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記事「私論、詩論、知らんけど」

 詩は弓矢短歌は刀俳句短刀

 あくまで個人の感想です(笑)「水曜日の窓辺」の空茶さんが、俳句と短歌についての考察を述べられていたので、詩を書くことからはじめて、いまは俳句や短歌を詠んでいる私も、ちょっと一言書きたくなった。

 物騒な喩えだが、対象への距離感という意味で、私はこう感じている。

 詩はかなり射程が長い。だから、対象に迫らなくても書くことは可能だ。題材も幅広く選べるし、射る矢の数も制限はない。だから、俯瞰的な表現には一番向くのではなかろうか。ただし、射程が長い分的外れも当然多くなる。 

 俳句は短刀(どす)のように対象に肉薄しない限り届かないので、俯瞰的な表現は難しいと思う。また、一撃でぶすっと急所を刺す必要がある。「季語」は、肉薄して急所を刺さなければならないという俳句の性質から必然的に生まれたのではなかろうか。

 短歌は、「射る」でも「刺す」でもなく「斬る」という距離感だから、どこをどう斬るかを考える必要に迫られる。古来より「序詞」や「掛詞」「本歌取り」などの技法が発達したのは、このことと無縁ではないと思う。短歌の射程は、詩のように的外れになることも俳句のように刃が届かないということもない代わりに、斬ったはよいがかすり傷程度しか負わせられないという距離感である、ということも出来ると思う。

 いずれにせよ言葉は、ときに「凶器」である。最近、私もXを使うようになったが、あの機関銃のような表現装置は本当に恐ろしい。若い方はご存じないだろうが、「セーラー服と機関銃」の薬師丸ひろ子のようにダダダダとぶっ放して「快・感・・・」などと酔ってしまいそうになる自分が怖い。

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