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関係人口への違和感

当方、田舎生まれ田舎育ち田舎在住の26歳。

昨今、関係人口とかいう言葉を聞くようになった。田舎と都市部での2拠点生活や普段は別の場所に住んでいるがたまに地方に遊びに来る人、を関係人口と言うらしい。旅行者よりも深く地域と関係を持つというようなイメージだろうか。

友だちが普通に遊びに来てくれたら嬉しいのだけど、ビジネスと承認欲求の匂いを漂わせた人たちに関係人口という感じで来られるとどうしてかモヤついてしまうのはなぜなのだろう。

関係人口と名乗る人たちにとって地方は日常っぽく見せる非日常であり、住民にとっては生活の場であり時に苦しい日常であること。
非日常の楽しみを享受しながら、まるで地方に住んでいてこれが自らの「もうひとつの」日常であるかのように思い込んでいる、そんな人たち。
住むとたまに来るは違うやろ、と思ってしまう。拠点が別のところにあって、いつでも帰れる人は違うやろ、と思ってしまう。ここが生活の場で、自分の日常である人は、そう簡単にここから逃げ出せない。田舎に住むことは時にダルい。
いつでも自分はいい環境に戻れるそんな状態でリレーションを結ぼうとする。ふわりとした属性のまま、自分の行きたいところに自由に行くことは、田舎では難しい。
それが不満な訳ではなく、そういう難しいところを体感しないまま「田舎の良さ」を語ることが許せないのかもしれない。

田舎で、結婚して子供が生まれてやっとよそ者が受け入れてもらえる感じがするのはここに起因していそう。「根付いた」感じがするから。覚悟を決めて田舎に住むことがわかるから。家まで建てたらもう確実、ってところだろう。でもそんな、目に見える形の覚悟が大事なんだと思う。

こんなふうに考える田舎の人が嫌いだった。結婚して、子供産んで、家建てて1人前。でも、それは自分の人生の覚悟を決めるということと同義なのだ。覚悟を決めていない人に、人は信頼をくれることはないのだ。

能登半島地震で奥能登出身の人が、地元の祭りをなくさないでくれと訴える投稿をしていた。

ただ、その人は都会に住んでいて、祭りの時だけ地元に帰る。そんな距離感の人。引用リツイートで「外野は黙っとれ」というようなポストを見た。なんか、ちょっとその気持ちが分かってしまった。

田舎に住む苦労もしてなくて、あなたの愛する田舎を維持する苦労もしていないのに、有事の際にはなぜ「素晴らしい私の地元を守ってほしい!そのために私は呼びかけます(呼びかけるだけ)」とか言えるのか。そのあなたのアイデンティティは、地元は、あなたの努力で維持されているものでないのではないか。誰かが維持しなければ、地震が起きなくたってなくなってしまうかもしれないのに。
出身地ってアイデンティティの大きな土台になりうると思うけど、出身地が思い出のまま維持されているはず(誰かの手によって)っていうのは甘いよ、って思ってしまうのだ。

このままでは田舎は衰退の一途を辿ってしまう、今の状況を変えなくては、と思っている人は、実は田舎にはそんなに多くはいないのではと思うことがある。案外普通に暮らしているし、衰退しているのは田舎だけではないのだから。

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