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パリのメーデーに参加してきた話

万国の労働者よ団結せよ!
私腹を肥す資本家を倒せ!腐りきった資本主義を打倒せよ!


読者諸兄はメーデーというものの存在を知っているだろうか?
日本では影が薄いこのイベントだが、要は労働者の祭典である。
毎日満員電車に揺られて出勤し、低賃金で資本家にこき使われ、家に帰ってコンビニ弁当を食べて眠る。そんな万国の労働者たちが自分たちの職場環境を改善すべく賃上げ要求や待遇改善を求めて一同に会して街を練り歩くデモを大々的に行うのがこの日、毎年5月1日に行われるメーデーである。

発祥はアメリカ、今でこそ当たり前になっている8時間労働を求めた労働者の運動だと言われている。当時は12~14時間労働が当たり前だったというのだから驚きだ。今よりさらに時間を資本家に搾取されていたのである(*1)。8時間労働の権利を勝ち取った後も今に至るまで労働者の待遇改善を求める運動は続き、毎年この日に団結してデモを行うのが慣例となっている。


メーデーの本場と言えばどこだろうか。それはパリである。
そこで私は実際にパリに行き、本場のメーデーを見てきた。
メーデーで訴えられていたことや行く際の注意点などをまとめる。皆もこれを読んでメーデーに参加しよう!


持ちもの

まずは持ちものだ。
・安全眼鏡(orサングラス)
・マスク(orスカーフとかネックウォーマー)

とりあえずこれだけは持っていけ!!!!!
可能ならガスマスクを持っていけ。
フランスに行くならガスマスクは必須
だ。
(追記2024/5/7 フランスではガスマスクは「兵器」扱いで着用禁止らしい)
報道関係者は皆首からガスマスクをぶら下げてた。最初は大げさだなあと思っていたが催涙弾が自分に向かって飛んできてから認識が変わった。ガスマスクは要る。
私はサングラスしか手許に無く、催涙弾をモロに食らった。催涙ガスにまみれたのは人生初のことだ。
催涙ガスの感想。最初は煙が目に染みる辛さ。これはよく焚火をするのでまあ経験済み。煙から逃れた後に真の苦しみがやってくる。目と鼻と喉に刺激感を延々食らう。目には玉ねぎを切ったときの刺激、鼻にはわさびのツーーンと刺す痛み、喉は辛い物を食べたあとのようなイガイガ。これらの刺激が同時に襲ってくる。
(2024/5/7追記 催涙ガスは生理食塩水で洗い流すと良いらしい)


大事なことなので繰り返すが、安全メガネとマスクを持っていけ。日本でも調達しやすく最も完璧に催涙ガスから身を守ってくれる。可能なら工事現場で使われてるようなしっかりした防塵マスクがいいが普通のマスクを複数枚重ねても良い。
逆に言うとこれ以外は要らない。特に身分証明書は絶対に持っていくな。
「逮捕リスクがある場には身分証明書を携帯するな」これは日本でも同様である。参考までに。
そして長袖長ズボンで行くべし。普通に割れたガラス片とか飛んでくるしゴミ箱とか燃えてる。素肌を露出するのはかなり危険。以上の理由から目も保護しとくべき。ガラス片は言うまでもなく、燃えてるゴミ箱とかわんちゃん爆発し得るので…。

以上の内容を簡潔にまとめれば、なんとかして目・鼻・口を守れである。

メーデー参加時の筆者の服装。防御はサングラスだけ。
警察とツーショット(?)撮ってたら他の参加者に「親指の向き逆!下に向けないと!」と怒られた。(*3)

注意点

・安全第一。爆竹以上の何かが爆発してたし、デモ隊と機動隊の小競り合いでは催涙弾やら石やら酒瓶やらが飛んでくる。海外でケガすると治療費がバカにならんので自分の身は自分で守ろう。

・逮捕されるな。海外で逮捕されるとマジで問題がややこしくなるので最前線に行っても一線は超えるな。

・身分証を持っていくな。

・”危なそうな”写真たちは以下
まあメディアに散々転がってるだろうからそこまで価値は無い。
何故ゴミ箱が燃えているかというと、参加者たちが燃やした発煙筒を消火することなくそのままポイ捨てしているからだ。発煙筒の火の不始末である。意図的に燃やされてるのもあるが。

発煙筒の煙でモクモク。視界が悪い。
燃えてるゴミ箱
燃やされたゴミ。
バス停のガラスは大体割られてる
道路のタイルが剥がされ、「1312」という数字が作られていた。意味はわからない。


食べもの

メーデーは長丁場だ。昼の13時30分集合、14時デモ行進出発、解散は19時。
お腹が空くので、至るところに屋台がある。ホットドッグかビールの屋台だ。ビール片手に反戦を叫ぶのがパリジャンのメーデーの楽しみ方である。
ホットドッグは具材が選べる。mergues(メルゲーズ)という牛(or羊)肉から作られる辛いソーセージか、七面鳥、escalope(エスカロープ)という薄切りにした味付け肉から選んでバンズに挟んでもらう。7ユーロ(1200円くらい)とちょっとお高めだが、お祭り価格である。許す。
ビールの屋台は面白い。ホットドッグ屋台と違って屋台設備がほぼ要らないので店主は屋台を押してデモ行進に着いてくる。機動隊が導入されたとき、真っ先に逃げ出してたのもこいつらだ。

mergues(メルゲーズ)をチョイス


音楽

読者の皆さんは「デモ」というと”過激”なイメージをお持ちではないだろうか?それは多分実際にデモに参加したことがなく、テレビで見るような”過激”な「デモ」しか頭にないためであろう。

そんなことはない。
これは声を大にして主張するが


デモは楽しい!!!


確かにテレビで見る”過激”な側面もある。発煙筒とかゴミ箱燃えてたりとか、機動隊が銃引っさげてたりとか催涙弾とか…。しかし、それはデモのほんの一側面に過ぎない。そして、テレビは”過激”な側面を映したがる。そちらの方が視聴率が取れるからだ。日本においてはデモは”過激”だという刷り込み教育にも一役買っている。(筆者は”過激”さをある種の楽しさだと考えているがその考えを万人に押し付けるものではない)

デモというのは即ち暴動を表すものではない。
むしろ民衆が社会変革を求めて訴える最も平和的な手段だ。
どれほど多くの人がそこで訴えられるイシューに対して問題意識を抱えており、抗議の声をあげているか、それを路上に大勢で出ることで世間にアピールする。それがデモである。一人で訴えても弾圧される。だから同じような境遇・問題意識を持つ人同士で団結して路上に打って出る。簡単に権力(*2)に弾圧させない、そのために数の暴力で対抗するのだ。

さて、本題に入ろう。デモと音楽の関係性だ。これに関しては実際に見てもらった方がイメージ掴みやすいのでそれぞれ動画を添付しよう。

メーデーのデモ行進はうるさい。色んな音がずっと鳴り響いている。各団体がそれぞれに街宣車を持ち、別々に音を流しているためだ。


最もオーソドックスなのはこんな感じ。車のスピーカーからマイクで先導し、ドラムやトランペットで支える。

DJが街宣車に乗っていて電子音を奏でている団体もかなりある。
ビートに合わせて個々人が思い思いに身体を揺らしている。


街宣車を使わず、鼓笛隊のみで編成された団体もある。一糸乱れぬ動きとリズミカルなドラムが楽しい。



黒人集団(多分移民の労働組合だと思う…)は街宣車なんか使わずに太鼓とちゃちなラッパだけでノリノリデモ行進をしていて良かった。
音楽を身体で感じる・身体で触れる、ということが骨身に染みついている。
こんなんでいい。歌にもならない、リズム・音を聞いていたら勝手に身体が動き始めるという超身体的な感覚―。



これは最後メーデーが解散して各団体が三々五々帰っていくときの映像だ。
もうこんなのただの路上ライブである。
見たらわかる通り、車の円滑な交通の妨げになっている。
しかしそれがデモの目的である。

路上を占拠する。

これがデモの最も重要な点である。
最も平和的。されど実行力のある実力行動。

この路上の様子を見て「ラ・ラ・ランド」のオープニングを思い出した。ハイウェイが渋滞し、そこで一人が歌い出すと周りの運転手も車から飛び出してきて、歌い、踊る―。渋滞と歌とダンス。こういうところからあの映画史に残るオープニングのインスピレーションが生まれたのかと合点した。なるほど、「ラ・ラ・ランド」のオープニングの発想は日本人からは生まれないわけだ。


参加者

さて、それでは一体どういう人たちがメーデーに参加し、どういう主張をしているのだろうか。

以下一部列挙

・ストレートに社会主義の実現を訴える社会主義者(マルキシスト)
・毛沢東主義の実践を訴える者(マオイスト)
・アナキスト(無政府主義者)
・フェミニスト団体
・LGBTQ団体
・環境保護を訴える緑の党(的な市民団体)


という感じに大きな括りで言えば”左翼”大集合である。
しかし、それぞれシングルイシューについて向き合っている感があり、日本のように”左翼”がすべての”左翼”的言説を一手に引き受けている感じは受けなかった。

訴えられていた具体的な主張の一例を見てみよう。
・イスラエルのパレスチナ人民虐殺反対
・パリ五輪イスラエル参加拒否
・パリ五輪中止
・ロシアのウクライナ侵攻反対
・反ファシズム
・(イランにおける)女性の権利向上
・米・コロンビア大における警察導入抗議

2024年のパリ・メーデーに行って正解だったと思えたのはここ。訴えられていた主張が外国人の私でもわかりやすく共感しやすいものだったことだ。
私もデモの隊列に加わってFREE PALESTINEを叫んだ。


オリンピックイヤーということもあり、五輪反対が叫ばれていたのは東京五輪でも見た光景であるが(そして現在の大阪万博反対運動にも重なる)、そこにイスラエルの参加拒否が掲げられているところに世相を感じる。


ところで、実在のアナキストを初めて見た。
あちらこちらにアナキストの暴れた痕跡が残っていて非常に良い。バス停のガラスを割ってアナキズムのシンボルマークをスプレーで落書きしたり、壁にも自らの破壊を誇示するかのようにデカデカと描かれていたりする。



また、凄いなと思ったのは車椅子に乗った身体障害者が1人で見物に来ていたことだ。日本なら絶対にありえない光景ではなかろうか。
「身体障害者が一人で危ないところに行くなんて!!」という声が聞こえてきそうである。

フェミニズム運動と一口にいってもそこで掲げられている主張は幅広い。

イランにおける女性の権利拡大を求める団体


セックスワークへの蔑視・差別に抗議する落書き(左下)
アナキストのシンボルマーク(右上)やGAZAの文字も


普通の共産主義者もいる。

ツチカマ
物販
チェ・ゲバラの旗


パリから日本を考えてみた


読者は日本でメーデーのデモ行進を見たことがあるだろうか?
あのやる気のないシュプレヒコールにやる気のないアジテーション。
何が楽しくてあんなことをやっているのか…。
楽しくないのである。

日本のデモは楽しくない。

”やらされ”感がプンプン伝わってくる。せっかくのGWなのに組合に召集かけられてよく分からん旗とか横断幕を持たされて街をただ練り歩くだけ。
そんなイベントが楽しい訳がない。
何故楽しくないのか?

日本のデモは真面目過ぎるのである。

音楽は使わない。
前提知識が無いと耳に入ってこないアジテーションのお経が聞こえるだけ。
デモ参加者に高水準の方向性の一致を求める運営側。

要は、少数の主催者とその他の参加者の温度感に乖離があり過ぎる。
熱意のある主催者は自分たちの主張を出来る限り詳細に・多くの人に届けようとする。
そんなことをしても無駄だ。
何故か?
通行人は誰もデモのアジテーションなど真面目に聞いていないからだ。
もっと端的でいい。主張はコンパクトにまとめよ。
「ガザではこれまで何人が死亡しておりその裏には帝国主義というものがあり宗教対立も関わって…」
そんなもの誰も聞いてやしない。問題意識を持った人間は勝手に勉強するし、聞かれたときにちゃんと説明できるようになっていればいい。
デモでは端的に「FREE PALESTINE!」これだけでいい。
質より量だ。特に”政治離れ”甚だしい日本においては、政治に関心を持つ人間の絶対量を増やす必要がある。

デモの主催者(政治に対して熱量を持つ人間)が真面目過ぎるが故に面白くなくなるのである。
何故彼らは真面目になるのか?
自身の主張に賛同する人が少ないからだ。だから必死になって”獲得”しようと真面目に自分たちの考えてることを並べ立てる。逆効果だ。
原因は自分たちが設計するデモに面白さが無いからだというのに…。

フランスで当たり前にやっていて日本にも導入されているデモ文化としてシュプレヒコールは良いと思う。デモ行進に入って少し時間が立てばタイミングも合わせて声を出せるようになるし楽しい。

何故楽しいか。
大声を出しているからである。
大声を出すのって楽しい。
凄く単純な話である。

デモの楽しさを紐解いたときに見えてくるのはやはりその音楽性だ。
太鼓やDJの奏でるリズムに合わせて勝手に体が動き出す。

参加してちょっと時間が立てばその場のノリにノれるようになる。
この経験をどこかでしたことはないだろうか?

そう、地域の盆踊り大会である。

盆踊りの輪に入ってすぐは上手く踊れないが、見様見真似で周りの人の動きをトレースして身体を動かしているうちに次第に自然に身体が動いていくあの感覚。
私はあの感覚がかなり好きだし、盆踊りなんか趣味の域に入っている。

まだある。
フェスやライブなんかの音楽イベントだ。
知らないバンドの曲でも聞いてるうちにコール&レスポンスができるようになるし、観客同士に謎の連帯感が生まれて肩を組んで歌いだしたり、ダイブやモッシュといった”過激”な行動に走ることもある。
ダイブ・モッシュが”過激”であるとされながら許容されているのに、デモは”過激”だとして忌避されているのはおかしい。これはひとえに「デモは過激で危険な迷惑行為だ」という刷り込み教育を受けているからである。

野球なんかに特徴的なスポーツ観戦もそうだ。
応援歌を大声で歌い、タオルを振り回し、ジャンプして手を叩く。
贔屓が得点したら隣の見知らぬ人とハイタッチして抱き合い、負けたら一緒に相手チームに怨嗟の言葉を投げかける。
最初はわからなくても応援歌も歌えるようになっていくし身体も動き出す。
デモと何が違うのか。

日本人はもっとデモに行け。デモを大衆化させろ。


盆踊り大会や音楽イベント、野球観戦など、日本にもデモを楽しくできる土壌はあるのだ。
問題は、”政治”が絡んだ瞬間に「真面目にやらなきゃ」と思ってしまうその精神性にこそある。
”政治”は真面目にしてはいけない。そういう空気があるから一部の頭の良い奴ら(霞が関の東大出身高級官僚のことだ)に”政治”が独占されるのだ。
政治なんてもっとバカにやっていいし、ポップにやるべきだ。
自分たちの国のことだ。方向性は自分たちで決めるべきだ。
経済政策が多少間違ってたって構わない。
”正解”を引くために頭良い奴らに任せた結果が今の日本だ。
多少”不正解”に寄り道したって構わない。自分たちで自分たちのことは決めよう。そのためには私たちが政治に参加しなきゃいけない。
政治参加とは決して投票行動だけを言うのではない。
デモだってストライキだって政治について語るのだって立派な政治参加だ。


アメリカの選挙戦の候補者の演説会の映像を見たことはないだろうか?
なんであいつらはあんなにも楽しげに歓声をあげて指笛を吹き、候補者それぞれのグッズを身にまとっているのか?
それは楽しいからである。
楽しいから主体的に参加しようという動機が生まれ、結果として政治に参加する人間が増え、政治に参加するとその個人の政治に対するリテラシーや知識もブラッシュアップされる(つまり質が向上する)。

日本では政治というと真面目なもの、という先入観がまず人々の間に蔓延しているため、そもそもの政治に関わる人数が少ないし、「知識が無いと発言してはならない」みたいな自主規制が生まれる。
そんなことは無い。
例えば投票行動であれば、一番イケメンな奴に投票すればいいし、自民党の悪そうな奴が汚職で逮捕されてたら、そいつを「嫌い」と断じてもいい。

そこで私は以下を提言する。
日本のデモを楽しくせよ と。
いかにしてデモを楽しくするか?
参考にすべきは上述のように盆踊りでありフェスであり野球観戦だ。
音をかき鳴らせ。身体を揺らせ。腹の底から大声を出せ。怒りをぶつけろ。
フランスのメーデーを主として諸外国のデモを見習え。
デモの集会設計者はもっとポップなデモを志向するべきだ。


パリのメーデーに参加して、もし仮に日本で独裁体制が敷かれたときに革命は起きないと感じた。
というのも日本人は路上を占拠した経験が少なすぎる
実力行動で自分たちの主張を通すということを経験則として理解していない。路上を自分たちの空間にする、市民の手に取り戻す。その重要さを理解している人は少ないし、その経験値も圧倒的に低すぎる。
2010年代に起きた市民革命の多くは路上から始まった。ムバラク政権を打倒したエジプトの革命はタハリール広場を占拠することから始まったし、OWS(オキュパイ・ウォール・ストリート)もその名の通り、ストリートを占拠することから始まった。
何故それが可能であったか。彼らは路上を占拠するという経験を積んできたからだ。
諸外国に行って目に付くのは街頭を市民が自由に使っている姿である。
屋台はいっぱい出ているし、行商人もいるし、レストランのテラス席は路上である。
普段から何の気無しにこうして路上をナリワイの場としている。無意識的に路上を自らのものとして使っているのである。

”登っちゃいけない”銅像に登るメーデー参加者。筆者も登ってみたが、普段のパリ旅行だったらできない(多分誰も登ってないので…)体験で楽しかった。ちなみに撮った写真の中で一番のお気に入り。
機動隊に囲まれている広場で音楽を奏でる若者たち。このくらいの軽いノリでメーデーに参加しよう。
これが路上を自分たちの手に取り戻すということ。”貼っちゃいけない”場所にポスターを貼っている瞬間


終わりに


日本ではデモは「危険なもの」「過激なこと」と教え込まれ、政治は「難しいもの」「人前で話してはいけない話題」と刷り込まれている。
そんなことはない。
政治はもっとオープンに。
デモはもっとポップに。

メーデーに行ってる最中、友人が「社会運動、筆者みたいなノリで肩肘張らずに参加できるものであってほしい」というツイートをしていた。
日本の社会運動があまりにも肩肘張りすぎなのである。
パリのメーデーみたく、外国人が一人でふらっと来て一緒に声をあげられる、そんなフランクな運動を作るべきだ。

驚くのは「デモは違法だ」と考えている日本人が一定数いることである。
ちがう。デモは権利だ。デモは我々に与えられた天賦人権の一部だ。
ガンガン権利は行使しよう。

「デモは路上を占拠して迷惑」という意見もある。「人様に迷惑をかけるな」という論理だ。しかし、それを言っていいのは人生で一度たりとも人に迷惑をかけたことのない人だけだ。
そして、迷惑をかけることこそがデモの本懐なのである。最も平和的な実力行動なのだから。
では、何故実力行動に訴えるのか?対話や議会制度では不平等や迫害がすぐに是正されないからである。
イスラエルのパレスチナ侵攻を例に取ろう。イスラエルは我々市民と直接に対話することはない。そこで我々は自国政府を通じてイスラエルに虐殺をやめるよう働きかける必要がある。しかし、様々な利権やしがらみで結びついた自国政府はパレスチナ人民を救うことよりイスラエルとの関係を重視する。これに抗する方法として選挙が挙げられる。「自国の権益よりパレスチナ人民の命を重視する」という政策を打ち出す政党を選挙で選ぶ、という方法だ。しかし、そんな都合よく選挙は無いし、数年後まで待てる問題でもない。ジェノサイドは今起こっているのだ。今すぐ止めねばならない。ではどうするか、即応的かつ平和的手段の最たるものがデモである。

君もデモに参加しよう!




注釈

*1 資本家が搾取しているのは我々の労働力であるとする立場が一般的である。しかしそれと同様に我々の時間もまた搾取されているし、そちらの方が私は危ういと感じている。時給制が良い例だ。働く時間が長くなればなるほど収入が増える、という詐欺である。これによって労働者は自発的に自らの時間を資本家に差し出すことになり、資本家による時間の搾取が巧妙に隠されている。

*2 「権力」という用語は主に警察権力や、警察に”権力性”を付与している国家・国家機関を指すのに使われる。筆者と直接の面識がある人は、一緒にいるときに警察車両とすれ違う度に筆者が「うわ、権力だ…」と呟くのを聞いたことがあるのではないだろうか。
警察とは、国家が直接的に市民に”暴力”(「治安維持」「鎮圧」などと権力側は呼称する)をふるうための暴力装置であると筆者は捉えている。

*3 フランス人は警察が嫌い。市民の間で警察官が嫌われすぎてて(ある種の職業差別でそれもどうかと思うが…)成り手が不足しているのだそう。入庁8ヵ月で実践配備されるらしいのだが、フランスって大体9月入社なので、丁度メーデーの日ががジャスト8ヵ月なんだよな…。

京都大学Lv.100 フランスの機動隊員は日本の機動隊員に比べてやっぱりデケェ。ほんで当たり前に銃を持ってる。
これは京大で見慣れた光景。デモ・集会参加者の動画を撮る警察官。”証拠集めのため”と称してデモ参加者の肖像権を侵害している。

全体に対する注釈:筆者は別に政治について造詣が深い訳でも極端な思想を持っている訳でもない。ただ、大学に入ってちょっと考える機会が増えただけの一般人である。ここに書かれている内容に誤謬が含まれていることも想定される。甘んじて批判は受け入れる。また、習いたてのフランス語とGoogle翻訳を駆使して主張を解読しているので言語的な誤りもあるかもしれない。申し訳ない。



2024/5/7 富士山を望む部屋よりパリに思いを馳せて。



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