見出し画像

茶人・小堀遠州が戦国武将だったって、ほんとだったんだ!

週末に東京国立博物館トーハクの2階「武士の装い―平安~江戸」の部屋へ行くと、展示品が変更されていました。

トーハクの2階「武士の装い―平安~江戸」の部屋

■茶人で作庭家として知られる小堀遠州の甲冑

おぉ〜、こんなのがあったのか!?

そう思ったのは、大名というよりも茶人や作庭家としての方がよく知られる、小堀遠州……小堀政一の所用と伝わる甲冑です。

紺糸威二枚胴具足こんいとおどしにまいどうぐそく』江戸時代・17〜18世紀

あの小堀遠州が作らせた(かもしれない)と知ると、ちょっとオシャレな気がするから不思議です。解説パネルには「全体の威毛おどしげを紺糸で統一し、要所には家紋の花輪違紋はなわちがいもん彫金ちょうきん七宝しっぽうで表わした飾り金具を配し、籠手こての金物は白檀びゃくだん塗としています」とあります。

うん……やっぱりオシャレですね。

紺糸威二枚胴具足こんいとおどしにまいどうぐそく』江戸時代・17〜18世紀

特徴的なのは、輪貫わぬきの前立を飾った、尖りとがり帽子の変わり兜です。江戸時代に作られたと考えられていて、かなり丁寧に保管されたのでしょう……最近作ったかのようにキレイです。

紺糸威二枚胴具足こんいとおどしにまいどうぐそく』江戸時代・17〜18世紀
紺糸威二枚胴具足こんいとおどしにまいどうぐそく』江戸時代・17〜18世紀
紺糸威二枚胴具足こんいとおどしにまいどうぐそく』江戸時代・17〜18世紀
紺糸威二枚胴具足こんいとおどしにまいどうぐそく』江戸時代・17〜18世紀

手を防御する籠手こては、白檀びゃくだん塗だといいます。家紋の花輪違紋はなわちがいもんがいくつも配置されていますね。

紺糸威二枚胴具足こんいとおどしにまいどうぐそく』江戸時代・17〜18世紀
紺糸威二枚胴具足こんいとおどしにまいどうぐそく』江戸時代・17〜18世紀
紺糸威二枚胴具足こんいとおどしにまいどうぐそく』江戸時代・17〜18世紀

気にかかったのは、背中の部分に配置された、旗指物はたさしものを固定する金具です。当世具足とうせぐそくを象徴する装備とも言われていますが、大名……つまり殿様だった小堀遠州の甲冑にも必要だったんですかね?

紺糸威二枚胴具足こんいとおどしにまいどうぐそく』江戸時代・17〜18世紀
紺糸威二枚胴具足こんいとおどしにまいどうぐそく』江戸時代・17〜18世紀

■背中に「心」の一字を背負った『仁王胴具足』

その小堀遠州の具足の隣にあるのは『仁王胴具足』です。16世紀の安土桃山時代に作られたとされていますが、由来については何も記されていません。

『仁王胴具足』安土桃山時代・16世紀

「鉄板を打ち出して裸の肉体を表わしたが、仁王像を連想させることから仁王胴具足といわれます。朱漆塗の胴の背面には、丸に心字を金箔で表わしています。兜は獣毛を兜鉢全体に植えて、まげを結った野郎頭やろうがしらの変わり兜です。あたかも裸で戦っているような奇抜な造形が見所です」以上、解説パネルより。

『仁王胴具足』安土桃山時代・16世紀

兜には「七宝花菱しっぽうはなびし紋」が表されています。前述の小堀遠州の「花輪違紋はなわちがいもん」は、別名で「七宝花菱しっぽうはなびし紋」とも呼ばれると、遠州茶道宗家の公式サイトには記されています。

他に、この紋を使っていた安土桃山時代の武将を調べてみると、有名なところでは大友氏の重臣だった高橋紹運や、その息子である立花宗茂などがいます。ただし高橋または立花氏は、メインの家紋は他にあり、「七宝花菱しっぽうはなびし紋」はサブで使っていたようです。

『仁王胴具足』安土桃山時代・16世紀
『仁王胴具足』安土桃山時代・16世紀
『仁王胴具足』安土桃山時代・16世紀
『仁王胴具足』安土桃山時代・16世紀

その『仁王胴具足』に付属する野郎頭やろうがしらの変わり兜と似た兜が、もう一つ展示されていました。

茶糸威ちゃいとおどし野郎頭形兜やろうがしらなりのかぶと』江戸時代・17世紀

兜鉢に獣毛を植えて後でまげを結っている点は共通しています。おでこの部分に、銀箔押と黒茶塗にした鉢巻を付けている点が異なりますね。

「『岩井善兵衛』の銘があります」とありますが、制作者の名前でしょう。「岩井」は、奈良を拠点としていた甲冑師の集団として知られています。有名なところでは、徳川家康が関ケ原合戦の時に着用したとされる「伊予札黒糸縅胴丸具足(別名:歯朶具足)」の制作者、岩井与左衛門がいます。

もしかすると、師弟関係などのつながりがある人なのかもしれません。

茶糸威ちゃいとおどし野郎頭形兜やろうがしらなりのかぶと』江戸時代・17世紀
茶糸威ちゃいとおどし野郎頭形兜やろうがしらなりのかぶと』江戸時代・17世紀

■尾張の徳川義直と、槍の半蔵こと渡辺守綱

白糸威二枚胴具足しろいとおどしにまいどうぐそく』江戸時代・17世紀

徳川義寛さんから寄贈された、尾張徳川家初代藩主の徳川義直が、大坂の陣(1614~15年)で携帯したと伝わる具足です。

徳川義寛さんは、尾張藩主の徳川慶勝の孫として、尾張徳川家の分家に1906年に生まれました。東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業し、ベルリン大学へ留学。帰国後は、帝室博物館(現・東京国立博物館)の研究員……他の博物館で言うところの学芸員になっています。その後は、昭和天皇の侍従長などを務め、退任後の平成6年(1994)には(トーハク別館である黒田記念館の別館にある)日本博物館協会の会長に就任しています。

元研究員だったこともあり、トーハクとは縁が深い人だったんですね。

昔の中国の役人がかぶっていたような冠の形をしています。

「胴を守る細かい部分は銀色で、白い絹の組紐で綴り合わされ」ているとあります。完成時には、銀に輝いていたと推定されます。

ちなみに徳川義直が生まれたのは、関ケ原合戦後の1601年。そして大阪の陣が1614年……徳川義直が13歳の頃です。

ちなみにその大坂の陣で、徳川義直の初陣ういじんを後見(補佐)したのが、「槍の半蔵」と異名をとった、渡辺半蔵守綱もりつな。大河ドラマ『どうする家康』の第7回で、木村昴演じる渡辺守綱が登場しましたね。

渡辺守綱は、一向衆だったことは間違いありません。17歳で初陣し、20歳の時の合戦で「槍の半蔵」と呼ばれるまでに活躍しました。そして渡辺守綱は、徳川家康と同い年……つまりは以前紹介した平岩親吉と同い年。その平岩親吉、それに成瀬正成とともに、附家老として徳川義直に仕えました。さらに渡辺守綱は、平岩親吉の妹を妻としているため、2人は義兄弟ということ。若い頃から平岩親吉とは親しい間柄であったはずで、徳川家康にも信頼されていたはずです(徳川十六神将の一人)。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?