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5.この最悪な嵐の夜に

この最悪なコンディションの中で。

女を連れて、私は逃げた。

くしくも場所は玉川上水。

飛ぶなよ、飛ぶなよと、湖畔から太宰治の声が聞こえる。

なぜこの女の片腕を取り、自分は逃げたのか。

なんとなく?

やってみたかったから?

走る最中、ずいぶん余裕のある声で、彼女は囁いた。

なんとなく、やってみたかったから。

大雨と強風の中の逃走劇である。

気が合いそうね。

彼女はまた、ずいぶん余裕のある顔で、笑った。

私もよ。

そうして逃げた先の玉川上水である。

自分たちのどちらかが太宰治なら、ウォーミングアップを始めるところだが、あいにく自分たちはきっと、文学の素養がなかった。

ただそこには本当ならば、春のうららの玉川上水があるはずなのに、春の嵐の玉川上水がただただ、広がっているだけであった。

コンディションが悪いのは、天候だけでなく、自分もだった。

低気圧に前日までの気温差に加えて、高低差のある道のりを右に左にただただ走ったもんだから、横っ腹が痛いのなんの。

「元気?」

当の彼女は無邪気なものだ。

無邪気?

それは邪気を邪気として認識していないから、無邪気なのではないか?

邪気の自覚のない無邪気?

触れたくも関わりたくもないない感情だ。

「少し泳がない?」

湖畔の太宰治がガッツポーズをして見せた。

「やめようよ。河童に足を引き摺られて、二度と帰って来れなくなりそう」

湖畔で芥川龍之介がぼんやりとした不安なラリアットをかまして見せた。

その腕は商売道具なんじゃないのかな?

「これから私たちどうするの?」
「逃げようか、トロッコに乗って」
「みかんも持ってく?」
「それはいいね」

お互い少し笑った。

「それで、どこに行くのさ?」
「絶対に声を出してはいけない地獄に行きましょう」

ああやっぱりこうなるのか。

玉川上水は、今日もまた心中するには良い水温ですが、ぬめりと苔が気になります。

「浅かったわね」
「がっつり背中が引っ掛かったね」

いたずらに服を濡らし、電子機器を台無しにしてたった先の門前には、「この先は一切の希望を捨てよ」の看板があった。

「注文の多い変な地獄ね」
「これが本当の?」
「地獄変」

お互い意外に話せるじゃないの。

彼女をさらってよかったな。

旅は道連れ、世は情け。

この先は一切の希望を捨てていくけど、傍にいる彼女への感情だけは捨てなくても良いんじゃないかしら。

「行きましょうか!」

さらった彼女の足取りは異様に軽い。
あの会合から略奪してでも、彼女をさらった甲斐はあったかもしれない。

地獄変でも、変な地獄でも私は共に歩もうと思う。

トロッコで。

行きは良い良い。帰りは怖い。
ここから先は、絶対に声を出してはいけません。

http://sokkyo-shosetsu.com/novel.php?id=503502

お題:遠い略奪 必須要素:太宰治 制限時間:15分 文字数:1174字

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