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特別展『本阿弥光悦の大宇宙』のストーリーを整理して分かりやすく解説……を試みる@東京国立博物館

東京国立博物館(トーハク)で始まった、特別展『本阿弥光悦の大宇宙』へ行ってきました。「どうだった?」と美術館・博物館が好きな人に聞かれたら、本心から「うん、よかったよ。ぜひ行ったほうがいいよ」と答えると思います(まだ、そんな質問をされたことがありませんけどね)。実際、展示を巡って会場を後にする時には、良いものが見られたということで気持ちが高揚気味でしたし、そうした気持ちを反映させた記事を下記に寄稿しました。

そこで書いた通り、美術館的な観点では、展示品はいずれも素晴らしいもので感嘆するものばかりで満足できる展覧会でした。でも……歴史博物館的な観点では、ものすごく歯切れが悪く分かりづらいものでした。そこで素人ながらに話を整理しておこうと思い立ちました。


■本阿弥光悦の美的センスを磨いた刀剣と法華信仰

話を進めやすくするために、展覧会の会場マップを下に添付します。同展「出品目録」の末尾にあるマップに、分かりやすいよう色付けしました。おなじみトーハク平成館の2階です。

同展のストーリーとしては、まず第1章で本阿弥光悦が刀剣の研磨や鑑定の名家に生まれたということをイメージさせます。さらに第1章後半を見ることで、本阿弥家が日蓮法華宗を篤く信仰していたことと、本阿弥光悦自身もまた熱心な信徒だったことが分かります。なるほど「光悦芸術の源泉」は、刀剣と日蓮法華宗にあったのだろうと感じるわけです。

日蓮法華宗を信仰した本阿弥家と光悦は、同じく日蓮法華宗を信仰した、京都の有力な町衆(豪商)と親交を深めていきます。同時に、わたしの想像ですが、そうしたなかで寺社や町衆が所蔵する、優れた書や彫像などにも触れ、さらに自身の美的センスを磨いていっただろうと思います。

さて、本阿弥家は刀剣の研磨と鑑定をするだけではなく、そのこしらえ……主に鞘(さや)や柄(つか)などの製作指揮をしていました。そこでも、当時最先端の美術センスが磨かれると同時に、木工や漆工、金工などの技術を把握し、職工たちと関わっていたしお抱えの職工もいたはずです。

当時は、戦国時代が終わりを告げ、平和な江戸時代へと移り変わっていくタイミングでした。少し前の桃山時代には、豊臣秀吉による刀狩りもあったうえで、戦乱の世が終わってしまったのですから、当然、刀剣の需要がダダ下がりだった……もしくはダダ下がりになることが予想できたはずです。そうなれば、本阿弥家自体もですが、同家が抱えていた職工たちも失業する人たちが多くでてきてしまいます。

そこで必要だったのが、刀剣の美術工芸品としての価値を上げることと同時に、本阿弥家の鑑定師としての不動の地位を確立すること。と同時に、こしらえ製造に携わる職工に、新たな仕事を創造することです。目をつけたのが、こしらえ製造で欠かせない木工と漆工を、そのまま転用できる蒔絵箱作りです。

そして「Produced by 本阿弥」の代表作として、特別展の最初の小部屋に展示されているのが《舟橋蒔絵硯箱》。これまでの硯箱とは異なる、異様とも言える姿です。蓋はもっこりとしているし、四方の角は丸っこいです。さらに他の硯箱などには見られないのが、木工や漆工のほか金工も駆使されていることです。橋をかたどった銅板をかぶせた上に、銀板を切り抜いた文字が、はめ込まれているんです。その文字は『後撰和歌集』に収録された、源等(みなもとのひとし)が詠んだ一首です。当時の上流階級の人たちが、初めて《舟橋蒔絵硯箱》を見た時には、物欲を大いに刺激されたことでしょう。

そんな高価な硯箱を誰に売るのか? といったことに困ることはありません。なにせ本阿弥家は、刀剣の鑑定師として、武家の有力者たちとの繋がりが豊富です。本阿弥光悦以前には、豊臣秀吉とのつながりがあり(秀吉下賜と伝わる《「本」印》が展示)、そして徳川将軍家や越前松平家(家康の次男・秀家)、大大名の加賀前田家や会津の加藤嘉明(その後改易)とも親交があります。さらに日蓮法華宗のネットワークにより、京都の裕福な商工業者……町衆ともつながっています。その代表として挙げられているのが、彫金の後藤家、茶碗の楽家、西陣織の紋屋井関家、蒔絵の五十嵐家、織屋の喜多川家、貿易商である茶屋(四郎次郎)家、くわえて禁裏呉服師の尾形家(光悦の女兄弟が尾形家に嫁ぐ)です。

《舟橋蒔絵硯箱》のほかにも、本阿弥光悦が何らかの形で関わったのではないかと言われている「光悦蒔絵」と通称される作品を、第2章の会場で多く鑑賞することができます。ただし展示を巡っていると、誤解しそうになりますが、「これら『光悦蒔絵』は、本阿弥光悦が作ったという確証は全くありませんし、『“伝”本阿弥光悦作』ですらありません」。ではないのですが、もしかすると(わたしの勝手な想像妄想では…)、本阿弥光悦が《舟橋蒔絵硯箱》などの指針……お手本……を作り、「こういうのを作ったら売れるんじゃない?」と言って、後に作られたのが、これら「光悦蒔絵」と呼ばれる品々ではないかと思います。このジャンルでの本阿弥光悦は、今でいう佐藤可士和のような役割だったのではなかったかと思うわけです。

■俵屋宗達との出会い

同じく2章では、本阿弥光悦とともに、後に琳派の創始者の1人と位置づけられる、俵屋宗達との出会いが大きなテーマとなっています。同章のタイトルは「謡本(うたいぼん)と光悦蒔絵」となっていますが、それは「光悦の宗達との出会い」でもあります。

先述した通り、絵画工房を京で展開する俵屋は、日蓮法華宗ネットワークの1つです。おそらく俵屋は、戦乱で乱れた京の復興需要に応えて、絵画工房を組織化。良質かつモダンな絵画作品を、新興の大名や町衆などに供給していたことでしょう。どれだけ好調だったかは、厳島神社蔵の『平家納経(平家が奉納した法華経)』の補修を、俵屋が担ったと想定されることからも分かります。その補修完了時に、改めて新造して『平家納経』を収めて奉納されたのが、特別展でも展示されている国宝《つた蒔絵唐櫃からびつ》です(諸説ある中での1つであり、俵屋宗達が唐櫃を製造した確たる証拠は全くありません。『平家納経』自体の補修には関わった旨が記されています)。

そんな……構成がカオスな第2章で、もう一つのテーマとして掲げられているのが「謡本(うたいぼん)」です。もうここは素人が解説できるようなカテゴリーではないのですが……なぜ今展で展示されているのか、現時点で理解できたこと(理解したつもりでいること)だけを記しておきたいと思います。

桃山時代頃から江戸時代の初期に、木製の活字で書籍が刊行されるようになりました。この時期のものを特に「古活字本」や「古活字版」と呼びます。

はじめは後陽成天皇や徳川家康などの有力者、または寺院が刊行していました。それが徐々に町人が手掛けるようになります。その町人のなかで、俵屋宗達の友人であり書を本阿弥光悦に学んだ、豪商・角倉家の隠居、角倉素庵さんは、いち早く活字印刷を行いました。これを角倉素庵さんが隠居した京・嵯峨の地名から「嵯峨本」とか、「角倉本」と呼ばれます。

この嵯峨本のうち、光悦流書体の本文と豪華な雲母摺り料紙を用いた、能楽の観世流の楽譜のような謡本(うたいぼん)を「光悦謡本」と言います。おそらくこれを書いた翌日には忘れていそうなくらい複雑ですw

光悦流の書体といえば本阿弥光悦ですし、豪華な料紙といえば俵屋宗達です。さらに能楽の観世家と本阿弥家……本阿弥光悦も親交があったとされています。そのため、証拠は一切残っていませんが、この2人が「光悦謡本」の出版に関わっているはずだと思われているんです。

ただし『本阿弥光悦の大宇宙』の第2章では、「光悦謡本」だけでなく、「光悦謡本」と同列に、(印刷ではなく)紙本墨書の《元盛・宗節章句謡本》や《伝松平伊豆守旧蔵謡本》、《石田少左衛門友雪旧蔵謡本》なども展示されているほか、「古活字本」だけれど「光悦謡本」ではない《伊勢物語》なども並んでいます。これら全てに、本阿弥光悦が関わっていたと誤解しないように注意が必要です。また重複しますが、そもそも本阿弥光悦が「光悦謡本」の出版に関わっていたという証拠は、いまのところありません。

ということで、開催者の意図としては「謡本と光悦蒔絵(漆工)」とを関連付けて見てほしいという思いがあるようですが、今ひとつ、その謡本と蒔絵との繋がりが見えづらい気がします。そのため「本阿弥光悦は、かなり初期段階で、印刷業にも関わっていたかもしれない」くらいに思っておくと、良いような気がします(この件については最後の項で詳細を記します)。

■本阿弥光悦の3種類の“書”を、一気に見られる第3章

観ていて、もやもやする第2章とは異なり、第3章では本阿弥光悦がしたためた書跡が、これでもかというくらいに展示されています。第3章は大きく2部屋に分かれていますが、前半では写経のようなものや書状を中心に展開されます。

※第2章でもやもやしたのは、展示品に、本阿弥光悦の作品が2点しかなかったからなのと、展示品と本阿弥光悦との関わり、それに謡本と光悦蒔絵との繋がりが分からなかったためです。

公式図録には、本阿弥光悦の書の特徴を「肥痩を効かせた筆線の抑揚」としつつ、特に日蓮法華宗関係の書については「鋭く張りつめた筆致」としています。

その言葉通り、第1章の後半に展示されていた《立正安国論》もですが、第3章にある《法華題目抄》や《如説修行抄》も、誰が観ても「きれいな筆跡ですね」と思うはずです。特に楷書、行書、草書の使い分けが見られる《法華題目抄》は、書を愛でるのに最適です。

この第3章では、(1)日蓮法華宗関係の書と(2)リラックスして書かれた書状などの書と(3)俵屋宗達などの下絵のうえにしたためられた、ひとに公開する作品としての書という、本阿弥光悦の3種類の書が一気に見られるところに価値があると感じました。

(1)については、前述のとおりにピリッと緊張感があると同時に、本阿弥光悦の特徴である、筆致の強弱……太細……肥痩(ひそう)が見て取れる筆致です。この、ある程度に緊張した状態で日蓮法華宗関係の書をしたためていくことで、本阿弥光悦は、寛政の三筆と言われるまでの領域に達したのだろうことが、容易に想像できます。

そして、単に「きれいな文字」が書けるだけでなく、下絵のうえに記していくという、絵画と書を融合させた美しさを完成させたことが(3)によって感じられます。

(2)の書状に関しては……ど素人のわたしには「ちょっとグダグダでよく分からない」というのが正直なところでしたw

とにかく若い頃から、刀剣や日蓮法華宗関連の書に接したことで、美的センスを培った本阿弥光悦は、自身が関わる全ての領域で、美しさを追求したことでしょう。その領域の中には、「刀剣や書」のほかに「漆工」があり、「能楽」があり、その「書と能楽」の延長線上に「光悦謡本」があり、さらには身近な興味の範疇には「茶の湯」があり、そこで使う「茶碗」を作陶するという挑戦に至ったのでしょう。

正直、特別展の第4章「光悦茶碗 土の刀剣」については、じっくりと見る時間を割けませんでした。ただし、国宝『白楽茶碗 銘 不二山』以外の、本阿弥光悦の代表的な茶碗が揃っているかと思います。

刀剣や書、漆工、茶碗の国宝をはじめとする本阿弥家と光悦が関わった優品が、一堂に会する本展は、本当に特別な展覧会だと言えるでしょう。

■特別展へ行く前に読んでおきたい、図録の一文

特別展『本阿弥光悦の大宇宙』は、本阿弥光悦の美的センス構築に「刀剣」に加えて「日蓮法華宗への信仰心」というのを掲げたものでした。とても意欲的な試みだと思いますが……主軸を「刀剣」と「宗教」という二本立てにしたことで、会場を歩いただけで、理解できるものではなくなってしまった気がします。

というのも、「日蓮法華宗への信仰心」が、クリエイター本阿弥光悦を作り出した源泉の1つと言いつつ、その「日蓮法華宗とは何か?」についての説明は皆無なのです。仮定として、もし本阿弥家が他の系列……例えば浄土宗や真宗または時宗を信仰していたら、本阿弥光悦は誕生しなかったのか? と考えると、その問いに、今回の展示や図録は答えてくれません。

そうであれば、前述したように第1章では「日蓮法華宗は、ネットワークを作るためのツール」としてサクッと解説してくれていた方が、「あぁ、だから俵屋宗達とのつながりが強いのね」と、第2章へ繋げやすかっただろうなぁと感じます。

また前項で記したとおり「謡本と漆工とのつながり」は、いまだに分からないでいます。むしろ「刀剣」→「法華宗」→「書(謡本を含む)」からの「漆工」と「茶碗」という流れの方が分かりやすい気がします……まぁ事実(史実)はどうなのかは分かりませんが……。いずれにしても「謡本と漆工」を繋げる、ストーリーだてが希薄だなぁというのが感想です。

まぁそもそも「第1章(美の源泉)を刀剣だけにした方が良かったのでは?」とも感じました。そう思ったのは、実は同展の公式図録に掲載されていた、トーハクの刀剣担当の研究員(学芸員)、佐藤寛介さんの論文を読んだからでした。今回のnoteを書き始めたのも、この一文を読んだのがきっかけとなりました。「あぁ〜、展覧会を見る前に、この文章を読んでおきたかったなぁ」と強く感じたので、ここに少しだけ引用させていただきます。

(前略)これらの職人と関係を結び、意匠や材料を選定し、全体を統括する役割を担ったと考えられる。
ここで注目したいのが、拵(こしらえ)の加飾に用いられる漆芸技術である。安土桃山から江戸時代初期は拵の一大変革期であり、室町時代には黒漆塗の簡素な仕立てを基本とした打刀拵が、装飾性を高めて上級武士の指料に用いられるようになる。鞘の加飾には朱漆塗、青漆塗、金梨地、研出鮫などに加え、帯状の金属板を螺旋状に巻き付ける蛭巻、貴金属で覆う金熨斗や銀熨斗、金具や螺鈿を用いた文様散などが流行する。
こうした拵の漆芸技術にみとめられる大胆な意匠と素材使いは、光悦が関与したと考えられる光悦蒔絵の特徴の一つ、加飾材料の用法が斬新であることと共通点がある。つまり、本阿弥家の家職である拵制作が光悦蒔絵に一定の影響を与えた可能性が考えられる。言い換えれ ば、本阿弥家だからこその発想と素材使いともいえよう。また、光悦蒔絵は五十嵐派の蒔絵師が手がけたと想定されているが、それ以外の漆工の関与も指摘されており、本阿弥家の拵制作に従事する漆工たち、そして金工の埋忠家も参画した可能性を提示したい。

特別展『本阿弥光悦の大宇宙』図録より

さらに佐藤さんは、次のように「刀剣を専門とする博物館研究員としての個人的な思い入れを記して」くれています。

最後に刀剣を専門とする博物館研究員として個人的な思い入れを記したい。高度な研磨技術によって磨き上げられた刀剣には、武器としての機能に由来する感覚的で抽象的な美がたしかに存在する。青黒く深く澄んだ地鉄をじっと見つめていて宇宙空間にいるような感覚になることが経験的にあり、そのとき、白く輝く刃文を構成する粒子はあたかも銀河に煌めく星々のように映る。光悦が号に冠した大虚は、古代中国の思想で宇宙の根源を意味するという。まさに刀剣は光悦の大宇宙のはじまりなのである

特別展『本阿弥光悦の大宇宙』図録より

いやぁ、特に前半のこしらえと光悦蒔絵との関連性については、とてもわかりやすいなと思いました。思ったのですが……じゃあなんで、第1章にもっと「こしらえ」を展示してくれなかったのですか! とも強く思いますw だって今展でのこしらえの展示は、たったの1点だけです。あそこに刀剣と同じくらいにこしらえが豊富に展示されていたら……わざわざ佐藤さんの文章を読まなくても、展示会場を歩いただけで、その関連性を感覚で分かっただろうにw と。(もちろん第1章の「刀剣」の展示スペースが限られているからなのですが……なにかもっと方法がなかったのかなぁという気はします)

と、色々と散らし書きしましたが、展示品に関しては間違いなく第一級のものがあり、たいへん満足しております。という感じで今回のnoteを締めさせていただきます。

<ちょっとだけ関連note>


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