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わたしたちは、罪人じゃない

罪悪感って、持ってますか?

たとえば
食べることへの罪悪感
消費することへの罪悪感
働かないこと、休むことへの罪悪感

人との関わりの中でも
人を怒らせてしまった、という罪悪感
人の期待に応えられない、という罪悪感
あるいは
ただ生きているだけで、
誰かに迷惑をかけているのではないか、という罪悪感

この罪悪感って、いったいどこからきているのでしょうね?

生き物はみな、生まれてくること自体が贈り物です。
人も、動物も、昆虫も、新しい個体が生まれるから、その種が生き残れる。誕生イコール祝福なわけです。
ならば、生まれたまんま、祝福のもと育てていけばいい、と思いませんか?

だけど、人は成長のある段階で、「疑い」を持つんじゃないかと思います。
自分はこのままでいいのか?
自分は不完全だ、まだまだ未熟だ、生きていてはいけないんじゃないか?

何も知らず、何もできない赤子として祝福されて生まれたのに、そこが不安になってくる。
その「疑い」の隙間にぴったりと入り込むのが、
世の中のいろいろな価値観。

勉強できるのがいい子
お金を持っている人が偉い
ルックスは大事
働いて稼いでないとダメ

そういう、世の中にたくさん落ちてる価値観をいちいち拾っては、自分に当てはめてみる。
すると、間違いなく「自分はイケてない」という結論にいたります。

わたしは、自分がニートだった時に、息を潜めて生きているような感覚がありました。
 ちゃんと学歴もあるのに、1円も稼いでない
 社会にわたしの居場所はない
 親の、いずれは社会のお荷物になる
誰からも責められていないのに、自分を流罪人のように感じていました。


そうした日々の中で、実は現在の夫と付き合い始めたんですが、当時彼もニート。
ニート同士の恋愛なんて、思い描く未来は真っ暗。親の家から自立できない二人が、どうやって一緒に生きていけるというのだろう?

そうやって、将来を悲観していたわたしですが、当時の彼(夫)はどんな風に生きていたかというと、毎晩、それはそれは丁寧に夕ご飯を作っていました。彼は実家ではなく、祖父母の家で親戚の叔父さんと同居していました。仕事で日中いない叔父さんのために、近くのスーパーに毎日買い出しにでかけ、その時々で安い旬の食材を探し、半日かけてコトコトと大根を煮込んだり、香味野菜をみじん切りにしてカレーを仕込んだり。
そして週末は、1週間分の叔父さんのYシャツを洗濯して、アイロンをかける、という生活でした。

たしかに彼は、社会で1円も稼いでないし、肩書も、社会的な地位もないわけです。しいていえば「主夫」かもしれないけれど、それは叔父さんに頼まれたわけではなく、自分がいまこの場所でできることを、精一杯やっているだけの話。

彼には将来の展望や、未来への希望はないかもしれない。けれど、今夜もおいしい夕飯が作れた。そういう満足感はあるわけです。時には無口な叔父さんが「うまい!」と声をあげてくれることもある。キチンとプレスされたYシャツは気持ちいいし、自分で仕上げた達成感が得られる。

そういう彼を見ていて、なんだかわたしも急に掃除がしたくなったり、プランターで野菜を育ててみたり、「小さな満足」や「目に見える達成感」を求めていく生活にシフトしていきました。

ただね、世の中の価値観、こうあらねばならない、ここまで出来ていないといけない、そんなんは『いつ誰が決めた?』って感じなのですが、そこに引っ張られるのは、仕方ないんです。

小さい頃から、努力して、頑張って、みんなが「いい」と思う価値観を目指すということを身に着けちゃってるから、そこから外れるのは怖いんです。

出っ張りすぎても、凹んでもどちらも「罪悪感」。

わたしたちの身体にすっかり浸透してるこの価値観、いったん全部アンインストールして、新しく自分のOSを入れ替える。
そんなこと、普段の生活していたらなかなかできない、と思うから、
わたしは今、リトリートをやりたい、と考えています。

日常からいったん離れて、まっさらな自分の心を見つめる。

みんな、思い出せないだけなんです。
だから、思い出せる時間と、空間があればいい。
そういう体験ができるリトリートを、2023年から本格的にやりたいなあと考えています。


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