「ピンチヒッター」という生き残り戦略
師匠は、人からこう言われることがある。
「宇宙人」
「わけが分からない人」
「ぶっとんでいる」
「自由奔放」
師匠の仕事ぶりを間近で見させていただいている身としては、人って勝手なことを言うなあと思う。
でも、何も知らない人がこのように言うのは、仕方の無いことかもしれない。
だって、師匠のキャリアは普通ではないから。
師匠がアート活動を始めたのは、1989年。
当時、「現代アート」というもの自体が、日本でほとんど知られていなかった。
しかも、師匠は美大・芸大を卒業したわけではない。
16歳から独り立ちをしなければいけない事態となったため、師匠は29歳まで「自力で生きる」のに必死だったという。
もちろん、アートの「ア」の字もなかったくらい、現代アートに関心すらなかった。
しかし、ひょんなことからアート活動を始めることとなり、周囲にアーティストになることを宣言したところ、猛反対を受けた。
というのも、当時、日本人の有名な現代アート作家がほとんどいなかったからだ。
師匠は、周囲の反対を受けて、「誰もやっていないなら、俺がやってやろう」と決意し、今日までアート活動をやりとおしてきた。
師匠は「ホログラムズコラージュ」という技法をアート界ではじめて開発し、1995年、当時、国内最大級のアートコンペであった「パルコ・アーバナート#4」にて、審査委員・伊東順二賞を受賞。
以降、「ホログラムズコラージュ」の研究をしながら、インド・中国・バリ島など、世界各国へとアート活動の幅を広げてきた。
そして、今では岐阜県恵那市飯地町にアートスクールを構え、再び、海外へと飛躍しようとしている。
これらの師匠のキャリアは、普通のひとから見れば「ぶっとんでいる」かもしれない。
そもそも、日本人で「現代アート」をやっている人がほとんどいない、ということもあるが、師匠はアーティストとしても異質な存在だ。
師匠と同じ年代の有名な現代アート作家は、
・美大・芸大を卒業している
・海外の大きなアートマーケットに進出している
・メディアに露出している
といった特徴がある。
しかし、師匠は、どれでもない。
(※一度京都の芸大に入学したが、中退したらしい)
それでも、師匠は独自のマーケットを作りながら、アート活動を35年続けてきた。
もちろん、師匠の作品はきちんと価値がついている。
正真正銘の、プロフェッショナルだ。
師匠はひとから「凄いキャリアですね」と言われると、決まってこう言う。
「たまたまですよ。運が良かったんです。」
確かに、師匠の「強運ぶり」は間近で見てきたから分かる。
しかし、私はあくまで師匠の弟子であり、アーティスト。
師匠のアート活動を「運」というフワッとしたものだけで考えるのは、弟子として失礼なことだ。
だから、「どうして師匠がアーティストとして生き残って来れたのか?」という疑問に対して、"現実的な"視点で、今日まで考え続けてきた。
というのも、師匠が亡き後も、自分はアーティストとして活動をしていかなければいけないからだ。
師匠は、他の同年代のアーティストとは全くちがったやり方で、アート業界を生き延びてきた。
過去のことは分からないが、師匠につかせていただいた2年半の間のことなら分かる。
2年半の間にも、ほんとうに色々なことがあった。
やってきては消えた人、立ち上がっては消えた企画がたくさんあった。
しかし、そのなかでも、実っていった話はある。
もっとも印象的だったのが、ARアートのことだ。
師匠は10年ほど前から、ARアートのアプリを運営している「Artivive」とやりとりをしている。
その縁があって、来月に香港で行われる「第一回香港国際ARアートフェア」に師匠は「招待参加」する。
私は2年半前から、師匠と「Artivive」の動きを見てきた。
とても印象的だったのが、「Artivive」がカナダとオーストリアの国交70周年を記念して、コンペを開催したとき。
なんと出品期限の1週間前になって、師匠に作品を出品して欲しいというメールが入った。
師匠は急ピッチで制作をして、結果、師匠の作品は世界9位入賞。
ほかにも、大手飛行機会社とのコラボで作品の制作をお願いされたり、NFTの企画に参加したりと、師匠はことあるごと「Artivive」からの要望に応え続けてきた。
今回、香港のARアートフェアの話が来たのは、こうした師匠の仕事ぶりを踏まえて、「Artivive」が香港の運営に師匠のことを売り込んでくれたのだろう。
これらのことを振り返ってみると、「Artivive 」が師匠に連絡してくるときというのは、いつも「緊急」だった。
運営は、師匠のことを「ピンチヒッター」としてみているのかもしれない。
思えば、師匠はどんな場面においても「ピンチヒッター」として、仕事をしているような気がする。
今まで、たくさんの企画が他の人によって持ち込まれてきたが、「今の現状をどうやって打開したらよいか分からない」という場合がほとんどだった。
師匠は、アート活動をやる前から「困ったときの日比野くん」と言われていたのだとか。
もしかすると、師匠がこれまで35年もアート活動をつづけてこれたのは、「ピンチヒッター」として素晴らしいプレーをしてきたということなのだろうか。
先日、このことについて師匠と話をした。
「ピンチヒッター」は、毎回打席に立つわけではないが、その代わり、いざというとき最高のパフォーマンスをできないといけない。
それも、チャンスは一回きりで、これを逃したら次がないのだ。
「ピンチヒッター」は簡単にはなれない。
少なくとも、常日頃から鍛錬を積んでいないとできない。
師匠の仕事ぶりを知らないひとは、師匠のことを「宇宙人」「ぶっとんでいる」「ワケが分からない」「自由奔放」という。
でも、私は知っている。
師匠が毎日どれほど勉強しているか。
師匠がどれほどタフに仕事をしているか。
2年半、師匠の仕事ぶりは、側で見させていただいてきた。
「ピンチヒッター」は、あらゆる能力値が高くないといけないが、確かに、師匠はあらゆることに精通しているし、タフな人だ。
師匠の対応力の高さは、これまでの経験に裏付けされている。
そして、ごく一部のひとは、師匠の実力をしっかり感知している。
だからこそ、師匠には滅多にまわってこないチャンスがくる。
今回、「Artivive」が香港の運営に紹介したのも、師匠のこれまでの対応あってのことだ。
美大・芸大卒でもなく、海外の大きなアートマーケットに進出しているわけでもなく、メディアへの露出を避けてきた師匠。
そんな師匠が35年もアート活動をつづけてこれたのは、「ピンチヒッター」としての活躍が素晴らしかったからかもしれない。
師匠と海外で一緒にアート活動をしたインド人のひとは、師匠のことを「ラッキーマン」「救世主」といった。
海外の人の評価は厳しい。
だからこそ、師匠とともにアート活動をしたひとたちの評価は、真っ当だと思う。
ただし、繰り返すが、「ピンチヒッター」の役割は簡単ではない。
そもそも、打席に立つ時がいつも「ピンチ」のときなんて、理不尽な役回りだ。
そんな面倒くさい役をやり通してきたからこそ、師匠はプロなのだろう。
私はここ数年の師匠の仕事ぶりを見ていて、「チャンス」は日々懸命に取り組んでいるひとにしかやってこないのだと確信した。
私はまだまだ未熟だけど、師匠を見習って、アート活動をやり通していきたい。
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