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眠って休んで、地に足がついた

正常だった精神が悲鳴をあげた頃、足元がなくなるような感覚があった。それまで自分が立っていたはずの地面が、ガタガタと音をたてて?あるいは砂時計の砂のようにあれよあれよと無くなった。浮いているのか沈んでいるのかもわからないし、とにかく足元がおぼつかない。心の不安定さはまさにそんな様子だった。

最近はすっかりよくなっていたのだけど、予告もなしに暗雲が立ち込めることもある。
でも、深く落ちていくことはない。
ただ、今回は泥沼を歩いているようだった。下を向いてばかりでは足をとられたまま、はまってしまうことはわかりきっている。だから一生懸命空を見上げるのだけど、自分で這い上がろうという意欲が沸かない。
きっと歩き方はあるはずなんだ。これくらいの泥沼から抜け出す人はザラにいる。
でも、羽があったら…、誰かが救いの手を差し出してくれたら…、そんなことばかり考えて、自己嫌悪。

寝ても覚めても思考がぐるぐるしているのに、まともな考えは浮かんでこない。自分の環境は幸せだ。だけどそれを感じられない。今、これを幸せというならば確実に他人軸だ。一般には幸せといえる状態を自分で認識しているに過ぎない。いや、そんなことを考えている自分はなんて傲慢なんだ。
行ったり来たり、結局同じ場所から抜け出せずにいた。

もう、とにかく寝ることにした。
医者にも「ゆっくり休んで」と「運動して」はよく言われるのだけど、この状況は休む方だ。
だって一日中眠たかった。散歩していても、薬を飲んだ時みたいに頭がポーッとしていたし、歩いているんだ浮いているんだかわかりゃしない。
やる気なんかどこに置き忘れたのかさえ思い出せなかった。
だからこたつで昼寝もしたし、風に吹かれてベランダでも昼寝をした。
夜も早く寝た。
夢でも思考が止まらなかったけど、とにかく目をつぶって寝た。

そしたら、ふきんで幸せを感じた。

なんのこっちゃ。一気に話が飛んでしまったようだけど、Spotifyでドリカムを流し、歌いながら夕飯を作っていたら、急に“陽”の気配がやってきた。
野菜を刻みながら、高野豆腐を戻しながら、ほうれんそうを湯がきながら、最近感じていなかったちょっとした“フワッ”が来そうな予感があった。

胡麻和えの味付けがばっちり決まって、なんとなく新しく買ったふきんをおろそうと思った。
水通しはしてあったからすぐに使えたのだけど、あら不思議、スッと水分を吸ってくれたのだ。不思議でもなんでもないんだけど、思ったよりもスッと吸ってくれたことに感動した。久しぶりに心が動いたのを感じた。「うほっ」可愛くもないけど、こんな感じ。

頭でいろんなことを考えすぎて理屈こねくり回しまくったけど、そうじゃない。土台はきっと体だったのだ。

『「やろう」と決めたことをきちんとやりぬくには、「心」ではなく「体」を整えた方がずっと近道。』これは一田憲子さんの言葉だけど、これがしっくり来た。やるもやらないも、やる気自体が起こらないのでは始まらない。
前向きに物事をとらえる、現実を見る、正気を取り戻すにはまずは体が整わないことには土俵にさえ上がっていないのだ。しっかり休んだことで、土俵には立てたみたいだ。

幸せを感じられないのは、体がその段階にない状態だから。
体が整えば、心が整う準備もできるということ。
それは足場のない暗闇でも、泥沼でもない、地にやっと足がついたということかもしれない。

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ちなみにふきんは中川政七商店の『かや織り掛けふきん』というもの。
2枚重ねの『花ふきん』とともにお迎えした。5枚重ねの『かや織ふきん』よりも薄いものがいいなとわがままと言っていたら発見した。
オンラインショップを見たら現在取り扱いがなかった。店舗でも少なかったから、なくなってしまうのかな。お気に入りになりそうな予感があったのに、ちょっと複雑。

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