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【フィールドワーク】戦国最末期の息吹が色濃く残る石垣山城へ

小田原は、毎年1度か2度は行く箱根や伊東への行き帰りに立ち寄ることがある町です。なぜ立ち寄るかと言えば、ここでレンタカーに乗り換えるからです。そしてここで最もワクワクする史跡が、石垣山城……別名を一夜城とも言います。豊臣秀吉が天下統一の総仕上げとして、天正18年(1590年)に北条氏の小田原城を攻めた時(小田原征伐)に建てられた城です。標高261.9mの天守台を頂点に、東西270m、南北550mにわたって構築された城は、関東初の総石垣の城とも言われていますが、築城年と同じ天正18年(1590年)に用済みとなり廃城。それから430年以上が経った今でも、築城当時の石垣が、これでもか! という感じで見られる、関東では非常に珍しい城趾です。

曲輪くるわの石垣

約10年ぶりに訪ねた石垣山城へ向かってクルマを走らせると、史跡公園の入口で、驚くくらい多くのクルマが来ていました。以前来た時には、ほかに誰も訪れる人がいなかったのに……(寒い秋の雨の日だったからでもあります)。

理由は、公園に隣接した場所に「一夜城ヨロイヅカファーム」ができたからで、その駐車場を目指すクルマで渋滞していました。妻を斥候に向かわせると、史跡公園の駐車場は別にあるため、同ファームへ行かないのであれば、その公園用の駐車場に停めて良いとのこと。さっそく渋滞の列から外れて、公園用の駐車場に停めました。それにしても「一夜城ヨロイヅカファーム」は、恐ろしいほどの人気っぷりですね。

そして駐車場の目の前にあるのが、上写真の南曲輪くるわの石垣です。こんな立派な石垣は、関東では珍しいんですよね。江戸城(皇居)か、近くの小田原城か……そうですね、徳川御三家の水戸城ですら土塁ですから、ほかには群馬県太田市の新田金山城くらいしか思いつきません(こちらも1590年に廃城)。その中の小田原城にしたって、天守台付近の石垣は高いですけど、その他の石垣は高さがあった記憶はありませんし、それらにしたって徳川家の支配下になって以降に積み上げられたのではなかったでしょうか。

曲輪くるわの石垣
曲輪くるわの石垣

南曲輪の横の道は、けっこうな急坂です。駐車場までの道のりもかなりの急登でしたが、本丸まではさらにキツい上り階段を行きます。

南曲輪からの絶景

とぼとぼと歩いていた家族は、南曲輪からの眺めを見て、やっと笑顔を見せてくれました。が……既にうんざりした表情を露骨に見せるので、ここで別れて、ここからほど近い本丸へ、直接行くように促しました。そしてわたしは、1人で西曲輪へ向かいます。

西曲輪から本丸を見上げたところ

関東大震災の時に、石垣が崩れたとどこかに記されていましたが、この崩れたままで放っておかれている、ゴロゴロとした感じがなんとも哀愁があって良い感じです。

天守台の西側の狭い帯曲輪をぐるりとめぐって行きました。

帯曲輪から本丸の石垣を見上げたところ
本丸

本丸へ登っていくと、なぜか一面がシャガでした。なぜ、こんなにシャガに全振りしたんですかね。ただ、小田原の市街でもシャガが咲いているのがあちこちで見られたので、小田原市民から人気があるのか、土や天候との相性が良いのかもしれません。

本丸の(方角としては)南側の一角には、こんもりとした天守台の跡が確認できます。築城時の情景がどのくらい残っているのか分かりませんが、大坂城や江戸城などの巨大さはなく、それらの櫓よりも小さな建造物しかなかったのではないかと思われます。

改めて天守台付近から本丸の全体を見渡すと、本丸自体は、けっこうな面積があり、往時は屋敷が建っていたとのこと。豊臣秀吉なども数カ月はここで生活していたようです。

そして本丸から小田原市街の方を望むと、素晴らしい眺めです。今回は晴れていて良かったぁ〜! そして小田原城の現在の天守も、しっかりと見られます。

赤丸が小田原城の天守
上の写真を拡大
それにしてもシャガがすごい
本丸(本城)の北側の石垣。下は二の丸(馬屋曲輪?)

本丸から二の丸(馬屋曲輪?)へ行こうと、足取り重く歩いていた息子が……「おーい! 石に何かの印があるよぉ〜!」と、先を行くわたしに叫んできました。引き返して、息子が指差す石を見つめると、確かに円い印が上下2つ並んで見えるような……見えないような……。

でもこれは印だと思いたい! 「でかしたぞ、息子よ。石垣の石には、誰がこの石垣を運んできたのかが分かるように、印を付けることがあるんだよ。これは、そういう印かもしれない! もっと見つけてくれぃ!」と言うと、息子もやる気が出てきたようでした。

写真中央に放射状に線が描かれているような……気がしません? なんとなく菊の御紋のような気もしましたが、ありえませんかね? 少しネットで検索してみましたが、そうしたことを書いたものは見つけられませんでした。
同じ石に同じ大きさの放射線状の印のようなものが、うっすらと見えたのですが……写真だと、さらに分かりづらいです

二の丸へ来ると、スッキリとした芝の公園です。息子は駆け出して、持っていた虫網を振り回して蝶を追いかけ始めました。ということで、なんとなく解散。わたしは二の丸を突っ切って、北側にある井戸曲輪を目指します。

二の丸北側にある櫓台跡
二の丸北側から小田原市街を望む。本丸からよりもくっきりと小田原城天守が見えます
海もキレイ

そして井戸曲輪へと下りていきます。井戸曲輪は、読んで字のごとくで、井戸のある曲輪というか、井戸しかない曲輪です。二の丸から一気に約25m下った、石塁と石垣に囲まれた空間になっています。ということで、どんどん下っていきます。

井戸曲輪の最下部に立って四方をぐるりと見てみると、石で囲まれた異様な空間に思えます。小田原市の教育委員会の案内板によれば「もともと沢のようになっていた地形を利用し、北と東側を石垣の壁で囲むようにして造られている場所」なのだそう。また小田原城総合管理事務所の案内板によれば、「石塁によって谷を遮蔽し、湧水を貯水する構造になっています」とも記されています。

駐車場近くの案内板に描かれた城の復元図によれば、下図のような感じだったと考えられています。まぁほとんど当時のままの姿が残っています。

ということで、また来た登り坂を上って、先ほどの二の丸へ戻ります。

相変わらず暑い中を蝶を追いかけている息子などと集合し、二の丸脇の坂道を下って、東曲輪(下段)へ……駐車場へ向かいました。その道からも、立派な石垣が見られて……すばらしいですね。

その日は、そこから箱根の宿へ行き、一泊しました。ただし、箱根から小田原までの道は一本道なので、渋滞に巻き込まれると目も当てられないことになるので、早めに小田原城下へ帰還。城下を散策でもしようかとも言っていましたが、息子が体調を崩したので、そのまま帰宅することにしました。

ということで、何年か前にリニューアルしたという小田原城天守へは、まだ行ったことがありません(リニューアルする前の小田原城へも行ったことがありましたが、その時も天守はスルーして、小さい子が集まるミニ遊園地のような場所へ行ったのみ)。まぁ、いつかは行くことになるでしょう。

小田原駅から望んだ小田原城天守

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