映画レビュー(46)「見えざる手のある風景」



 2023年の米映画。実に風刺の効いた作品で、その風刺がまた巧妙なところに感心した。
 今回はネタバレが多いので、未見の方は観た上でお読みください。

設定自体がもう暗喩

 近未来、地球はあるエイリアンの種族に占領されている。地球人が自分から下ったと語られてるけど、そうでもなさそうに描かれている。
 その支配は決して暴力的ではないが、地球人の大半は貧困と失業にあえいでいる様子。
 学校教育も、脳に直結させたデバイスでエイリアンのリモート授業になり、職を追われた教師から自殺者も出るありさま。
 主人公の黒人少年は絵が得意。彼の絵が折々のシーン転換で使われている。転校生の白人少女の家族が住む場所もないことから、自宅に下宿させるところから物語は始まる。

エイリアンは先進国の暗喩

 物語が進むにつれ、「エイリアンと地球人の関係」が、「先進国と第三世界の関係」の暗喩になっている事に気づいた。つまりエイリアンにより環境破壊や絶滅の危機からは救われているが、彼らの価値観で支配され、生かされている地球人という設定で、アメリカなど先進国から支援されている第三世界の国々の気持ちを体験させ気づかせようという仕組み。
 そんな中、地球人の恋愛文化は無性生殖のエイリアンにとってエキゾチックな娯楽になっている。主人公とガールフレンドはエイリアン達に脳のデバイス経由で恋愛実録を送信して小金を稼ぐ。でも、そのヤラセ故に当初の恋愛感情がすれ違っていく。
 ここで登場する、地球文化の理解者というエイリアンの鼻持ちならなさに、思わず苦笑いした。彼の理想とする地球人の家庭観が、トランプ元大統領が理想とするような50年代のアメリカ人家庭なのが実に皮肉なのだ。
 実際の世界にも、そこここにいるじゃないか、「~文化の理解者である」と称して、勝手な解釈で「好き」を押しつけてくるお金持ちの外国の文化人が。援助されている第三世界の住民たちの気持ちがここに描かれているのだ。

キャラクター設定もまた暗喩

 弁護士で豊かな黒人母子家庭無職で貧しい白人父子家庭。この対比がまた巧い。「教養の有無」「貧富」「人種」「父親と母親」という対立概念を、この設定の中にすべて現実とは真逆に盛り込んでいるのだ。
 まず、この優秀な母ボンクラな父との確執がジェンダー問題を感じさせる。さらに人種の違いとそのメンタリティを逆転させている。
 白人家族のひがみやヒステリーが、現実の社会で黒人などのマイノリティーが感じている気持ちを代弁すると同時に、その怒りや怒号が白人層からどんな印象で観られているかを、黒人家族の気持ちで描く。この相対化が秀逸である。近未来のフィクションの世界で男女と黒人白人の立場を逆転させて、現実の社会でそれぞれに気づかせる仕組みである。

21世紀ならではのエンディング

 1980年代に同様の微笑みによる侵略を描いた「V」というテレビドラマシリーズがあった。こちらは最後、武力によるレジスタンス活動でエイリアンを追い払う。だが、2023年の本作では、主人公の少年と少女は壁画というアートで抗うのだ。そして、その壁画に向かいながら二人は友情と好感を取り戻す。
 我々は、この半世紀で、暴力の連鎖のむなしさを嫌というほど知ったのだ。ウクライナでパレスチナで、未だに復讐の復讐の復讐が繰り返されているではないか。
 この映画を通して、少し大人になったアメリカを感じた。
 映画自体はユーモア作品だ。観客は深く考えずに、にやりと笑って観ればいい。
 そこに秘められたテーマを読み取って伝えることは、評論家や作家の務めだろうなと思うからだ。

「見えざる手のある風景」

(追記)
 この作品にも、評論家諸氏の頓珍漢な解釈が出てくるんだろうなあ、と皮肉な気持ちがぬぐえない俺がいる。
 秘められたテーマを読み取って伝えることは、評論家や作家の務めだろうと思うが、それができる評論家がそれほど多くないことが淋しい。

この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?