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【日記】暗い部屋で「人間失格」を読む

まえがき

言わずと知れた太宰治の「人間失格」ですが、僕は未読であります。

僕は、太宰治の作品をほとんど読んだことがないのです。ほとんど、と付けましたのは、まあおそらく義務教育中の時間の中で、幾たびか目にしたことはあるのでしょうけれど、まさに目にしたというだけで、読んだことは無いのです。

本を読むこと自体に興味がなく、どちらかと言えば苦痛を感じていた幼少期ですから、自ら本屋で買って読むなどと言うことは、僕の子供時代には考えられない、自分という神の教えに背く、反狂信的な行為であったと言えます。それでいて、少しの憧れを含んだ、夢のような行為でありました。ただなんとなく、自分の領分ではないような、神聖さのようなものを感じていたのでしょう。

それでもこうしてnoteを書き始めて、少なからずですが、文学と言うものに自ら触れていくようになるわけですけれど、触れたいと思うその対象は、いまのところ全てが海外文学のみなのです。(映画も洋画しか観ません) 海外文学に見える異界との繋がりと言いますか、非日常のような体験を得られる気がして、それが僕を惹きつけているように思います。そういう神秘的とも言えるものによって、僕という矮小な存在は形成されている(僕は生かされている)わけです。つまりは、日本文学にはない何物かに惹かれるのです。(何も知らない僕が言うのもなんですが)

今回、太宰治の「人間失格」を読むきっかけですが、大したことはありません。この記事の表題にあります通り、これから暗い部屋で読むわけです。読もう、という衝動よりも、暗闇で読もう、という衝動に駆られた先に「人間失格」があっただけの事なのです。暗い、から連想して真っ先に浮かんだのが「人間失格」だったというわけです。

読書嫌いと言う性を持って生まれてきた僕ですから、「人間失格」が初めて触れる日本文学と言っても間違いではありません。(僕は、自ら進んで読むことを読書と呼んでいる)

「人間失格」は太宰治が自らの体験を元に書いた物、だという知識と、これが最後の作品、だという知識だけは持っています。

では、読んできます。

※内容に関して評価するでもなく、深い考察をするでもなく、気になる文章を挙げ、たった、少しの感想を添えるだけです

※マウススクロールする指のストレッチをしておいてください。写真が続きます



こんなにもピンクなことあるかね

三葉(みつば)……?さんよう、か

小説を読み出すと、たびたび、日本語の壁にぶつかる。 バカの壁、露呈、だども、誰にも気づかれない、それがいい。ひとりの時間とはそうでなくては。

こういう表現の仕方、好きですね、僕は。

その言葉の意味を、面と向かって、探究心に躊躇なく問い詰めてくる子どもに聞かれましても正確に答えられない、と言いますか、涙でおぼれるだとか、魂がこぼれそうだとか、そういう言葉遣い、好きですね、僕は。

この使い方も、好きですねえ。

文章を書くなら、「お茶目。」の部分を省いてそのまま続ければいいんですよ。(つづければいいのに) 

この、「お茶目。」からは、話し出す前に思わず口から出た、風な様子を感じられます。

とまあ、好きに理由を付けてみましたが、本当のところは、「なんかいい」で納まるんですよね。感想なんてのはそんなんでいい気がします。

変わった者だなあと思わせつつも、どこか親しみやすさがありますね。

共感できる、とでも言えばいいんでしょうか。自分の話をしているのでは、と思う瞬間がいくつもあります。

歌でもありますよね、これ私の歌だ、なんてのが。それに近いものがところどころに見受けられる気がします。

僕の中に、人間らしさとずれたところにあるかっこよさ、に対する憧れがあるからでしょうか。

自分とは違うけど自分でもある、そんな作家なんですかね、太宰治ってのは。出会ったばかりなので憶測ですけれども。

おもしろい。

感心する面白さには、嫉妬よりも、脱帽の言葉が似合う。

死の瞬間にこそ幸福がある、死があるからこその生、そういう死生観??なのでしょうか。

いや違うな。単純に読めばいいのだ。

殺されたい願望を自分が叶えてしまう、ということか。

気を抜くと、今(現在)の自分の思想に持っていかれてしまう。多様性とは客観視。気を付けねば。

はて、どういう意味??

伽藍だけで良くないか??…どうもこれは自分の中の「憂鬱」の意味が曖昧なのが、理解できない理由だろう。

憂鬱‥‥気が晴れないこと。 心配事があって心がふさぐこと。

なるほど、惚れるは悩まず、愛は悩ませる、なるほど。あれだ、アイドルに対する愛と恋人に対する愛のようなものだ。僕はしばしば、それらの愛が混同することがあるが。

メモっとこ。

ここ、凄いな……




凄いな。






え~。ありなんだ、これ。

ありだな、凄い、と思ったもの。

本当に見えていたのかもしれないね。例えば窓に柵がしてあって、番いでもなんでもいいですけれど、こんなふうに(絵見て)、飛んでいたのなら、僕でも「女」に見えるでしょう。

親に入塾をすすめられたあの日の僕と同じだ。

「 () 」の中でこんなに長く語ってもいいのだな。

実際のところ、LINEアプリでも、「 () 」の内容が一番伝えたい事だものなあ。

本心は「 () 」の中にある、と言うものなあ。(言わない)

「愛」の能力ねぇ、ふーむ。「愛」の形によるんじゃない?

かっけぇ…

↑↑↑アブサン。家にあった

おもしろい。

気付いちゃったんだね~。

僕は気付いていながらも、良くも悪くもこの思想に振り切れていないので、他人とは自分じゃないか、という、思考が頭を巡っていて、実に生きにくい世間を渡っているよ、太宰さん。

へっ。

この人、おもしろい。

なんだか、総集編、を見ている気分だ。

太宰治の凄さなのか、はたまた僕自身の共感(エンパシー)能力によるものなのか、たった一文に秘められた世界の大きさに、周りの音が鮮明になる。

養護教諭と学生の同人誌、みたいだな。

え~、なんだろう。「正解」かな。

いいね、いいね。

メモっといてよかった。

凄いね。

君たち(太宰治作品経験済みの者)が我々(太宰治知らず者)より威張っている理由が分かったよ。

今日を境に僕は、知る者、になるわけだが、これからも知らず者に対し威張ることはしない、が、一段高いところにいる気にはなるだろう。と言うより、ひとつ多く、影が増えた、とでも言うべきか。

あれ、終わった。

ここで終わり?

あらー。

終わりました。

あとがき、もセットか。

なるほど。

なる。(なるほどの略)

朝。

よーし。

でかけるか。


ということで、三鷹市にやって来ました。

太宰ファンなら聞き覚えや馴染みのある三鷹。ここには、かつて太宰治が家族と暮らした自宅を、実寸で再現した展示室があります。

展示室の名は「三鷹の此の小さい家」

JR中央線三鷹駅南口デッキを直進し、コラルと言うビルの2階入り口から入り、目の前のエスカレーターの乗り、その先のひと気のない角の方へ進むと階段がありますから、それを上っていただき、先ほど見せました赤茶色の扉を開けますと、辿り着けます。

扉を開ける勇気さえありましたら、あとは心配ありません、道なりです。(藤原道なり)(ふじわらのみちなり) ボソッ

展示室の入り口付近には警備員さんがいます。ほんの小さな展示室ですが、制服に身を包む人がいるだけで、貴重な物が見れると期待できますよね。(見れます)

受付でいろいろもらえます。「スタンプラリーもありますので良かったらどうぞ」と言われますが、半強制的に押させられました。「そこのそれをギュッと押して、あ、インクはついてるから…」あれよあれよと押印させられし。

うまく押せたことを褒めてくれたので、まあ悪い気はしませんでしたよ。そのまま何かしらの契約書に印でも押したろか、くらいには良い気分でした。

家の中に入るような作りなので、思わず靴を脱ぎそうになりますが、土足で大丈夫です。展示は撮影NGですが、畳みの部屋(ここでは靴を脱ぐ)だけは撮影が許可されています。

掛けてあるコートは、自由に袖を通すことが許可されています。(ひとりで訪れた僕はその欲を叶えることができず)

通常の展示だけでなく、定期的にこういった企画展も行っているようです。

現在開催中のものでは、作・太宰治の肖像画を見ることができます。「人間失格」読んだ直後でしたので、けっこうな時間を見入(魅入)ってしまいました。

ちなみに、無料です。

展示室は小さなものなので、急げば5分もかからず見終わってしまいますが、是非。


突然ですが、問題です。フロアに置いてあるこの銅像の題をお答えください。



~シンキング~



正解は


三鷹駅南口を出ますと、すぐのところから玉川上水が見えます。

これに沿って歩きますと、井の頭恩賜公園に辿り着けます。この日はせっかくですので、歩いて隣の吉祥寺駅に向かうことにしました。

生い茂って水路はほとんど見えません。

たまに亀がいます。この時期だけの存在なので、来た際には目を凝らしてください。

写真の場所は、だいたいこのあたり

柵があるので安心です。昔~は、水の流れの強い水路だったそうですよ。

そして、この通りには基本的に、何もありません。

何もないからこそ、一緒に歩く人と会話を楽しめます。

カナチョロだ~。

上水側を歩く人はほとんどいません。ですが僕はいつも、こちら側を歩いて吉祥寺に行きます。歩いてみるとわかりますが、誰も歩いていない道を歩くというのは、自分が間違った行為をしている、という錯覚との勝負です。

ほんの小さなちなみにですが、僕は三鷹に住んでいたことがあります。

さて、小さな虫がウヨウヨしている水辺ですが、観光の際には是非、上水側を歩いてみてください。

沿いを歩いてますと、柵に「せ」と書いてあるテープを目にします。点々とあり、その意味は分かりませんが、この「せ」を使った遊びを紹介しましょう。

「筆跡同じゲーム」と名付けておきます。

この「せ」、一見、先ほどの物とは違うようですが、最後の払いなんかが同じでしょ? ワンペアです。

連続して同じ筆跡のテープが並んでいることは無いので、記憶力ゲームだとも言えますね。

ちなみに僕は初めてプレイしました。

直進。

分かれ道です。左に行けば吉祥寺、右に行けば三鷹の森ジブリ美術館(要予約)、僕ははじめて直進を選びました。

カラスだっ。


土の道が続きますが、ここはランナーの通り道となっているようで、踏みしめられ、固められ、歩きやすいです。

赤いコーンが戦闘を挑んできました。

まんまと上を向いてやることにしました。

何も落ちてきませんでした。木に見下ろされているような、そんな圧倒的な自然からの、思い込みの恐怖だけが降りかかっただけでした。

本当の闘いだったら、戦意喪失していたでしょう。(危なかった)(危なかったとは)

たまに見ますよね。木に白の、ハチマキ。

誰が、何のために、木に気合いを入れてやっているのか。

先に進むほど、ランナーは少なくなる。

そうだろう、誰だって公園付近の、湖の周辺を走る方が気持ちがいいと感じる。

きっと、ひとりになりたい、本当の孤高のランナーだけがこの道を通るのでしょう。

踏み慣らされていないからか、気合いが入っているからか、こうしてランナーの痕跡が見受けられます。

また進みますと、今度は、自転車や学生で固められた土へと変わります。

大きな木が道の真ん中におりましたので、わきの下を失礼しました。(左側を通りました)

竹林エリア。

細い小さな細小道(ほそこみち)に対しての大きさが見合っていないでっかいカーブミラー。

盗まれたタケノコ。

象みたいな切株。(まるで水浴びをする象の姿に見える切株があり、写真を撮ろうと思ったのですが、その瞬間、後ろから無音のおばあさんが現れたことに驚いて、平静を装うことにいっぱいで、撮り損ねてしまいました)

ほぼ無心で歩き続けました。その姿はまるで、無目的な徘徊者。精神的な修行者。無感動な幽鬼。

一歩でもいらぬ場所に踏み込んでしまうことを拒否するかのような懸命さで、ただ足を動かしました。

そうしているうちに、必要な場所へ到着できるかも知れないからです。到着できなければ、ずっとこのままだ、なんて恐怖は微塵もありません。

そりゃそうだ、何も考えていないのだから。

道が続いていれば進む、生まれついての冒険者であります。

ハジからハジまで来ました。

帰りましょう。

来た道を。

冒険者というのは、物語の最後には故郷に帰るものです。

観光などせず、道草もくわず、帰りを待つもののため、同じ道を、同じ道を。

いざっ。

なんてことはせず、疲れましたので近くの久我山駅まで歩き、京王井の頭線で吉祥寺へ。

やはりその土地に住むものには見透かされてしまうのでしょうか、初めてこの道を歩く僕を、すれ違う皆が、よそ者を見るような目で見てきている気がしてなりません。

僕以外は、その土地の香りを身にまとっていましたし、明らかに、僕だけが違うという気配を感じました。

この感情は日本語で、気のせい、と翻訳されるそうです。



さて、いま僕が住んでいるところも中央線沿いなので、いつでも吉祥寺には行けるわけです。いつでも、ですが、普段から休日を避けています。

そんな僕がどうして、わざわざGWに観光名所である吉祥寺にいくのかと言いますと、それはまあ、お祭り、を見に行くようなものだとお考えください。決して、事故現場に集う衆、とは違うのです。

お祭りを傍から見て楽しもうという魂胆で向かったわけです。

吉祥寺。



写真はイメージです

うわ~~~~~ はだか祭かい!(尾張大国霊神社(愛知県稲沢市国府宮)の奇祭)

人が蟻のようにうじゃうじゃとからまりあい、水気を失ったミイラが、萎びてさらに崩れながら、緩慢にのろのろとうごめくような混雑さは、服を着たままプールに入った時の、あの緊張と戸惑いに満ちた感覚を、僕に思い出させました。

命からがら観光し、(観光はするんかい)

帰宅。

吉祥寺にて、一冊の本を買いました。

「晩年」です。



最後に

僕は、太宰治の作品を読まなかった過去のことを、今、少し後悔しています。

もし読んでいれば、もっと「人間失格」という小説を深く味わうことができたかもしれないからです。

しかしそれはまた、僕の人生において必要な時間であったのかもしれません。


シャワー浴びる前に、ちょっとだけ読むか。ちょっとだけ。

パラ
パラ
パラ
パラ

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