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産むこと、生まれること。

去年の日記を見返していたら、こんな記事バズってたわっていうのを思い出した。
読んだ当時は、生物として子を産むことは義務である、というふうに考えていたらしい。

今改めて読んでみると、生物として子を産むことは義務であるという気持ちは変わらないものの、かといって今の生活をひっくり返すような「妊娠・出産」というイベントに喜び勇んで足を踏み入れる気持ちにはなれない気がした。

でもたぶん、私は可能なら子を産むだろうと思う。子を産まないと後悔しそうという気持ちもあるし、子を産むことを躊躇う理由である「今の生活」を今後ずっと価値あるものとして過ごしていけるだろうか?と懐疑的だから。

そして、私はごく普通の家庭に生まれたわりとスタンダードな人間だから、今の時代のスタンダードである「結婚して子供を産む」という流れに沿った方が自分の人生に対する満足度が高くなるだろうという理由もある。

生きづらさは淘汰されるべきなのか

発達障害や特性、得意なことや苦手なことによって、この世界の生きづらさは大きく変わると思う。他者との関わりで社会を形成し、また生きる意味を見出すのが人間という生き物だから。あまりにも「変わっている」人たちは社会からはじかれる。多かれ少なかれ。
でも、はじかれる人たちは淘汰されるべきなのか。発達障害は子供を産むな、発達障害だから子供を産まない、そんなふうにその遺伝子は淘汰されていいものなのか。
はじかれる側に生まれてきたほうは苦しいことばかりだろう。私もあと一つ二つネジが飛んでればはじかれる側の人間だから、少しだけ分かる。でも、そのある意味劣っているようにも見える遺伝子は本当に淘汰してもいいのか。

現時点で淘汰されていない、ということはそんな障害や特性を持ってても産んできた人がいるから。ただ、時代的にも障害や特性と思っていなかったのかもしれないな。でも、ただ劣った面ばかりしかなかったのなら、とっくに絶えてるんじゃないかと思う。今も存在している、ということは、その障害や特性は場合によっては必要になる時がある。もしくは、人間という種が生き残るために必要だった時がある。

産むこと、生まれること。

上橋菜穂子著「獣の奏者」の主人公エリンの台詞で「たとえ生まれる前からこんな人生を生きるのだと知っていたとしても、生まれてこなければよかったなんて思わない。生き物は生を選べない。生まれ落ちたところで生きていくしかない。」というものがある。
「生まれてこなければよかった」と「産まなければよかった」はどこか似ている。生まれるのは選べないが、産むことは選ぶことができるのが大きな違い。でも、結局同じようなものなのだ。
生まれる前は生まれたあとのことは分からない。産む前は産んだ後のことは分からない。分からない中で選ぶことは、選べないことと同じくらいどうしようもない事案が発生する危険を孕んでいる。

ただ、成長したいと思う。
子を産んで、自分だけが生きていければいい世界から、守るべきものを守り、与える世界へ。
生まれは選べないし、選ばせることはできない。ただ、私は選んで産みたかったんだよと、言えるようになりたい。

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