法音院大會

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偏質的俳句鑑賞-第三百八十四回 ミシマから見る不二にホクサイの地中海-加藤郁乎『えくとぷらすま』

このページに「大岡信への招待」という前書きがある。 確かに静岡県の三島からは富士山が見える。そして、「ホクサイ」のイメージと富嶽三十六景が考えられる。 しかし、「地中海」という言葉が関係しない。今、デ・キリコ展を東京都立博物館でやっている。そのような超現実感を言語的に行おうとしたところが興味深い。 次回も良ければ読んでください。

    • 偏質的俳句鑑賞-第三百八十三回 新社員挨拶に来る船着場-西山睦『俳句2024年6月号』

      離島にこういう光景があるのかもしれない。 船着場という場所において人々の出会いが様々にある。 よく別れが書かれる気がする。しかし、今回は出会いだ。それが解像度が高くストーリーを感じさせるしっかりさがある。 次回も良ければ読んでください。

      • 偏質的俳句鑑賞-第三百八十二回 地球ごと浮いて桜の世に遊ぶ-柴田佐知子『俳句2024年6月号』

        桜のイメージと浮世のイメージは似ている。 宇宙に地球が浮くということは当然だ。そのイメージが「地球ごと」という言葉に置き換えられる。 そして、そこに「遊ぶ」のだ。 遊離したような不安定さ、地に足のつかない感覚が面白い。更に、その地も浮いているという二重構造が興味深い。 次回も良ければ読んでください。

        • 偏質的俳句鑑賞-第三百八十一回 名水に蛇口のありぬ二月尽-伊藤柚良『俳句2024年6月号』

          名水のイメージと言えばちょろちょろ湧き出ている感じだ。 しかし、道の駅とかに蛇口で「名水」って書いてあってペットボトルで汲んだりできるところが普通にある。 そういう滑稽さがこの句の面白さだ。しかも、その滑稽さは自然と人工、伝統的に作られたイメージと現代の実際の二つの対比によって形作られているのが上手い。 次回も良ければ読んでください。

        偏質的俳句鑑賞-第三百八十四回 ミシマから見る不二にホクサイの地中海-加藤郁乎『えくとぷらすま』

        • 偏質的俳句鑑賞-第三百八十三回 新社員挨拶に来る船着場-西山睦『俳句2024年6月号』

        • 偏質的俳句鑑賞-第三百八十二回 地球ごと浮いて桜の世に遊ぶ-柴田佐知子『俳句2024年6月号』

        • 偏質的俳句鑑賞-第三百八十一回 名水に蛇口のありぬ二月尽-伊藤柚良『俳句2024年6月号』

          偏質的俳句鑑賞-第三百八十回 熱帯魚愚かしきものは河豚に似る-水原秋櫻子『水原秋櫻子全集 第一巻』

          熱帯魚はスマートであるべきという固定観念がある。 その中には当然ぶくぶくに太ったやつもいるだろう。 それは「愚か」なやつだという。河豚に似るということが「熱帯魚」の中でどれだけ酷いことなのか。 ということを人間は思う。 しかし、魚から見ればそんなこと関係ないのだろう。特に、見た目なんて。 そういうちぐはぐさが面白い。 次回も良ければ読んでください。

          偏質的俳句鑑賞-第三百八十回 熱帯魚愚かしきものは河豚に似る-水原秋櫻子『水原秋櫻子全集 第一巻』

          偏質的俳句鑑賞-第三百七十九回 君の瞳にみづうみみゆる五月かな-木下夕爾『鑑賞現代俳句全集 第十二巻』

          なかなかセンチメンタル的で、ロマン的で良い。 「瞳」に景色が写ること自体が本当にあるのかどうか。「五月」という限定性があるからこそ、意味があるのかもしれない。 それ以外の時期は写り得ないのかもしれない。 次回も良ければ読んでください。

          偏質的俳句鑑賞-第三百七十九回 君の瞳にみづうみみゆる五月かな-木下夕爾『鑑賞現代俳句全集 第十二巻』

          偏質的俳句鑑賞-第三百七十八回 蜥蜴の交尾ずるずると雄ひきずられ-田川飛旅子『名句の所以』

          自然の中では生殖は荒々しい。 メスのほうが生殖においては強いことがよくある。カマキリなどもよく知られている。  蜥蜴も同じように交尾中にオスを振り落としたりするのだろう。 それこそ、自然のそのままの姿としての力強さがある。猥雑さなんてものは一ミリもない。人間が穿った見方で見ているだけかもしれない…。  次回も良ければ読んでください。

          偏質的俳句鑑賞-第三百七十八回 蜥蜴の交尾ずるずると雄ひきずられ-田川飛旅子『名句の所以』

          偏質的俳句鑑賞-第三百七十七回 二三歩に地をうしなへり五月闇-伊沢正江『現代俳句歳時記三百六十五日』

          確かに夏の夜の闇は深い黒だ。歩いているといきなり地面が消えたかのように見える。 それこそがこの時期特有の恐ろしさというか不気味さを演出する。 「地を失う」という表現が上手い。地面と闇と同化した瞬間がある。 次回も良ければ読んでください。

          偏質的俳句鑑賞-第三百七十七回 二三歩に地をうしなへり五月闇-伊沢正江『現代俳句歳時記三百六十五日』

          偏質的俳句鑑賞-第三百七十六回 西瓜切り分ける大人になってゐる-田口茉於『俳句 2024年2月号』

          西瓜を切るのは大人の役割だ。 いつの間にか西瓜を切り分ける側になっているのだ。もう、子供ではないのだという現実が突きつけられる。 それは素晴らしいことでもあり、同時に悲しいことでもある。 しかし、それが人生だということを感じさせるような一句だ。 次回も良ければ読んでください。

          偏質的俳句鑑賞-第三百七十六回 西瓜切り分ける大人になってゐる-田口茉於『俳句 2024年2月号』

          偏質的俳句鑑賞-第三百七十五回 風に浮く頁一枚夏はじめ-岸本葉子『つちふる』

          夏の始まりに心地良いぐらいの気温で外で本を読むのはリラックスできる。 その本の一頁が不意の風で浮いた。何が書いてあるのだろうか。 推理小説か、それとも純文学か。この「一頁」には読者の好きな本を何でも当てはまることができる。 夏の雰囲気が近づいてきたという感動をしっかりと提示している。 次回も良ければ読んでください。

          偏質的俳句鑑賞-第三百七十五回 風に浮く頁一枚夏はじめ-岸本葉子『つちふる』

          偏質的俳句鑑賞-第三百七十四回 サラリーマンあと十年か更衣-小川軽舟『くりかえし読みたい名俳句一〇〇〇』

          最近春らしい雰囲気もなくなって更衣の季節だと思う。 薄手のスーツに変えたときに長いサラリーマン生活の終わりが見えてきたのだろう。 「あと十年」という感慨とその長さを噛みしめるかのようだ。 季語がその感慨の発生した原因だが説明臭くなっていないところが良い。 次回も良ければ読んでください。

          偏質的俳句鑑賞-第三百七十四回 サラリーマンあと十年か更衣-小川軽舟『くりかえし読みたい名俳句一〇〇〇』

          偏質的俳句鑑賞-第三百七十四回  暫くは五月の風に甘えたし-柳家小満ん「増殖する俳句歳時記」

          落ち着く空気が五月の中にはある。それを童心として捕まえたのがこの句の良いところだ。 特に純粋な心。大人ならば少しためらってしまうような気恥ずかしい甘えというものが詩として昇華された瞬間だ。 逆にこれは大人がしっかりと詠んでいるからこそ意味がある。大人の文脈の中でこそ光る。 次回も良ければ読んでください。

          偏質的俳句鑑賞-第三百七十四回  暫くは五月の風に甘えたし-柳家小満ん「増殖する俳句歳時記」

          偏質的俳句鑑賞-第三百七十三回 バスも電車も窓あけて走るようになりぬ-篠原梵『現代俳句大系 第四巻』

          これこそが季節なのだ。季語だけではない。 日常へ観察眼を働かせて細いところを抜き出すべきなのだろう。 この句はまさにそうだと思う。夏の雰囲気がしっかりとある。乗客の服装まで見えてきそうだ。 次回も良ければ読んでください。

          偏質的俳句鑑賞-第三百七十三回 バスも電車も窓あけて走るようになりぬ-篠原梵『現代俳句大系 第四巻』

          偏質的俳句鑑賞-第三百七十二回 忘るるなこの五月この肩車-高柳克弘

          「この」の畳み掛けが「五月」と「肩車」を強調している。 自分的には親と子の話だと解釈した。 「肩車」できる年齢ぐらいの子供に呼びかけるのだ。この五月の記憶にくっついた思い出になる「肩車」を覚えていてほしいのだということを。

          偏質的俳句鑑賞-第三百七十二回 忘るるなこの五月この肩車-高柳克弘

          偏質的俳句鑑賞-第三百七十一回 風呂出でし裸は神や風薫る-松根東洋城『まいにちの季語』

          風呂上がった直後はとても気持ちいい。そして、それは精霊的な神と同化する感覚と同じなのかもしれない。 日本的な意味の神の感覚に近づくこと、それが「風薫る」という夏の始まりを示す季語とともに説得力を持って現れる。 次回も良ければ読んでください。

          偏質的俳句鑑賞-第三百七十一回 風呂出でし裸は神や風薫る-松根東洋城『まいにちの季語』

          偏質的俳句鑑賞-第三百七十回 白い人影はるばる田をゆく消えぬために-金子兜太『俳句用語辞典』

          こんな都市伝説なかったでしたっけ。「くねくね」みたいな。 この「人影」はもはや現実の存在ではいられなくなった存在かもしれない。  しかし、消えたくはない。一面の田の中を彷徨い続ける。 内容が不明だからこそ怖いし深読みさせられる。神隠し的なイメージも相まって面白いけれども。 次回も良ければ読んでください。

          偏質的俳句鑑賞-第三百七十回 白い人影はるばる田をゆく消えぬために-金子兜太『俳句用語辞典』