見出し画像

俵屋宗達の絵は分かる……でも本阿弥光悦の書は読めない。そんな《鶴下絵三十六歌仙和歌巻》を超解釈!

先日、トーハクで開催されている特別展『本阿弥光悦の大宇宙』へ行ってきました。その時に、俵屋宗達による下絵の施された料紙に、本阿弥光悦が古人の和歌をしたためていった、「鶴が描かれた紙に三十六歌仙の和歌をしたためた」……つまりは《鶴下絵三十六歌仙和歌巻》を初めて見ました。本阿弥光悦が書いた文字は何が書かれているのか、その90%を理解できなかったのに、とても感銘を受けました。

これってすごいことだなと思いました。だって、《鶴下絵三十六歌仙和歌巻》にはびっしりと和歌が書かれているのに、そのほとんどを理解できなかった……つまりは、本阿弥光悦と俵屋宗達が作品に組み込んだ要素を、半分も理解できないでいたのに、それでもその作品全体に感銘を受けたんです。

これで、もしわたしが本阿弥光悦の文字を理解できたら、何を思うだろうか? もしかすると感動して涙が出てきてしまうんじゃないだろうか?

そう思うと、何が書かれているのかを知りたくて、ネットを検索してみました。するとまずは、改めて俵屋宗達が、どんな世界を描いたのかを、わかりやすく再現した映像を見つけました。その映像を見て、まさにこんな世界をわたしは感じたんです! と思いました。

ますます、どんな和歌がしたためられているのかを知りたくなりました。そして見つけたのが下記のブログです。ここには本阿弥光悦が記しただろう文字と、釈文とが載っていました。

上のブログを読んで、いわゆる釈文を確認したのですが……なるほどね、こりゃ読めるわけない……って分かりました。なんていうのか分かりませんが、「夜露死苦=よろしく」的な感じ……万葉仮名もこんな感じじゃなかったか? というような書き方をしているんですよね……本阿弥光悦さんは。だから、想定していた文字とは全く異なる文字がしるされていたんです。

同ブログには、和歌の解釈も載っていましたが、それは読まないことにしました。和歌を読んで、できるだけ自分の中に思い浮かんだことばを、noteに記していきたいと思ったからです。

ということでここでは、改めて《鶴下絵三十六歌仙和歌巻》を、画像データで見直しながら、あわせて書かれている和歌を、わたしがどうよんだのかを書いていきたいと思います。

誤解されるかもしれませんが、書いていくのは現代語訳ではありません。書いたのは、わたしがどう感じたのか、なのであって、歌を読んで思いついたことを書き連ねただけです。こういう感じだったら心地よいなという、わたしの勝手な思いなので、古文の読解としては誤りが多いと思われます。万が一にもないとは思いますが……参考になどはしないよう注意してください。むしろ「この解釈は違うだろ!」などとツッコミを入れつつ読むと、逆に古文読解の勉強になるかもしれません。

以下の画像の出典は「ColBase (https://colbase.nich.go.jp)」です。


■柿本人麻呂(柿本人丸) 「ほのぼのと 明石の浦の朝霧に」

保濃々々登 明石能浦乃朝霧尓 しま可久禮行 ふ年をし曽思ふ
ほのぼのと 明石の浦の朝霧に 島隠れ行く  舟をしぞ思ふ

ほのぼのと明るくなり始めた 朝霧に隠れる明石の浦の情景が きれいだなぁ
ちらりちらりと見え隠れする舟は、どこへ向かうのでしょう? そんなことをぼんやりと考えている 気持ちのいい朝です

■凡河内躬恒 「いづくとも 春の光は分かなくに」

以徒久とも 春能日可里盤王可那久尓 ま多見よし野濃 山盤雪ふ流
いづくとも 春の光は分かなくに   まだみ吉野の  山は雪降る

この春の空気感って最高に気持ちが良いですよね
その春の光はわけへだてなく どこにも降り注いでいるはずなのに 吉野の御山にはまだ雪が降っているんですよね
わたしの足元では春の花が咲いて花の匂いがただよっているのに 吉野山には雪が積もっている……その情景がまた美しくて この国に生まれてよかったなぁと感じてしまいます

■大伴家持(中納言家持) 「かささぎの 渡せる橋に おく霜の」

閑左々支能 王多勢るハし尓 を久霜濃 し路支越見連盤 夜曽更耳介類
かささぎの 渡せる橋に   おく霜の 白きを見れば  夜ぞ更けにける

今夜は冷えますねぇ……なんておもいながら夜空をふと見上げてみました
すると織姫と彦星を出会わせるために、鳥のカササギが群れて橋を作ったという その言い伝えを思い出させるほどに 天の川がキラキラと輝いています
そしてその星々に照らされて、宮中に架けられている橋や廊下に下りた霜が 煌めいているんですよ……
そんな、美しく映える情景を眺めていたら すっかり夜が更けてしまいました

■在原業平 「月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ」

徒支や安ら怒 ハるや无可し濃 春ならぬ 我身日と徒盤  もと能見尓し天
月やあらぬ  春や昔の    春ならぬ 我が身ひとつは  元の身にして

ほんのりとただよう花の香りを感じながら 月を眺めていたんです
きれいな月を見ていたら フッとおもったんですよ
月の美しさも春の美しさも むかしとすこしも変わるところがないのに わたしだけが むかしとは変わってしまって……ちょっぴり寂しい気持ちになってしまいました

■猿丸太夫 「をちこちの たづきも知らぬ 山中に」

を知こ地濃 た徒支もしらぬ 山中尓 お保徒可那久も よぶこと里可那
をちこちの たづきも知らぬ 山中に おぼつかなくも  呼子鳥かな

あぁ……山のなかを迷ってしまったようです
でもね、こんなふうに山のなかを迷うのも嫌いじゃないんですよ
だって道から外れたわけではないので、いつかは里にたどりつくと分かっていますから
あれ? かっこうの声が聞こえますね。わたしを呼んでいるのでしょうか? まさかね……
かれも迷ってしまったのでしょうか……心なしか不安げな声に感じられます

■素性法師 「今来むと 言ひしばかりに 長月の」

今来無と 以日しハ可利尓 な可徒支濃 有明(の)月を 待出づる哉
今来むと 言ひしばかりに 長月の   有明の月を   待ち出つるかな

(女性が男性を待ち侘びている歌です)
あの人が今夜こそは、もうすぐ来る……もうすぐ来るはずって思ってしまったばかりに 眠れないまま こんなに夜が更けてしまったわ
長い夜を ここまで待ったのですから 夜明け前の月を楽しみにしつつ もう少し待ってみようかしら

■藤原兼輔(中納言兼輔) 「みかの原 分きて流るる 泉川」

見可濃ハら 王起天流る々 以づ見可ハ 以徒見支と天可 日し可るら無
みかの原  湧きて流るる 泉川    いつ見きとてか こひしかるらむ

みかの原からは こんこんと水が湧いて あふれた幾筋かの流れが泉《いつみ》川(木津川)へと集まっていますよね
そんな情景のように いつのまにか わたしの心のなかからも あなたへの思いが とめどもなく湧き出すようになりました……あなたの心からも わたしへの思いが湧いていてほしいなぁ……そうであれば いつかは泉川のように 同じ時を過ごしたいものです

■藤原敦忠(中納言敦忠) 「身にしみて 思ふ心の 年ふれば」

身尓し見(て) 思心濃  としふ連盤   終尓色尓も   出ぬべき可那
身にしみて 思ふ心の 年経(ふ)れば つひに色にも 出でぬべきかな

あぁ〜あの女性を思うようになって久しいなぁ
そろそろ その思ひが とどいちゃうんじゃないかなぁ……いやぁ〜とどいてほしいなぁ

■源公忠 「行きやらで 山路暮らしつ ほととぎす」

行屋らて  山路暮し徒  ほとゝ幾須 今一聲濃 き可満保し左尓
行きやらで 山路暮らしつ ほととぎす 今一声の 聞かまほしさに

都の喧騒から離れた山道を歩くのは気持ちがいいなぁ
そんなふうに立ち止まってぼーっとしていたら 日が暮れてしまいました
あと一度だけ ほととぎすの声を聞いたら 先へ進もうっと

■斎宮女御 「寝る夢に うつつの憂さも 忘られて」

ぬる夢尓 う徒々濃う左も 王須ら禮天 おもひなぐ左む ほど曽ハ可那支
る夢に うつつの憂さも 忘られて  思ひなぐさむ 程ぞはかなしき

昨夜の夢は なんとも素敵な夢で 現実の憂さも忘れて 幸せな気持ちでいっぱいになれました
でも……夢はやっぱり夢で すぐに覚めてしまうもの
夢が素敵であればあるほど 現実に戻ったときの気持ちの儚さといったら……

■藤原敏行(朝卧) 「秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども」

秋来ぬと 目尓ハ左や可尓 見え年共  風濃をと尓曽 驚可連ぬる
ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ  驚かれぬる

もう今日は立秋ですよ。秋になったと、その印がはっきりと見えるものではないですけどね……風の音を聞いて、肌にあたると、あ……もう夏は終わったんだとハッとなります。
※元々の古今和歌集には「秋立つ日詠める(立秋の日に詠んだ)」と、歌の隣に書かれているそうです。なんか反則っぽいような気がしますけどね。

■源宗于 「常盤なる 松の緑も 春来れば」

常盤なる  松濃見ど利も 春久れ盤 以ま日とし保濃 色ま左利介利
ときはなる 松のみどりも 春来れば いまひとしほの 色まさりけり

季節にかかわらず いつも葉が緑色の松だって 春になると いっそう緑の色を増すんですよね
まぁとにもかくにも 春になると 恋がしたくなるものですよ

■藤原清正 「の日しに 占めつる野辺の 姫小松」

年濃日し尓     しめ徒流野邊乃 日めこまつ 日可天や千世濃 蔭をま多まし
の日しに 占めつる野辺の 姫小松   引かでや千世の 蔭を待たまし

3月3日に野辺で見つけた 若い松の木が うちの姫のように思えました
松は千年も生きると言われていますよね
そんなふうに我が姫も健康に育ってくれればいいなぁ
そうして松の蔭から 見守っていきたいです

■藤原興風おきかぜ 「誰をかも 知る人にせむ 高砂の」

誰を可も し流人尓世無 高砂濃 ま徒も無可し濃 友那らな久に
誰をかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の    友ならなくに

もう周りの人がどんどんいなくなってしまって……誰を親しい友とすべきかなのか……
長寿だという高砂の松にしたって 話し相手になるわけでもないから 友とはいえないのに……

■坂上是則 「み吉野の 山の白雪 積もるらし」

三芳野濃 山乃しら雪 徒もるらし 舊里寒久 成ま左流也
み吉野の 山の白雪  積もるらし 古里寒く なり増さるなり

もう吉野の山には雪がつもり始めているそうです
ここ 奈良の都も寒さが厳しくなってきましたよ……おぉ寒い

■小大君(三條院蔵人) 「岩橋の 夜の契りも 絶えぬべし」

以者々し能 よる濃ち支利も 多えぬべし 安久類王日し幾 葛城濃神
岩橋の   夜の契りも   絶えぬべし くる侘びしき 葛城の神

もう夜も明けそうです
逢瀬の時間も終わりですのよ
葛城山の神様が岩橋を作るように命じられた時も 自身の醜い顔を恥じらって 昼間は姿を現さなかった……夜しか工事を進めなかったでしょ?……それと同じで 私も夜が明けて 見られるのが恥ずかしいんです
寂しい気持ちでいっぱいだけれど はやく帰ってくださいよ……ね

■大中臣能宣(大中卧能宣) 「御垣り 衛士のたく火の 夜は燃え」

見可きも里 衛士濃焼火濃  よる盤もえ 晝ハきえ徒々 物をこ曾於もへ
御垣り  衛士のたく火の 夜は燃え  昼は消えつつ 物をこそ思へ

禁裏を守る衛士の焚き火は 夜になるとゴォゴォと燃えているけれど 昼になると消えますよね
それと同じように あなたへの思いも 夜になると燃えて昼になると落ち着いてを繰り返しているのですけど……今夜はもう身悶えするほどに思ってしまっています

■平兼盛 「暮れて行く 秋の形見に 置くものは」

暮て行   秋濃形見尓 を久も乃ハ 我も登遊日濃 しも尓曾有介類
暮れて行く 秋の形見に 置くものは 我が元結の  霜にぞありける

すっかり秋も暮れて むしょうに しんみりとすることがあるんですよ
そんな秋が形見としてのこしていくのは 私の髪にのっている霜だけだなぁ……なんて詠んでみたりしました
あっ…… “霜”って“白髪”のことですからねw うまいでしょw?

■紀貫之 「白露の 時雨もいたく もる山は」

しら露も 時雨も以多久 もる山盤 した葉乃こら須 色づ支尓介利
白露も  時雨しぐれもいたく もる山は 下葉残らず   色づきにけり

近江国の守山は すっかり秋になって 白露や時雨が漏って降っているそうです
上の方から染まっていく葉も 下の方まで残らずに色づいてしまいました……もうすぐ冬ですね

※紀貫之が詠んだ元の歌は「白露“の”」

■伊勢 「三輪の山 いかに待ち見む 年とも」

三輪濃山 如何尓待見舞  としふとも たづぬる人も あらじ登於もへ半
三輪の山 いかに待ち見む 年経とも  尋ぬる人も  あらじと思へば

三輪の山のある大和国へ行きますね
そこで何年も何年も待っています
尋ねてくれる人なんていないでしょうけど……え〜ん! だれか尋ねてきてよぉ〜〜

■山部赤人 「明日からは 若菜摘まむと 占めし野に」

安須可ら盤 若菜徒ま牟と しめし野尓 昨日も今日も 雪ハふ利徒々
明日からは 若菜摘まむと 標めし野に 昨日も今日も 雪は降りつつ

明日は春菜摘みの行事だったのにね
めし野には昨日も今日も雪が降り続いています……行事は中止です
まぁ一面が白くなった景色もきれいですけどね

■僧正遍照(空海さん) 「末の露 本の雫や 世の中の」

須衛濃露 もと能し徒くや 世中乃  を久禮さ幾多徒 ためし成ら牟
末の露  本の雫や    世の中の 遅れ先立つ   ためしなるらむ

葉先にのっている露も ねもとに落ちる雫も いずれは消えてなくなるものです
おなじように 栄華を極めた人も そうではなかった人も ひとしくいつかは亡くなるんです
そんな無常を誰もが知っているのに 誰もが忘れてしまうんですよね

■紀友則 「東路の 小夜の中山  なかなかに」

東路濃 左や乃な可山 那可々々尓 何し可人を おも日曽め劒
(最後の「劒」は下の画像にあります)
東路の 小夜の中山  なかなかに 何しか人を  思ひ初めけむ

京を離れて東の国へとくだっているんですけどね
東海道のちょうど真ん中にある小夜の中山の峠道を歩いていると
なぜだか分からないのですが 京に残してきた人のことが フッと心に浮かんだんです
わたし自身が思っていたよりも わたしは彼女のことを思っていたのかもしれません

■小野小町 「色見えで 移ろふものは 世の中の」

色見え天 う徒路ふも濃盤 世中乃   人乃心の 華尓曽有介る
色見えで  移ろふものは  世の中の 人の心の 花にぞありける

色が褪せていくのが分からないものってなぁ〜んだ?
それは人の心に咲く恋心(花)……はぁ( ;  ; )……
そうして人の心が変わっていくのを感じるのは なんだか寂しいものだけれど……わたしの心だって変わってしまうのだから、しかたないわね

■中納言朝忠(藤原朝忠) 「よろづ世の はじめと今日を 祈りおきて」

満代濃   始と今日を   以乃里を支天 今行末盤神曾可曾へ無
よろづ世の はじめと今日を 祈りおきて  今行末は神ぞ知るらむ

この歌ばかりは、歌を読んだだけでは詠んだ人の気持ちが分かりようがない気がします。まぁそれを知ったとしても現代の平民が、推し量ることはできないでしょうけど……。というのも、この歌を詠んだ藤原朝忠さんは、斎王を伊勢の斎宮まで送り届ける役目の人でした。役目を終えて京に戻り、天皇の御前で詠んだのが、この歌なのだそう。
で、その斎王……天皇の娘さんとか、女性の皇族なんですね(未婚で処女に限る)。天皇が代替わりするたびに新たな斎王が占いで決められて、天皇の代わりに伊勢の地に引っ越し、斎宮で暮らして、伊勢の神々を祀るそうです。
つまりは娘を遠くに送った天皇に「娘さんを無事に送り届けましたよ」という報告の歌です。

これから長く続くだろう帝(みかど)の世の 始めの日を伊勢で 今日は京で祈って……これからのことは神のみぞ知ることでしょう
でも帝の娘である斎王がそばで使えているのですから 伊勢の神がきっと良い方向へいざなってくれることでしょう

という感じでしょうか……まぁかなりの想像を組み込んでしまいましたが……。

■藤原高光 「かくばかり 経がたく見ゆる 世の中に」

可久ハ可利 へ可多久見遊る 世中尓  浦山し久も   須める月可那
かくばかり 経がたく見ゆる 世の中に うらやましくも すめる月かな

なんともまぁ世の中ってものは とかく生きにくいものですね
そんな世界の上には……
どうですか! 羨ましいばかりに澄み切った月ではないですか!

■壬生忠岑 「春立つと 言うばかりにや み吉野の」

ハ類多津と 以ふハ可利尓や 見よし野濃 山も可須見て け左ハ見ゆらん
春立つと  言うばかりにや み吉野の  山も霞みて  今朝は見ゆらむ

もう春だよぉ〜と 暦《こよみ》はいうけれども
冬にはくっきりと見える日が多かった美しい吉野の山が 春霞で霞んでしまっています
今朝はもう春のしるしがそこここで見られるでしょうね

↑ いくつかの解釈を読んだのですが、すぅ〜っと心の中に入ってくるものがなかったです。それで考えたのが上記の解釈。ただこれ、文法的に誤っている可能性も高いです。でも、こう考えないと、つじつまが合わないような気がして……。

■大中臣頼基(大中卧頼基) 「ひと節に 千世を込めたる 杖なれば」

日とふし尓 千代をこめ多る 徒えな連半 徒くとも盡じ  君かよハ日盤
ひと節に   千世を込めたる 杖なれば  突くともつきじ 君がよはひは

あなたさまは 一節に千年の長寿を込めた杖のようなおかた
突いても突いても あなたの寿命は尽きませんよぉ〜

↑ 皇太后が、50歳を迎えたのを祝した時の歌なのだそう。なんだかバカにしたような匂いも感じますけどw 仲が良かったんですかね。

(↓行間にごにょごにょとメモ書きみたいに記している歌2首)

■源重之(欄外のごにょごにょ一首目)

筑波山 端山繁(しげ)山 繁けれども 思ひ入るに 障らざりけり

筑波山の峰々は木が生い茂って分け入るのも大変だけれど
あなたを奪い取りに行くという私の固い決意の前では なんの障害にもなりませんよ

■源信明(二首目) 「あたら夜の 月と花とを 同じくは」

安多ら夜能 月登華とを 於那じ久ハ 哀し連ら無   人尓見世ハや
あたら夜の 月と花とを 同じくは  あはれ知れらむ 人に見せばや

恋人と朝まで過ごした日は 外が明るくなってくると 惜しい気持ちでいっぱいになるものです
そんなときに見る 月や花は 胸がきゅぅ〜っとなりますよね……そんな もののあはれ が分かる人と いっしょに見たい……「今夜の月はきれいですね」なんて言い愛たいものだなぁ

■源順 「水の面に 照る月次つきなみを 数ふれば」

水濃面尓 照月な見を   可曽ふ連バ 今夜曽秋能 も那可成介る
水の面に 照るつきなみを 数ふれば  今宵ぞ秋の 最中もなかなりける

わずかに波うつ みなもに映る月(月浪)がなんともきれいです
水面がゆらゆらと揺れるたびに月の照り返しがキラキラとするんですよ
月がきれいな そんな今宵は 何日だったっけ? と数えてみたら……あぁ今日が八月の十五夜でしたよ(月次=つきなみ)
どうりできれいなわけですね

■清原元輔 「契りちぎりきな かたみに袖を 絞りつつ」

ち支里幾那  可多見尓袖を し保利徒々 須衛乃松山 波こ左じとハ
契りちぎりきな   かたみに袖を 絞りつつ  末の松山  波越さじとは

おっかしいなぁ……お互いに涙で濡れた袖をしぼりながら あの“末の松山”を決して波が越えないように わたしたちも決して心変わりしないとね……

■藤原元真 「あらたまの 年を送りて降る雪に」

荒玉濃   年を送天ふる雪尓  ハるとも見え怒 介ふ濃空哉
あらたまの 年を送りて降る雪に 春とも見えぬ  今日の空かな

新しい年(旧暦2月)を迎えたのに、年をまたいで雪が降っているんですよね
春が来たようには思えない 今日の空ですなぁ

※古文を読んでいると(読もうとすると)、「見る」っていう言葉が、色んな雰囲気を含んでいることが分かりますね。現代日本語の「見る」よりも、むしろ英語の「see」に似ているように思われます

■藤原仲文 「有明の月の光を待つほどに」

有明の月の光を待つほどに 我が世のいたく更けにけるかも

夜明け前にのぼる月の光を待っているあいだに ずいぶんと歳をとってしまった……フケてしまったものじゃよ

■壬生忠見 「焼かずとも 草はもえなむ 春日野を」

焼須共   草盤もえ那無 春日野を 但ハる濃日尓 ま可勢たら南
焼かずとも 草はもえなむ 春日野を ただ春の日に 任せたらなむ

野焼きなんてしなくても、草は萌えるでしょうに
春日野では、ただただ気持ちのいい春の陽に任せておけばいいと思うけれどなぁ

中務なかつかさ 「秋風の 吹くにつけても はぬかな」

秋可世濃 吹尓徒気天も  問怒可那  お支濃葉なら半 を登盤し傳まし
秋風の  吹くにつけても はぬかな 萩の葉ならば  音はしてまし

秋(飽き)の風が吹くようになっても あなたは私を訪ねてくれなくなってしまいました
萩の葉は風に吹かれてカサカサと音を立てるのに あなたからの音沙汰はすっかりなくなってしまい とても寂しいです

以上です。

本当は、画像のなかに本阿弥仮名を書き込んでいきたいのですが……それをやろうとすると、そうとう時間がかかりそうなので、それはまた今度。

とにかく、現在トーハクで開催中の『本阿弥光悦の大宇宙』では、《鶴下絵三十六歌仙和歌巻》が通しで展示されています。ぜひ見たほうが良いとは言いませんけど……わたしはもう一回、見に行こうかなと思っています。そうしたら、また上に書いた解釈が変わるかもしれません。だって、不変なものなんてないんですから。



この記事が参加している募集

404美術館

オンライン展覧会

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?