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春の終わり、夏の始まり 21

6月に入った、最初の週末。
唯史は義之の自宅へと移り住んだ。

唯史の荷物は、それほど多くはなく、衣類少々と愛用のノートパソコンのみ。
これまでの生活で多くの物を手放してきたことを物語るように、その荷物は小さなスーツケースに収まっていた。

義之の自宅は、祖父から譲り受けた平屋一戸建てである。
唯史のために用意された部屋は和室で、壁際には座卓と座椅子が置かれている。
部屋の隅には、洋服をかけるためのハンガーラックも用意されていた。

「必要なものがあったら、また買いに行こう。布団は押入れに入ってるから、適当に使って」
義之はそう言ったが、
「いやもう、十分やって。ノートパソコンを置く場所と布団があれば、それで」
サンキュ、と小さくつぶやいて、唯史は微笑んだ。

***

引っ越しの日の夜、唯史はリビングのソファでくつろいでいた。
義之宅のリビングは縁側のある和室で、庭に面している。

「お疲れさん」
義之は、冷蔵庫から取り出した缶ビールを唯史に手渡し、義之の隣に腰を下ろす。
「とりあえず、乾杯。ま、ボチボチやっていこうや」
唯史は缶ビールを受け取り、プシュッとプルタブを開けて一口飲んだ。
「義之、ほんまにありがとう。不安がないと言えばウソになるけど……」

義之は唯史の顔を見つめ、
「離婚のこと、まだ気になってるんか?」
と静かに尋ねた。
唯史はうなずき、缶ビールをあおる。

「そやな。美咲の不倫が発覚した時は、マジで傷ついたわ。あの裏切りは、心の底から痛かった」
声を震わせながら、唯史は続ける。
「あれはちょっとトラウマになってて、そやから自分がちゃんと立ち直れるんか、そこはちょっと不安かな」

義之は唯史の肩に手を置き、優しい微笑みを浮かべた。
「唯史は、今ここにおるねん。そんで、しんどいながらも新しい人生を始めようとしてる」
くいっとビールをあおる義之。
「無理せんでいい、無理に立ち直ろうとせんでもいい。時間が何とかしてくれるはずや」

義之の優しさに、唯史の心の奥がじんわりと温まる。
「ありがと。義之がおってくれるのは、俺にとっては救いやな」

その時、義之は何かを思い出したように立ち上がった。
「ちょっと待っとってな」
そう言い残すと、リビングを出る。

数分後に戻ってきた義之は、手に小さなカメラを持っていた。
「唯史、普段スマホとかで写真撮ったりすること、ある?」
「いや、あんまりないかな。むしろスマホ画像は、嫌な思い出しかないかも」
かの忌まわしい美咲の画像が、脳裏によみがえる。

「あ…そっか、そういえばそうやな」
唯史は、義之には離婚の理由を教えてあった。
「でもな、唯史」
義之は、テーブルにカメラを置いて続ける。
「これはスマホとは違う。写真は楽しいもんやねん。思い出を残すだけじゃない、新しい発見があったり、気持ちを表現する手段にもなるねん」
押し付けがましくならないよう、義之は言葉を選びながら話した。

「このカメラは、ちっちゃくて軽いし、使い方も簡単やねん。スマホの写真とは、また違った写真が撮れるで」
目をキラキラさせて、義之が言う。
「唯史も、写真撮ってみたら良いと思うねん。写真を撮ることで、心のリハビリができるんちゃうかな、と俺は思う」

「リハビリ……」
不安そうな表情ながらも、唯史はミラーレス一眼カメラを手に取る。
思った以上にそれは軽く、唯史の両手にすっぽりと収まった。
「そう、リハビリ。レンズを通して新しい視点で見ることで、もうほんとに色んな発見があるねん」
義之は、優しい口調で語りかける。

「試しにちょっと撮ってみ?」
義之はカメラの電源を入れ、レンズキャップを外す。
「唯史、一眼のカメラ、使ったことある?」
「いや、ない。ガラケーかスマホのカメラくらいかな」
唯史は、ふたたび義之からカメラを受け取った。

「それは良かった。スマホの写真も悪くないけど、ガチなカメラはまた違った写真が撮れるねん」
義之は、ニヤリと笑う。
「まぁ言うたら、自分の個性が出せるんがガチなカメラの良いとこかな。ま、ものは試し。部屋の中、なんでもいいから撮ってみてよ」
「どうやったら撮れるん?」
唯史は、カメラの持ち方すらわからない。

「オートに設定してるから、ピントは勝手にカメラが合わせてくれる。撮りたいものをモニターに表示させて、シャッターボタン押すだけや」
とりあえず義之は、カメラの構え方から説明した。
唯史は説明されるままにカメラを持ち、テーブルの上に置いてあった義之のタバコとジッポーにレンズを向ける。

「シャッターボタンはこれ、か」
右手の人差し指でシャッターを探った。
「あ、唯史ちょっと待って。撮りたいものが決まったら、最初にシャッターを半押しするねん」
「半押し?」
「そう、半押ししたところで、ピッて音が鳴るねん。これでピントを固定して、それでOKやったらそのままシャッターを押す」
義之は、AFオートフォーカスロックについて説明する。

「半押し……」
唯史がこわごわシャッターを押すと、「ピッ」という電子音が鳴った。
「そう、そのままシャッター押し込んで」
義之は指示を出す。

カシャ。
シャッター音が鳴り、カメラのモニターに画像が表示された。
「これで撮れたん?」
唯史は不安そうな顔を向ける。

「ん、ちょっと見せてみ」
モニターに表示された画像を確認する義之。
そこには、義之が好んで吸っているタバコの箱と、ジッポーの写真が映し出されていた。

「うん、これはこれで良いと思う。唯史、なんでこのタバコを撮ろうと思った?」
ついでに、と義之は箱から1本取り出し、火をつける。
「ん、ジッポーの形がカッコいいな、と思ったからかな。あ、俺もちょうだい」
そろそろタバコを再開しようと思いつつ、唯史も義之にならって火をつける。

「うん、そこやねん。写真の楽しさ。何かいいな、ていうのがさ」
義之は微笑み、深く煙を吸い込む。
「そういうもんなん?」
灰皿に灰を落としながら、唯史は義之の穏やかな笑顔を見上げた。

「そや、唯史」
「ん?」
「次の休み、どっか出かけよか。カメラ持って」
義之は、缶ビールを一気にあおった。
「いいこと」を思いついた少年のような笑顔で。

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