このページに「大岡信への招待」という前書きがある。 確かに静岡県の三島からは富士山が見える。そして、「ホクサイ」のイメージと富嶽三十六景が考えられる。 しかし、「地中海」という言葉が関係しない。今、デ・キリコ展を東京都立博物館でやっている。そのような超現実感を言語的に行おうとしたところが興味深い。 次回も良ければ読んでください。
離島にこういう光景があるのかもしれない。 船着場という場所において人々の出会いが様々にある。 よく別れが書かれる気がする。しかし、今回は出会いだ。それが解像度が高くストーリーを感じさせるしっかりさがある。 次回も良ければ読んでください。
桜のイメージと浮世のイメージは似ている。 宇宙に地球が浮くということは当然だ。そのイメージが「地球ごと」という言葉に置き換えられる。 そして、そこに「遊ぶ」のだ。 遊離したような不安定さ、地に足のつかない感覚が面白い。更に、その地も浮いているという二重構造が興味深い。 次回も良ければ読んでください。
名水のイメージと言えばちょろちょろ湧き出ている感じだ。 しかし、道の駅とかに蛇口で「名水」って書いてあってペットボトルで汲んだりできるところが普通にある。 そういう滑稽さがこの句の面白さだ。しかも、その滑稽さは自然と人工、伝統的に作られたイメージと現代の実際の二つの対比によって形作られているのが上手い。 次回も良ければ読んでください。
熱帯魚はスマートであるべきという固定観念がある。 その中には当然ぶくぶくに太ったやつもいるだろう。 それは「愚か」なやつだという。河豚に似るということが「熱帯魚」の中でどれだけ酷いことなのか。 ということを人間は思う。 しかし、魚から見ればそんなこと関係ないのだろう。特に、見た目なんて。 そういうちぐはぐさが面白い。 次回も良ければ読んでください。
なかなかセンチメンタル的で、ロマン的で良い。 「瞳」に景色が写ること自体が本当にあるのかどうか。「五月」という限定性があるからこそ、意味があるのかもしれない。 それ以外の時期は写り得ないのかもしれない。 次回も良ければ読んでください。
自然の中では生殖は荒々しい。 メスのほうが生殖においては強いことがよくある。カマキリなどもよく知られている。 蜥蜴も同じように交尾中にオスを振り落としたりするのだろう。 それこそ、自然のそのままの姿としての力強さがある。猥雑さなんてものは一ミリもない。人間が穿った見方で見ているだけかもしれない…。 次回も良ければ読んでください。
確かに夏の夜の闇は深い黒だ。歩いているといきなり地面が消えたかのように見える。 それこそがこの時期特有の恐ろしさというか不気味さを演出する。 「地を失う」という表現が上手い。地面と闇と同化した瞬間がある。 次回も良ければ読んでください。
西瓜を切るのは大人の役割だ。 いつの間にか西瓜を切り分ける側になっているのだ。もう、子供ではないのだという現実が突きつけられる。 それは素晴らしいことでもあり、同時に悲しいことでもある。 しかし、それが人生だということを感じさせるような一句だ。 次回も良ければ読んでください。
夏の始まりに心地良いぐらいの気温で外で本を読むのはリラックスできる。 その本の一頁が不意の風で浮いた。何が書いてあるのだろうか。 推理小説か、それとも純文学か。この「一頁」には読者の好きな本を何でも当てはまることができる。 夏の雰囲気が近づいてきたという感動をしっかりと提示している。 次回も良ければ読んでください。
最近春らしい雰囲気もなくなって更衣の季節だと思う。 薄手のスーツに変えたときに長いサラリーマン生活の終わりが見えてきたのだろう。 「あと十年」という感慨とその長さを噛みしめるかのようだ。 季語がその感慨の発生した原因だが説明臭くなっていないところが良い。 次回も良ければ読んでください。
落ち着く空気が五月の中にはある。それを童心として捕まえたのがこの句の良いところだ。 特に純粋な心。大人ならば少しためらってしまうような気恥ずかしい甘えというものが詩として昇華された瞬間だ。 逆にこれは大人がしっかりと詠んでいるからこそ意味がある。大人の文脈の中でこそ光る。 次回も良ければ読んでください。
これこそが季節なのだ。季語だけではない。 日常へ観察眼を働かせて細いところを抜き出すべきなのだろう。 この句はまさにそうだと思う。夏の雰囲気がしっかりとある。乗客の服装まで見えてきそうだ。 次回も良ければ読んでください。
「この」の畳み掛けが「五月」と「肩車」を強調している。 自分的には親と子の話だと解釈した。 「肩車」できる年齢ぐらいの子供に呼びかけるのだ。この五月の記憶にくっついた思い出になる「肩車」を覚えていてほしいのだということを。
風呂上がった直後はとても気持ちいい。そして、それは精霊的な神と同化する感覚と同じなのかもしれない。 日本的な意味の神の感覚に近づくこと、それが「風薫る」という夏の始まりを示す季語とともに説得力を持って現れる。 次回も良ければ読んでください。
こんな都市伝説なかったでしたっけ。「くねくね」みたいな。 この「人影」はもはや現実の存在ではいられなくなった存在かもしれない。 しかし、消えたくはない。一面の田の中を彷徨い続ける。 内容が不明だからこそ怖いし深読みさせられる。神隠し的なイメージも相まって面白いけれども。 次回も良ければ読んでください。