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豊臣秀吉の唐入りにも参加しようとした! 破天荒な公家・近衛信尹《のぶただ》さんの文字絵 @東京国立博物館

先日、ふらりと東京国立博物館(トーハク)へ行った時のこと。柿本人麻呂を描いた掛け軸に、妙に惹かれるものがありました。それまでに少なくとも3回は見ていたのですが、毎回「柿本人麻呂かきのもとのひとまろかぁ……」と思うだけで、別段、興味をひかれることもなかったんですけどね。というのも、柿本人麻呂かきのもとのひとまろって大人気で、いろんな人が肖像画を書いているんですよ。「寒山拾得か柿本人麻呂か」というくらいに多いです。それで少し見慣れてしまっている……というのが惹かれない理由だと思われます。

でも、その日は惹かれたんです。何か呼ばれている感じとでも言えばよいでしょうか。「ワシのことを調べておくれ」という感じでした。

近衛信尹筆《柿本人麿自画賛》安土桃山時代・17世紀

今回の人麿ひとまろさんは、近衛信尹のぶたださんという方が絵を描いて、左上にある書もしたためています。それで、自画賛なんですね。

その賛=讃として「ます鏡 手にとりもちて 朝な々々見れども あかぬ君にもあるかな (花押)」と書いてあるそうです。ずいぶんと豪快に字余りさせていますが……そもそも和歌ではない?……意味自体は思わずニヤリとしてしまいます。ChatGPTに大意を聞くと「毎朝、鏡で顔を見るけど、老化の兆しは見えない。でも、あなたにも歳をとることはあるのだろうか?」と回答がありました。

近衛信尹筆《柿本人麿自画賛》安土桃山時代・17世紀

おもしろいのですが、どうして、そうした解釈になったのかが、和歌の素養がないわたしには分かりません。そこで「もっと詳しく教えて」とChatGPTに頼むと……

ます鏡手にとりもちて朝な々々見れどもあかぬ君にもあるかな

この詩の主題は、時間の流れや年齢を重ねること、そしてその中での恋人や愛する人への思いと解釈できます。

・ます鏡手にとりもちて
「ます」は「毎度」「いつも」などの意味で、「鏡を手に取って」という行為を繰り返すことを示しています。日常の中でのルーチンや習慣を暗示しています。

・朝な々々見れども
「朝な々々」は「毎朝」を意味しており、詩の主人公が毎朝鏡を見る行為を行っていることを示唆しています。「見れども」は「見るけれども」、つまり何かを期待してはいるもののその期待に応える結果は得られない、というニュアンスがあります。

・あかぬ
「あかぬ」は古典文学における「老けない」という意味の言葉です。ここで言う「老けない」は、鏡を見るたびに自分の顔に老化の兆しを見つけられないという意味を持っています。

・君にもあるかな
「君にも」は愛する人や恋人を指し、「あるかな」は「存在するのだろうか」という疑問を投げかけています。この部分は、詩の主人公が自分自身の変わらない容姿を確認する一方で、恋人も同じように歳を取らないのではないかという疑念や期待を感じていることを示しています。

全体を通して、この詩は時間の流れの中で自分と恋人の変わらない姿を願いつつ、その実現可能性について疑問を抱いている心情を表現しています。年齢を重ねることの不安や、愛する人との時間の過ごし方に対する深い思いやりを感じさせる詩と言えるでしょう。

ChatGPTによる解説

あくまでChatGPTですので、思いっきり嘘ついている可能性も否定できませんが……よく嘘をつくので……これに関して言えば、本当っぽいですよね。

さらにChatGPTが、どこかから解釈をパクって来ていないかを確認するために検索を続けると……これは万葉集にある人麿ひとまろさんが詠んだ歌だと分かりました……微妙に異なりますけどね。

「まそ鏡手に取り持ちて朝な朝な見れども君は飽くこともなし」(万葉集)

近衛信尹筆《柿本人麿自画賛》安土桃山時代・17世紀

改めて画を見てみると、この人麿さん……顔は緻密に描かれているのに、顔以外がテキトーな感じがしますよね。

これは「“柿本人麿”の四文字を崩すことにより、簡略に人麿像を描いています」と解説パネルに記されていました。要は、ヘノヘノモヘジと同じ文字絵なのだそう。

この文字絵は、
顔のあたりの上半身が「柿」の字になっていて、
右手が「本」をくずして、筆を持っている様子。
右ひざが「人」、左ひざが「丸」のようです。

1089ブログより

トーハクの公式ブログには、そう解説されていました。最後の「丸」について……柿本人麻呂は、柿本人丸と愛称されていたことからきています。

くずし字が崩され過ぎているので、上の解説を聞いても、まだ「柿本人丸」という文字が浮かんできませんよね……。わたしなりに少し分析してみた結果、以下のような感じかなぁ〜と思いましたがどうでしょう。ほかにも候補はあるんですけどね。(「人」が、右足の下部と左足の下の部分ではないの? という候補など……)

まぁでもおもしろいですね。人麿さんが、ものすごく老け顔に描かれているのも、先ほどの讃の意味と合わせて見ると、近衛信尹のぶたださんが、どんな思いで自画賛を記したのかが、思い浮かんできそうです(まだ浮かびませんけど)。

そんなおもしろオジサンっぽい近衛信尹のぶたださんとは、いったい何者なのか? 気になりますよね? そうでもないですか? わたしは気になったので、少し調べてみました。

生まれたのは戦国時代の真っ只中である永禄8年11月1日(1565年11月23日) です。天正5年(1577年)……12歳前後の時に元服しています。この元服する儀式の時に「加冠の役」を務めたのが当時30歳前後の織田信長。浅井や朝倉、武田などを破った2年後の、織田信長がぶいぶい言っていた頃ですね。そこで近衛信尹のぶたださんは、信長から可愛がられていたそうで(根拠は不明)、その一字をもらって「信基」と名乗りました。当時の公卿さんたちは、足利将軍から名前の1字をもらったりしていたので、武家の実力者から……というのも違和感はなかったのでしょう。

その後、織田信長が本能寺で倒れ、羽柴はしば(豊臣)秀吉の時代へ移った時に公家の間で騒動が起こります。

当時は偉い順に【(1)関白・二条昭実 29歳】、【(2)左大臣・近衛信輔=信尹のぶただ 20歳】、【(3)右大臣・菊亭晴季 46歳】、【(4)内大臣・羽柴秀吉 48歳】でした(諸説あり)。羽柴秀吉以外は二条=近衛=菊亭の順番で秩序だっていたんです。

それが「羽柴秀吉の内大臣というのは、実績に応じた地位ではない(もっと高位を授けるべし)」ということで、何か上の地位を用意しなきゃいけないという雰囲気になりました。そこで朝廷は、羽柴秀吉に「右大臣なんてどう?」と聞くと、羽柴秀吉は「右大臣は、かつての織田信長様が就いた極官だし、縁起が悪いから嫌です。左大臣になりたい」と答えたそうです……詳細は意味不明。

そこで、公家の間では「では羽柴秀吉を左大臣にしましょう」となったわけですが、揉めたのが【(1)関白・二条昭実 29歳】と【(2)左大臣・近衛信輔=信尹のぶただ 20歳】です。我らが近衛信尹のぶたださんは、関白の二条昭実に「引退して、五摂家筆頭の私に関白を譲れ」と迫りました。対して二条昭実は「そんなむちゃくちゃな! まだ関白になって半年だから譲れない(1年経ったら考えなくもないよ)」と答えます。このやり取りは、俗に「関白相論」と呼ばれています。

なかなか近衛信尹のぶたださんも権力欲があったのだなぁとも思いますが、当時は……今もですけど、何よりも秩序立っていることが重要です。でも現実には羽柴秀吉という権力者がのし上がってきたことで、矛盾が生じてしまいました。その解決できない矛盾に公家たちが苦しんでいる間隙をついて……羽柴秀吉が関白に就任……豊臣秀吉が誕生します。

結果としては、羽柴秀吉(48歳前後)が、直前の関白(前関白さきのかんぱく)だった近衛信尹のぶたださんのお父さん……近衛前久さきひさ(49歳前後)の猶子(養子)となって関白に就任しました。

つまり形式的には、羽柴秀吉は、藤原の近衛家から関白になったということ。公卿さんたちにすれば、藤原氏以外が関白に就任することを避けられたし、羽柴秀吉からすれば、日本のトップに就けたということです。そして近衛信尹のぶたださんも、引退せずに、そのまま左大臣に留まり、約束は破棄されましたが、豊臣秀吉の跡に関白を継ぐことになります(実際に関白になるのは、20年後の1605年のこと。この時点で、公家衆の間の秩序を回復)。

その後の近衛信尹のぶたださんは、公家衆の秩序を乱す原因を作った張本人ということで、孤立を増していった……とWikipediaには記されています。そのことで心を病んで、結局、1592年に左大臣を辞任……ってことにWikipediaではなっていますけど……先の関白相論が1585年ですからね、あれから7年も左大臣をしていたら、心を病んでいなくても辞任していても自然でしょう。ただし、なんで「心を病んだ」ことになっているのかは、直後の行動にあるようです。

この頃……1591年の豊臣秀吉は唐入りを決意して、朝鮮出兵の準備を始めるため、近衛信尹のぶたださんとの約束を破って、養子(甥)の豊臣秀次に関白を譲ります(秀吉自身は朝鮮や中華の王を目指したためでしょうかね……京の御門みかどは皇帝になるとして……)。

そして、この義兄……と言うんでしょうか……豊臣秀吉に呼応して「俺が指揮をとる!」と言い出したのが、近衛信尹のぶたださんでした。朝鮮出兵への足がかりとして築いた、肥前国の名護屋城まで行って「俺を朝鮮まで運べ!」と言ったかどうかは知りませんが……朝鮮へ行こうとしました。この行動に周りの公家たちは「近衛信尹のぶたださんには困ったものよ……」という雰囲気になります。そして当時の御門みかど……後陽成天皇が激怒を表明。具体的には1594年の4月に、近衛信尹のぶたださんは、後陽成天皇の勅勘ちょっかんをうけます……「謹慎していなさい!」と。

そこで近衛信尹のぶたださんは、近衛家の荘園のあった薩摩国の坊津(現・南さつま市坊津町坊)へ、3年間の配流となります。配流と言っても、京からの供が45人です。薩摩の島津義久から厚くもてなされて、毎日、近くの名所へ行っては詩をよみ、書をしたため、悠々自適でした。その充実ぶりは、3年後に配流を解かれて「もう京に帰ってきてもええでぇ」と朝廷から言われた時に、「もっと薩摩に居たいなぁ。そうやなぁ…あと1-2年は居たいぞよ」と手紙に記しているほどです。

この薩摩での悠々自適な生活が、近衛信尹のぶたださんの書の作風は激変したとも言われています。Wikipediaには「この時期、書道に開眼したとされる」とし「(この説は)古筆学者の鑑定によるもの。配流を境に豪快な作風の書となっている。」と書かれています。

そして近衛信尹のぶたださんの書は、江戸時代の初期に大人気となり、亡くなった後には、寛永の三筆として本阿弥光悦や松花堂昭乗と並び称されることになるのです。

ということで今回の自画賛では、ちょっと文字が……三筆だよね? という感じでしたが、今後も近衛信尹のぶたださんに注目していきたいと思います。

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