒、一軒、教会を周って探そうと思っている」
「……名前は、分からないんですか?」

 あの優しかった神父に隠し子がいたことにボクは動揺した。もしかするとあの火事は神父に十字架を背負わすための炎だったのではないかと。

「まだそこまでは……。もしかすると偽名を使って生活しているかもしれない。事件当時は子供だったはずだから、本名のままでも分からないかもしれないが。ただひとつだけ身体に特徴があって──」

 藤原さんが核心をつく言葉を言いかけた瞬間、事務所のドアが激しくノックされた。古びたビルだからその勢いで壊れてしまうのではないかと心配になるくらいに。

「……誰だ!」

 ドアに向かって藤原さんが叫びながら近づくとドアを叩く音は鳴り止んだ。

「真理阿くん、私はいろいろ知り過ぎてしまったから、誰かに狙われていてもおかしくはない。キミまでも危ない目に合わせたくないから、ここから逃げよう」

 ペタ、ペタ、という樹里の足音がボクの耳奥でこだまする。
 今日は金曜日。樹里に抱かれる金曜日。彼との言いつけを破って部屋を飛び出したボクへのお仕置きかもしれない──。

「違う、藤原さんのせいじゃない、ボクが……ボクが……約束を破ったから……!」
「どういうことだ? もしかして真理阿くんは、誰かに……支配されているのか?」

 藤原さんは見えない樹里の姿に怯えているボクを見て、胸を衝かれるように後ずさる。ドアの向こう側は静まり返ったままだ。

「実は……私も支配される側の人間なんだ」と身体を震わせる。「そんなに怯えているキミを救いたいと衝動的に思ってしまうのは、やっぱり英連の弟だからかな……」

 そう言って彼は両手を合わせて祈るように震えるボクに手を差し伸べる。

「もし英連を殺した犯人が判明したとしても、私はどう向き合えばいいか、まだ答えが出ていないんだ。警察に報告をして、逃避行のように私はこの土地を離れることしか思いつかなかった。犯人に仕返しをしたいのか、罪を償って欲しいのか……。何をしても英連は戻ってこないから、意味がないのではと堂々巡りばかりで決めかねている」

 藤原さんの瞳には涙が溢れて煌めている。ボクは彼の差し出した手のひらを掴もうと腕を伸ばす。

「真理阿くんは、英連を殺した犯人が目の前に現れたら、どうする?」
「……どうって。許せないです。自分がどうなるか分からないくらい怒りが込み上げるかもしれないし、何も言葉が出ずに、震えているだけかもしれません」

 いままで兄が誰かに殺されたということを考えたことはなかった。むしろどこかで兄がそばにいないことに安堵している自分もいる。悪魔の棲む沼へボクは堕ちていたかもしれないのに、それでも兄の命令にもう一度従うことができるのならば、ふわふわで甘く溶けるような口づけをまた、もらえるならば、と欲望に目がくらんでしまう。
 欲望に支配される関係を歩もうとする自分は罪に値するかもしれない。
 兄の命令に従い続ける人生だったら、ボクはどうなっていたのだろう。罪を代わりに被ってくれる人物がいることに、恐怖なのか快感なのか分からない震えが止まらなかった。

「藤原さんは、どうして真実を知ろうとしたのですか……」

 それは……と言葉に詰まりながら、彼の頬に涙が何度も伝う。

「私は英連と主従関係にあったと思うんだ。まだ主従なんて言葉は分からない十歳のころだけれど。彼の下す命令に触れるたびに身体がじわっと熱くなったことをいまでも忘れたことはない……。だから死んだと聞いたときは、もう二度と彼に従えない苦しさで部屋から出られない時期があった。もし生きていたら、いつかきっと英連は私と契りを交わしてくれたのではないかと思うと、事故という結果を受け入れらなかったんだ……」

 哀しみと愛しさが混じる表情で語る藤原さんの言葉にボクは愕然とする。
 兄が藤原さんにも命令を下していたなんて……ボクだけが兄の命令を独り占めしていたと信じていたのに。ボクだけが兄と契りを交わすことができると思っていたのに──。

「ボクだって、たくさん英連の命令に従ってきたというのに……。どうして、英連……。ボクだけじゃないってどういうこと? キスだってしたんだよ?」

 キスという命令に藤原さんは肩をぴくりと震わせる。親身に投げかけてくれた視線も鋭くなるくらいに。

「……英連は罪深いな。私だけでなく、キミにも悪魔を宿すような期待をさせていたなんて」

 彼は泣き声で途切れながら叫ぶと再び事務所のドアを激しく叩く音が響いた。さきほどよりも強く、拳ではない鈍器のような物で叩いている音だった。

「誰だ! 狙うなら、私だけにしてくれ!」

 ドアの外に向かって叫んだ藤原さんは再びボクのほうを振り返る。

「犯人は左腕にマリア像の刺青がある。もしこのドアを叩いている人物にそれがあったら、間違いなく私を狙いに来たのだろう」

「……マリア像の刺青」とボクが唇の上で呟くと樹里の腕で微笑むマリアが瞼の裏に現われる。
 藤原さんはスマホを取り出して、警察を呼ぼうと110番を押した瞬間、ドア上部の窓ガラスが一気に音を立てて割られて、角砂糖の塊のように粉々にガラス片が辺りに飛び散った。

「あぁ、真理阿、こんなところにいたんだね。やっと見つけた……」

 ガラス片が顔をかすめたのか、頬から血を流しながら、割れた窓ガラスから顔を覗かせたのは樹里だった。まだ春だってやってきていないというのに、タンクトップ姿でまっすぐボクの瞳を捉えている。

「ねぇ、真理阿、今日は金曜日だよ。悪い子だね、俺の前から勝手に居なくなるなんて」

 剥きだしの左腕にはやっぱりマリア像が微笑んでいる。樹里の血で赤く染まった彼女の姿から目が離せない。

「見て? ちゃんと俺の目を見て、真理阿……」

 開かないドアノブをガチャガチャと激しく回しながら樹里はボクに命令を下す。くらくらと目の前がぼやけて瞳孔が開いてしまう寸前に見たのは彼の首から下げられたロザリオだった。ボクは樹里のそれを初めて目にした。

「ねぇ、雪なんて違う曜日に見ればいいじゃないか。帰ろう、真理阿……」

 血だらけの腕を割れた窓ガラスから差し出す樹里。ボクはがたがたと震えながら一歩、一歩、ドアに近づいてしまう。

「──どうしてマリアの刺青なの?」

 それはボクが樹里に初めて命令に従って、抱かれた金曜日に問うたこと。

「これはね、俺が一生背負う十字架を誓う相手なんだ──」

「……樹里、なのか?」

 藤原さんの姿など目に入っていなかった樹里がようやく存在に気づいたのか、彼を思いっきり睨みつける。

「英連を殺したのは、樹里、お前なのか?」

 壊れたドアの鍵を開けて、樹里の胸ぐらを掴み、藤原さんは問い詰めた。樹里は「誰だ」と小さく呟く。

「覚えてないのかよ。藤原だよ、お前と英連と同級生の、藤原直城だ」

 英連の名前を聞くと目が覚めたような表情の樹里はその場に膝から崩れ落ちた。ロザリオを握りしめて這うようにボクの方へ近づく。

「英連の名前を聞きたくない……。アイツの呪いから真理阿を助け出したのは俺だ……。獣のような神父に愛された英連が、美しい声で歌う真理阿まで支配することを許せなかった。獣の子供として、この世に生まれてきてはいけなかった俺の、唯一の光。それが真理阿なんだ」

 じりじりと床を這うように近づく樹里の目は血走っている。

「獣の父、そしてそれを狂ったように愛し続けた母も俺を必要としていなかった。誰からも愛されない俺さえも真理阿の歌声は優しく語りかけてくれた……」

 ゲレンデのロッジで出会ったときも樹里はボクに歌声が好きだと言っていたことを思い出した。ボクが自主盤でリリースした音源を彼が持っていたことに驚いたことをよく覚えている。

「俺だけに歌って欲しい、俺だけの言うこと聞いて欲しい。支配の仕方しか分からないから真理阿を何としても従わせたかったんだ。でも真理阿はいつも英連に従っていた。あのときからいまでもずっと、俺の存在など目に入っていないんだよ、真理阿は!」

 樹里は血だらけの手のひらでボクの足首を掴む。

「英連は真理阿や藤原だけではなく、他にもたくさんの人を支配しようとしていた。……俺はそれも許せなかった」
「最初から英連を狙っていたのか?」
「結果的には英連だけになったが……もうすべてなかったことにしたかったんだ。俺が生まれたことさえもすべて」

 藤原さんは「ふざけんな」と床に這いつくばる樹里の背中を踏みつけようと足を上げた途端、パトカーのサイレンが遠巻きに響く。踏まれそうになっていることに怯えることもなく、ボクを一心不乱に見上げている樹里に彼は足を下ろすことができずに、クソッと舌打ちをした。

「……これで私の役目は終わりだ」

 瞬く間にサイレンの音が近づく。樹里は慌てるそぶりもなく、床へうつ伏せになったまま顔だけボクへ向け続ける。

「……真理阿、一緒に帰ろう。今日は13日の金曜日。ほら、こんなに血が溢れるのは満月を迎えたからだね、きっと」

 悔しさで憤る藤原さんをあざ笑うかのように樹里は左手をボクに伸ばす。くらりと瞳孔が開くのが分かる。もう兄を裏切ってしまったからには、ボクに残された道は樹里と契りを交わすことなのかもしれない。血を吸われ、彼の所有物として快楽を一生得ることができる世界へ。そこに宿るマリアはボクのことをどんな表情で抱き締めてくれるのだろうか。
「はい……ご主人さ……」と言いかけると藤原さんはボクの手を引いて事務所の壊れたドアから外へ連れ出した。

「真理阿ぁ! 俺の、俺だけの真理阿ぁっ!」

 樹里の叫び声が耳に届いたあと、藤原さんはビルの階段を下りながら言った。

「キミの主人は、英連だけなんだろ?」

 くらくらとしていた脳みそが正気を取り戻す。

「私の主人も、英連だけだ……。だから一緒に行こう、四月に降る雪を見に……。誰の命令も届かない場所へ」

 パトカーが到着すると警官が数名、古びた雑居ビルへ駆け足で向った。ボクと藤原さんもスーツを着た刑事とパトカーに乗りこんだ。


 ***

 樹里の命令から逃れた金曜日から何度目かの春が過ぎ、再び四月に雪が降ると天気予報は告げる。
 空が霞み、柔らかな光が床へ差し込んでいる。

「真理阿、手紙が届いているぞ」

 山に囲まれた盆地では、夏はひどく暑く、冬はたくさんの雪が降る。京都の街に最初は戸惑うことも多かったが、いまは穏やかな金曜日を送ることのできるマンションで藤原さんと暮らしている。

「誰からだろう?」

 差出人の名前はないが、消印は東京の地名だ。
 封を開けたボクは悲鳴さえあげられないほど驚いて封書ごと床へ落とした。

『真理阿、どこに消えても、俺は一生、キミの主人だからね。もう少しだけ待ってて。
必ずまた金曜日に迎えに行くから、今度こそ、13日の金曜日、満月の夜、キミの血を吸うからね──』

 番号だけで呼ばれる世界から届いた封書。同封された血塗られたロザリオが床を汚す。
 悪魔を宿した神父が叫ぶ金曜日。今夜は月が満ちて、輝く。

【悪魔を宿すマリアの残痕 おわり】


※ここから先は、小説のあとがきと浜野の近況などです~!

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最後まで記事を読んでくださってありがとうございます。 読んでくださった方の心に少しでも響いていたら幸いです。