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(短編ふう)花曇りのち春雨

長い入院から帰ってきた妻が、いつもの時間に玄関で靴を履く音がした。
退院後、幸い日に日に日常が戻り、妻は体力回復の為に午前十時の散歩を日課にし始めた。
もうすぐ雨が落ちてきそうな花曇りだ。
雨になりそうだから今日はよさないか、と促したが、妻は日課を変えようとしない。
在宅勤務で手元の作業をしているばかりだったので、一緒に歩くことにした。

薄い雲に陽は遮られているものの、空気には春のぬくもりがある。

入院を境に妻との会話が増えた。
入院中、コロナの規制は厳しく、直接の面会は許されなかった。
一緒に暮らしていれば、横に座ってTVを見ているだけで互いの存在を感じられる。
スマホ越しでは、何か言葉にしなければならなかった。

定時で会社を出て、途中で電車を乗り換えて病院に立ち寄る。
立ち寄る、と言っても、外から病室を見上げて通話するだけ。
どこからしてもおなじなのだが、縁起を担ぐ百度参りのようなものだった。
看護師の昼夜勤務が入れ替わる時間にあたっているようで、いつもシャトルバスの停留所に交代で帰る人影が溜まっていた。
広い道路を挟んで向かいにある建物から、ハンドベルの「きよしこの夜」が聞こえた時期があった。建物は体育館など備えた公共施設で、クリスマスの催しに備えた練習場になっていたらしい。
冬の夜は早く降りた。

以来、退院後も、妻とよく話すようになった。
子どもたちは独立してしまって夫婦2人の生活である。

公園近くまで来たところで、やはり雨が落ちてきた。
葉が多くなった桜の下、東屋で休む。
辺りは散った花びらが地面に張り付いている。
彼女が、終ぞ聞いたことのない子供時代の話をした。

校舎を出るときは、この程度なら傘はなくても、と思える程度だった。ところが、雨足は予想に反してどんどん強まって土砂降りになった。ずぶ濡れになって下校した、という話だ。

妻が通った小学校の通学路は知っている。実家のすぐ近くに小学校があったが、彼女の時代にはそこはまだ開校していなかった。
「あたしが通ったのはこっちじゃなくて、この先のいつも曲がってくるところの先。だから、遠かった。」
と、以前、実家近くの小学校の横を通った時、助手席から教えてくれた。校庭を囲う塀に沿った、片側に田んぼの開けた一本道を抜けている時だった。
彼女の母校は子供の足では30分はかかるだろう距離にあった。

その道をずぶ濡れで下校するランドセルの彼女を想像した。
想像の中で、左眉の上に絆創膏を貼っている。アルバムの中で睨むように仁王立ちしていたときの姿だ。

雨が煙る田舎道を一台の車がトコトコとやってきて、傘をささない小学生を追い越す。
しかし、少し行って、考え直したように停まる。
「よほど見かねたのね。停まってくれて、乗ってけ、って、家まで送ってくれた。」
「乗ったんだ。…」
田舎なので、大方、近所の顔見知りだったのだろう、と想像する。
「そう。ずぶ濡れだし、汚しちゃ悪いと思ったんだけど。」
「知ってるひと?」
「知らないひと。」
まさかの答えである。
「…、知らないひとについてっちゃダメって教わらなかった?」
妻の目は、軒先の葉桜の方へ流れた。
「もう、すぐそこだったんで、ちょっと乗って、すぐ降りた…。」
「どんなひとだった?」
ずぶ濡れの少女を憐れんで拾ったら、乗せるまでもないすぐ先のところでで、少女はここだ、と言う。
どんな気持ちをだったろうか。
妻がいたずらっぽい目を向けて言う。
「もしかして、あなただったりして。」
未来の夫がタイムマシンに乗って、小さかった頃の妻のピンチを救った、というのはちょっと素敵な空想ではないか、と主張した。
「でも、まあ、あたしたちが生きてる間にタイムマシンはできないわね。」
「じゃあ、凛太郎だった、というのはどうだろう?」
とんと姿をみせない息子の名前を言ってみた。
「そうね。今度、会ったらお願いしておかなくちゃ。もうちょっと早くきてね、って。」
妻は、その時の大人には、その後会った記憶がないという。

霧のような細かな雨だ。
「春雨じゃ、濡れて参ろう、というのがあったわね。」
妻は言いながら立ち上がった。
「あったね。」
確かに小学生ぐらいの頃、雨が降ってきてもそう言って外で遊び続けた記憶がある。

「春雨じゃ、食って帰ろう、っていうのもなかった?」
いや。
それは今考えたでしょ。

―了―

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