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(短編ふう)西日のあたる教室

今年のGWは、狭間の平日3日を休めば10連休だった。
5月3日の夕方。
「憲法改正」賛否両陣営の集会のニュースを観るまで、今日が憲法記念日だという意識は心の片隅にもなかった。

思い出した講義がある。もう40年近く経つ。

夕方の時限の講義だった。
3階の窓にのぞく銀杏の頭の列と硝子ににじむ西日が記憶の中にある。

講師は、ワタナベ、といった。
教壇には立たず、よく窓際の柱に寄りかかって講義していた。
西日に隠れて、顔が思い出せない。
痩せて、とがった顎の印象がある。

「右だ」という噂のある講師だった。
途上国はまず軍人が政権を持つべきだ、という意見をどこかの講義で述べたらしかった。
銃を扱うには、少なくとも最低限の教育と修練が必要だから、というのが理由だったという。

当時、普通に、軍国主義はよろしくない、という感覚を持っていたけれど、一理あるような気がして彼の講義をとっていた。

それぞれの憲法は通常、憲法自体の改正についてもそこに定められている。
条文が定めている発議の条件や承認手続きのハードルは憲法によって違う。
ハードルの高い「改正しやすい憲法」と、低い「しにくい憲法」に分類することができる。
しかし、条文はあくまで条文なので、しやすい、しにくい、を論じるには、過去に何回改正された実績があるか、という事実を踏まえなければならない。
法というのは、要は運用だから、と、ワタナベは講義した。

そういう意味で日本国憲法は「改正しにくい憲法」である、と分類した。
条文が、ではない。

分類すること自体に意味はない、と思うが、以来、自分の中で、日本国憲法は改正しにくいイメージとなった。
条文が、ではなく。
憲法に限らず、事実どうであるか、を見極める必要がある、ということをこの頃から意識するようになった気がする。
できてきたかどうかは別にして。

翌4日朝のTV番組でも両陣営の集会ニュースが取り上げられていて、有識者が口々にコメントしていた。

最近の政治資金問題と絡めて、憲法は為政者に国民が守ってもらいたい大原則である、身近なルールを守れない者にその大ルールを議論する資格はない、というようなことをひとりが言うと、別のひとりは、憲法は国家の掲げるヴィジョンであり、そのヴィジョンがまだまだ達成できていないのに、変える必要があるのか? というようなことを言っていた。

日本国憲法は、簡単には改正できない憲法、である。
但し、改正の実績はないが、条文によって、解釈は変遷している。

法、について考え始めるといろいろと混乱する。

あの国は、国民を守るために法があるのではなくて、国民を統治するためにあるという色彩が濃いんだよ、と、海外駐在から帰ってきた同僚が言っていた。

目には目を、というハンムラビ法典は、目には目以上のことをやり返してはいけない、ということを言っているんだ、と先日、初めて耳にした。イスラエルもイランもその歴史を踏まえてエスカレートしないようにしているそうだ。

ワタナベの講義では学生がいろいろと意見を言い、混沌とすることが多かった。

「法」より上位に「倫理」がある。
と、彼は法の講義をしながら言っていた。

「じゃあ、倫理の上は何ですか?」

「上はない。」

「じゃあ、倫理はどこからくるんですか? どうやって生まれるんですか?」

「教育から。教育から生まれる。」

「でも、じゃあ、そもそも教育の中身そのものはどうやって生まれるんですか?」

「自然科学と歴史。自然の成り立ちと、積み重ねてきた歴史から、倫理は生まれる。」

天空の星々の運行と、心の内なる道徳律、この二つに畏敬の念を抱いてやまない。
ワタナベは、カントの言葉を自分好みに翻訳して繰り返し推敲するのを趣味にしていたらしい。

西日に染まったけだるい教室ばかりが思い出される。

簡単には改正できない憲法の国家で、徒然に10連休を過ごした。

―了―

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