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逃れる者

     一

 ストーブの上のあたりめが、しだいに丸まってきた。
 まるで生きているかのように、ゲソの部分はうねうねと動いている。
 ひっくり返し、さらに焼く。頃合いを見て、藤岡はあたりめを皿に移した。
「あちっ」
 指先の熱さに耐えながら、藤岡はあたりめを裂いていった。
 皿の端にマヨネーズを盛り、その上から七味唐辛子を振りかける。あたりめには、軽く醬油をかけた。
 やはりストーブの上で燗をしていた日本酒をおちょこに注ぐと、藤岡はひと息にあおった。体がかあっと熱くなり、五臓六腑にしみわたっていく。あたりめを噛みながら、酒を注ぎ足した。
「おいおい、うまそうじゃねえか。俺もスルメで一杯やりてえな」
 背後から声がした。店長の西村だ。『にしむら』という、なんのひねりもない名前の雀荘は民家そのままの作りで、畳の十畳間に座卓が二卓置かれている。いま卓に着いている四人はみな、座椅子で胡坐あぐらをかいている。
「知ってますか、西村さん。江戸時代の中頃、博奕ばくち打ちがスルメじゃゲンが悪いってんで、あたりめって呼ぶようになったんですよ」
「スルメはスルメさ。ゲンなんか担いだって、今日の藤岡君はもうオケラじゃねえか」
「まあね」
「藤岡さん、いつも強いけど、たまにタコ負けするよな。ま、そんなことでもないと俺は勝てないけど」
 藤岡の一番近くに座る丸山が言った。あたりめを噛みながら、藤岡は丸山の手を覗いた。

 ④赤⑤三四五23455567

 テンパイしている。三六筒サブローピン待ちのタンピン赤。ドラは一萬イーマンで、場に三枚見えている。
 赤ドラが普及して、十年が経つ。きっかけは昭和三十九年に開催された東京オリンピックで、五輪にかけて五筒ウーピンを特別な牌にしようという企画が持ちあがった。花札やトランプのほか、麻雀牌も手がける任天堂が赤五筒を製造し、その後全国に広まった。
 いまでは、ピンズだけでなくマンズやソーズにも一枚ずつ赤を入れる雀荘が増えてきた。ここ『にしむら』も、一枚ずつ赤が入っている。
 丸山はダマテンのままだった。三色への手替わりを見ているのだろうが、三色にするには、二五八索リャンウーパーソーのいずれかを引いて、かつ三筒サンピンでアガらなければならない。
 リーチをすれば、三色にならなくても出アガリの満貫だ。ツモって裏ドラがひとつでも乗れば跳満はねまんになる。赤牌の登場によって、リーチはさらに強い役になった。それをわかっていない連中が多い。
「あ、ツモっちゃったよ。三色に変わるかと思ったのに。タンピンツモ赤、一三〇〇・二六〇〇の一枚」
 言いながら、丸山は裏ドラをめくった。四索スーソーが見えた。
「あっ! リーチしてりゃ裏三で倍満だったよ。こんなことあるかねえ」
 悔しそうに、丸山は手牌を崩した。
 ここ『にしむら』のレートは千点三百円のウマが三千円・九千円。一発と裏ドラ、門前めんぜんの赤に祝儀が千円つく。リーチをしていれば、いまのアガリによる収入は祝儀込みで一六八〇〇円となる。特に意味のないダマにしたがために、丸山はそれを逃したのだ。
 丸山もその対面にいる田辺も、大した腕ではない。丸山の下家に座る西村は店長だけあって二人よりは打てるが、門前にこだわりすぎたり、自分の手しか見えないところがある。
 気になるのは、西村の対面といめんに座る新規客、石神だ。
 年齢は西村より少し上、五十を少し過ぎたくらいか。鳥打帽をかぶり、無精ひげを生やしている。
 なにより眼を引くのは、右腕だった。肘から先がなく、袖がぶらぶらしている。南方戦線で失ったと、自分から語った。麻雀をやるには不利に思えるが、石神は左手だけでもほかの三人と変わらない速さで、器用に山を積んでいる。
 石神はかなり打てる、と藤岡は感じていた。
 いいタイミングで抜けることができた。しばらく、不自然に思われない程度に観察しよう。
 酒を飲みながらも、藤岡は神経を研ぎ澄ました。

     二

 最初の半荘はんちゃんは、西村がトップで石神は二着だった。ピンフへの手替わりがないカンチャン待ちで即リーチを打ってくるあたり、やはり石神は打ち慣れている。
 次の半荘は、石神の圧勝だった。
 麻雀そのものの腕もいいが、それだけではない。積み込みとすり替えをやっている。石神が積んだ山を見れば、それはわかった。三年かけて、藤岡は『にしむら』で使う牌のほぼすべてを判別できるようになっていた。しかし、石神の動きには不自然さがまったくなく、そして速すぎるため、いつすり替えたのか見抜くことができない。
 丸山も田辺も、石神のイカサマには気づいていないだろう。西村も疑いは抱いていても、確信までは持てていないはずだ。ガン牌でなければ、藤岡も気づかなかった。それほどの早業だ。
「藤岡君、ラジオ消してくんねえか。俺はどうも、洋楽のロックってやつは好きになれねえ」
 不機嫌そうに、西村が言った。
「えーっ。ディープ・パープルとか結構かっこいいじゃん。『紫の炎』なんか、最高だね」
「田辺ちゃんはヒッピーにもかぶれてたからなあ。もう大麻なんてやってないだろうな」
「古い話持ち出さないでよ、西村さん。いまは音楽があれば充分さ。藤岡さんは、ロックは嫌いかい?」
「ビートルズにローリング・ストーンズ、クイーンあたりは好きだよ」
 ラジオを消しながら、藤岡は答えた。
「いいねえ、ストーンズ。俺の人生も、ローリング・ストーンだ」
「ただのろくでなしじゃねえか。なんとか言ってやれよ、丸山」
「若い連中の趣味はわからないが……俺は、百恵ちゃんが好きだな」
「おう、百恵ちゃんはいいよな。石神さん、あんた音楽は?」
「いやあ、俺は音楽のこたぁよくわからないもんで……。まあ、美空ひばりは好きですよ」
「いいねえ、美空ひばり」
 しみじみと言って、西村がセブンスターに火をつけた。
 次の瞬間、石神の手が動いた。自山左端の上ヅモの牌を、手の内と入れ替えた。三人の対局者は、当然誰も気づいていない。石神の視線が、自分にむけられた。気づかないふりをして、藤岡はショートホープに火をつけた。
 次巡、石神はツモと発声し、手を開いた。
「三〇〇〇・六〇〇〇の三枚」 
 赤三枚使いの跳満。石神が入れ替えたのは、赤五索だ。石神の前の山の左端には、通常の五索が置かれている。
「うわあっ。赤三のダマッパネかよ」
 田辺が、千点棒を三本と千円札を三枚、石神の方へほうった。
「じゃあ、俺はそろそろ」
 言いながら、藤岡は腰を上げた。
「なんだ、帰っちまうのか。なんなら、いくらか回してもいいんだぜ」
 言った西村の表情には、明らかに不満の色が浮かんでいる。
「もう飲んじまったし、今日はもう勝てる気しませんよ」
「……そうか。また電話する」
 片手を挙げ挨拶すると、藤岡は『にしむら』を出た。
 牌をかき混ぜる音を背に、藤岡は空を見あげた。白い息が、星空に溶けていく。
 ショートホープに火をつけ、藤岡は自宅へむかい歩いた。

 翌日は、『にしむら』へは行かなかった。仕事も、近所の家に頼まれてドアを修理しただけだ。
 決まった仕事というものはない。職人の真似事をしたり、材木屋や農業の手伝いをしたり、声がかかれば、藤岡はなんでもやっている。
 生活には、困っていない。麻雀さえやっていれば、生きていくだけの金はなんとかなる。それで、充分だった。
 深夜に、西村から電話がかかってきた。
「……今日も石神が来たよ。ほとんど、やつのトップだった。藤岡君、おとといはやつの麻雀見てたろう。なにかしらサマをやってると思うが、どんな技かわかるか?」
「さあ……。多分、積み込みやすり替えの類だと思うけど、正直速すぎてまったくわからないですね」
 ほぼすべての牌を判別できることについては、当然誰にも話していない。ガン牌は、藤岡が『にしむら』で勝つための最大の武器なのだ。
「怪しい動きを見せたら、腕でも押さえちまうか」
「それはやめた方がいいですよ。万が一なにも出てこなかったら申し開きができないし、今後はアヤをつけることすらできなくなっちまう」
「うーん、正夫を呼ぶしかないか……」
「……そうですね」
 正夫は電器屋の息子で、東京の大学に通っていたが、中退して二年前にこの町に戻ってきた。麻雀の腕は達者で、サインを使った『通し』もできる。これまでにも玄人バイニンと思われる新規客が現れると、藤岡と西村、そして正夫の三人がかりで撃退していた。
「田辺も丸山も、すっかり石神にびびっちまった。これ以上、よそ者に好き勝手させておくわけにはいかねえ」
「……俺だって、もとはよそ者ですよ」
「藤岡君はもう、この町の一員さ。あんたに勝たれる分には、俺は構わねえと思ってる。ともかく、明日は頼むぜ」
「はい……」
 電話を切ると、藤岡は煙草を一本った。
 左手一本であれだけの技を遣う石神は、間違いなく手練れの玄人だ。
 しかし結局のところ、西村に睨まれたら打てなくなってしまう。藤岡のおとといの負けも、たまに見せる演出だった。そうやって、トータルではしっかり勝ってきた。今回も、極力自分がアシストに回り、三人がかりで石神を潰す。
 考え事をしているうちに、眠りに落ちた。

     三

 勝負が始まったのは、昼過ぎだった。
 起家ちーちゃは石神で、南家は正夫、そして藤岡、西村という並びだ。
 東一局は、藤岡と正夫で西村をアシストし、速攻で石神の親を落とした。
「こりゃきついですなあ」
 親を落とされた石神が言った。三人で組んでいることは、すでに石神もわかっているようだった。
 石神の後ろには、薄汚れたボストンバッグが置かれている。どうやら宿を引き払ってきたようだ。こうなることを、事前に見越していたのかもしれない。確かに石神は強いが、それゆえにひとつの場所に長く留まるのは難しいだろう。
 次局以降も、藤岡はアシストに徹した。石神のリーチは、すべて正夫が一発を消した。それでも、石神はすり替えを遣い一度はアガリをものにした。技を遣ったことはわかっていても、やはり見抜くことができない。あまりの鋭さに、正夫も驚きを隠せない様子だった。
 一回目の半荘は、西村がトップ、二着が正夫、石神が三着で、藤岡はラスだった。石神を浮上させないためには、自分を犠牲にするしかなかった。今日は、とにかく石神を潰すのが目的だ。多少の負けは、最初から覚悟している。
 二戦目以降も、藤岡は西村と正夫へのアシストを主眼にしつつ、場面によっては、自分がアガることもあった。
 石神はダマテンで構え、自分の山が残っているうちにアガるようになった。なるべく技を遣わせないよう、西村は石神の山が残り少なくなってきたらすぐ自分の山にくっつけるようにした。連携もあって、石神に三連続ラスを押しつけることができた。
 四戦目が終わり、場替えとなった。
「今回で終わりますよ」
 下家の石神が言って、息をついた。
 傷が浅いうちに、撤退を決めたのか。藤岡は、対面の西村と上家の正夫を見た。二人とも、眼でうなずいた。
 さすがに苦しいのか、石神の額には汗が浮かび、顔の皺はいっそう深くなったように見える。それでも、三人が組んでいることに対して文句を言ってこないあたりは、見あげたものだ。おそらく、石神はこういった場面を何度も経験しているのだろう。
 最後の半荘となったが、手を緩めるつもりはなかった。石神の起家はあっさりと正夫が落とし、その後は小場が続いた。
 東ラスの親番で、藤岡は積み込みをした。初歩的なドラ爆弾。サイコロも狙った通りに五を出した。石神が今回で帰るのなら、少しでも負けを減らしたかった。
 ドラはあらかじめ仕込んでおいた四筒で、配牌から四枚ある。六巡目まで引っ張ってから、暗カンした。
「ドラカンかよ」
 西村が呟いた。藤岡は無言で新ドラをめくった。新ドラは場に三枚見えているぺーで、特に意図はない。ただ、裏ドラの二枚は三筒を仕込んである。
 七巡目でテンパイし、藤岡はリーチを打った。

 ②②四五六七八111 暗カン④

 待ちは三六九萬サブローキューマン。裏ドラが八枚なので、出アガリでも数え役満になる。西村と正夫には、すぐにサインで教えた。そして、次のツモに六萬がいることも確認済みだ。
 石神が無筋の七萬チーマンを切ってきた。西村も正夫も現物を切ったが、正夫が切った二索リャンソーを、石神がポンした。六萬は西村へ流れ、一発はなくなった。やられた、と思いながらざっと山を見回した。藤岡のツモ筋に待ち牌がいるのは、六巡先だ。
 こちらをチラリと見ながら、西村は石神に対しても無筋の六筒を切ってきた。
 石神の手は一見タンヤオ模様だが、自風のなん暗刻あんこで持っている。藤岡の現物でも切りにくくなったが、親に大物手をアガられるよりは、石神に安手でアガって欲しい、という気が起きたのかもしれない。この半荘で帰る石神を倒しに行く意味は、もう薄れつつある。西村も正夫も、自分の懐を優先するようになっても不思議ではない。
 そもそも、負けを減らそうと積み込みをしたのは自分だ。ドラを暗カンまでしてのリーチは、失策だったか。後悔しても仕方がない。アガればいい。それだけのことだ。
 二巡後に、石神がテンパった。待ちは五八索ウーパーソー。西村も正夫も五八索をすでに切ってはいるが、再び持ってきた時もためらいなくツモ切るだろう。
 西村が三索サンソーをツモ切り、正夫は九萬キューマンを引いたが、当然切ることはなく、四索を切った。
 藤岡は四枚目の北をツモ切った。石神のツモは、九萬。藤岡は息をひそめて念じた。
(切れよ。無筋の七萬も押してきたじゃねえか。切っちまえよ……)
「失礼」
 断りを入れて、石神はこちらの手牌を見てきた。石神は、河ではなく、手牌を見ている。まさか、この二日間で、石神もガン牌をおぼえたというのか。藤岡は唾を呑みこんだ。
 さらに山を確認すると、石神は雀頭の二萬リャンマンを切った。現物ではないが、藤岡の河には伍萬ウーマンが切られている。石神は、九萬を重ねるつもりだ。
(切らない……。完全に読まれてるのか)
 その九萬が二巡後に重なり、再び五八索待ちで石神が張り返した。ただ、一巡前に正夫が五索を切っている。残り枚数は少ない。
 西村も、正夫も、五八索を引くことはなかった。
 藤岡は、ゆっくりと息を吐きながら、山の三萬サンマンに手を伸ばした。
 牌の背を見て、藤岡の手が一瞬止まった。
(違う! 三萬じゃない……)
 山にいたのは、三萬ではなくちゅんだった。ツモはすでに石神の山に入っている。うかつだった。いつの間にか、すり替えられていたのだ。六巡目の石神の河に、切ったはずのない三萬があった。そこにあった中と取り替えたのだろう。気づけなかった。石神の顔を見ながら、藤岡は中をツモ切った。
 石神の次のツモは、四枚目の五索で、赤だった。
「ツモ。七本十三本」
 アガリ形と河を見て、正夫は大きな眼をさらに見開いた。九萬を引き二萬のトイツ落としで迂回、九萬を重ね再びテンパイしたのは誰の眼にも明らかだった。
 とんでもないやつだ。西村の表情も、そう言っている。
 ――南入した。
 前局を引きずってか、三人の連携はうまく噛み合わなかった。親の石神に跳満の二枚オールをツモられ、大量リードを許すことになった。
 きっかけを作ったのは自分だ。あのドラカンリーチで、すべてが狂ってしまった。忸怩じくじたる思いとともに、藤岡は奥歯を強く噛みしめた。
 一本場、配牌を取り終えた直後に、石神がぶっこ抜きを遣った。全員が理牌りーはいのため視線を落とす、その一瞬を狙われた。
 通常、ぶっこ抜きは不要牌二枚を上下に重ねた一幢いーとん分を右手で山にくっつけ、左手で山から一幢を持ってくるのだが、右腕がない石神は左手の中だけでスライドするように入れ替えた。さすがに動作が大きく、これまでのすり替えと違い眼で捉えることはできた。それでも、見事な手並みについ見とれてしまった。ぶっこ抜きは左手芸とも呼ばれるが、石神のぶっこ抜きは、まさに左手芸と呼ぶにふさわしい鮮やかなものだった。
 西村は、理牌に夢中でまったく気づかなかったようだ。正夫と眼が合って、互いに苦笑した。現場を押さえられなかった以上、文句はつけられない。石神も、三人で組んでいることに文句は言ってこないのだ。
 石神が持ってきた牌は、二枚とも中だった。手牌にははくがトイツ、さらに発を暗刻で持っている。白と発は正夫と西村の山から取り出したのでまったくの偶然だが、これで大三元の種が揃ってしまった。
 これまでにも、石神は自分の山にいろんな仕込みをしていたのだろう。配牌で白と発が揃っているのを見て、今回は中を抜いたのだ。
 第一打、石神が南を切ると、南家の西村がすぐさまポンして、白を切った。その白を、石神が鳴いた。
「親の一鳴きかあ。怖いねえ」
 正夫が、それとなく牽制した。中は藤岡の手に一枚ある。残り一枚の中は、上ヅモにはいない。王牌に寝ていてくれればいいが、そうでなければ自分か西村がいずれ中を引くことになる。ドラの一索をトイツで持っている西村は、中を持ってきてもすぐに切るだろう。なんとしても、最後の中は自分が引きたい。 
 正夫の手には発が一枚ある。ぶっこ抜きを見ている以上、簡単に切ることはないだろうが、発はすでに石神が暗刻で持っている。
 発は安全だということも、中を切るなということも、サインで伝えるわけにはいかない。三年かけて憶えたガン牌は、絶対に知られてはならない秘密だ。この局は自分か正夫が中を押さえ、西村のアガリに期待するしかなかった。
 三巡後、西村が五筒を引き赤五筒に重ねトイツにすると、サインを出してきた。
《一索か五筒を鳴かせろ》
 五筒は石神がトイツで持っている。少し悩んだが、藤岡は手の内から一索を切った。口の端で笑いながら、西村がポンした。ダブ南ドラ三赤、跳満のイーシャンテンだ。

 赤⑤⑤36六七八 ポン1 ポン南

 この鳴かせが裏目となった。一巡後、西村が中を引き、あっさりツモ切った。
「ポン」
 晒された白と中を見て、さすがに西村の顔にも緊張が走った。だがもう遅い。発は配牌から暗刻で、石神は六九索待ちで大三元をテンパイした。

 発発発⑤⑤78 ポン中 ポン白
 
 西村も二つ副露ふーろしているが、まだイーシャンテンだ。三索か六索へくっつけば、西村もテンパイする。索子の五から八を引いて六索へくっつけばいいが、一から四を引いた場合は、六索が出て西村に放銃となってしまう。
 テンパイ気配を察し、正夫も慎重になった。九索を引いたが、当然切ることはない。藤岡は安牌を増やすため、無筋の中張牌を切った。
 西村からは、五筒を鳴かせろというサインが出ていた。単騎も辞さないということだろうが、五筒は石神がトイツで鳴かせることはできない。
 石神から正夫まで、ツモ切りが続いた。
 藤岡の切り番。山を見ると、次の石神のツモは六索だった。
 ここまでだ。石神にツモらせれば藤岡の負担は減るが、西村と正夫も点棒と役満祝儀を払わなければならない。石神は負け分のほとんどを取り戻し、西村と正夫は勝ち分を減らすことになる。
 少し息を吐いて、藤岡は九索を切った。
 途中までうまくいっていた連携が乱れたのは、自分の積み込みが原因だ。その責任を取るというわけではないが、今日は自分のひとり負けでいい。役満祝儀は出アガリで二万円、ツモなら一万円オール。石神を負かすというところまではいかなくても、思惑通りにはさせたくなかった。金は取り返せるが、矜持は取り返せない。
 少しだけ間を置き、石神がロンと発声し手牌を開けた。なぜ、という疑問の表情を浮かべている。
 石神から眼をそらさず、藤岡は点棒と祝儀を支払った。

     四

 清算が済むと、石神はすぐに出ていった。
「助かった、って言い方も変だが、藤岡君が打たなきゃ、ツモられてたんだな」
 西村が、石神の次のツモ牌である九索を摘まんで言った。
「俺も追いついたんですけどね」
 言いながら、藤岡は自分の手牌と山を崩して、かき混ぜた。実際には、手牌はばらばらの状態だった。
「結局、ほとんど藤岡さんのひとり負けになっちゃいましたね……」
「仕方ないさ。あいつを負かすのは無理だったが、勝たせはしなかった」
「ま、藤岡さんなら、今日の負けはすぐ取り戻せるでしょうしね。西村さん、俺、腹減っちゃったなあ」
「うどんなら、すぐに作れるが。藤岡君も食うか?」
「いや、帰りますよ。さすがに今日はくたびれちまいました」
「今日は悪かったな。まあ明日からまた来てくれよ」
 適当に返事をして、藤岡は『にしむら』を出た。
 時刻は十七時を少し過ぎたくらいだが、すでに陽は落ちている。風が冷たかった。コートの前をき合わせ、藤岡は足早に駅の方へむかった。
 五分ほどで、石神に追いついた。ボストンバッグを肩にかけ、右の袖は風になびいている。背を丸めた後ろ姿は、どこか寂しそうに見えた。
 声をかけると、石神は無言でこちらを見た。
 そのまま並んで歩いた。少しして、石神が口を開いた。
「なぜ、九索を切った? 俺の次のツモは、六索だったはずだ」
 石神の口調がさきほどまでと違う。本来は、こういう話し方なのだろう。
「やっぱり、わかってたんですね。あの雀荘で使う牌は四セット。それを憶えるのに、俺は三年かかりましたよ。石神さんは、二日で憶えちまった。かなわねえや」
「二日間で使ったのは、二セットだ。それに、俺が憶えたのは半分ってところだ。ただ、あんたがすべての牌をわかっているとは思ってた」
「そこまでお見通しだったんですか」
「眼と手の動き。あとは切り方、残し方を見ればわかる。しかし、あのドラ爆は失敗だったな。あれが反撃のきっかけになった」
「そうですね……。まあ俺も最後の意地で、石神さんに祝儀の一万円オールは引かせたくなかったんですよ。たとえ俺がひとり負けになったとしてもね」
「なるほど……。そうやって店や客の懐をうまく調整しながら、勝ち続けてるんだな」
「まあそんなとこです。ところで石神さん、腹減ってませんか。駅舎の中に、立ち食いそば屋があるんですよ。餞別代りに、奢ります」
 話しているうちに、勝負の時とは違う石神のくだけた態度に、藤岡は親しみを覚えていた。
「そうだな。じゃ、お言葉に甘えて」
 笑った石神の顔の皺が、いちだんと深くなった。
 駅に着いた。
 立ち食いそば屋に入ると、藤岡は月見そばを注文した。石神はかけそばをネギ抜きで頼んだ。
「ネギがあると、すすりにくいからさ」
 言って、石神はかけそばに七味をたっぷり振りかけると、勢いよくすすりだした。見事な食いっぷりだ。
 藤岡が半分も食べないうちに、石神はかけそばを平らげてしまった。くつろいだ表情で、石神は爪楊枝を使っている。
「すり替えだけじゃなく、食うのも早いなあ」
「ふっ。奢ってもらった礼と言っちゃなんだが、面白いこと教えてやるよ。俺が右腕を失ったのは、南方じゃないんだ」
「えっ。じゃあ戦争に行ったってのは……」
「戦争には行ったさ。南方は地獄だった。思い出したくもないよ。だが、俺が右腕を失くしたのは、東京だ」
 石神の方を見ながらも、藤岡は箸を動かしていた。石神が丼に爪楊枝を投げこみ、話を続けた。
「もう四半世紀ほど前かな。やくざが仕切る賭場で、サマをやったんだ。当時は未熟でな、すぐにばれちまって、言い訳する間もなくこれよ」
 にやりと笑いながら、石神は左手で手刀を切ってみせた。
「ふうん。賭場で腕を落とされたなんて言ったら、雀荘じゃ打たせて貰えないですもんね」
「そういうことだ。その後は死に物狂いで技を磨いて、ようやくここまでになった」
「石神さんほどの玄人に出会ったのは、初めてですよ」
「ひと昔前は、俺よりすごいやつがごろごろいたもんだけどな。藤岡さんはいま、幾つだい?」
「三十一です」
 藤岡は、丼に箸を置いて答えた。
「俺よりふた回り下か。ここに来る前は、東京か?」
「ええ……。そんなことまで、わかるもんなんですか」
「なんとなく、匂いでな。それと……あんた、以前は活動家かなんかだったろう?」
「……それも、匂いってやつですか」
「まあな。俺と同じ、逃れる者の匂いだ」
 藤岡はショートホープに火をつけた。三年前、警察によるローラー作戦が実施されるという情報があり、藤岡は都内のアパートを引き払い、この町に移ってきた。そのことについて、誰にも話したことはない。
 石神は黙って、藤岡が煙草を喫い終えるまで待っていてくれた。
「……次は、どこへ行くんですか?」
「特に決めてはいないが、北へ北へと行こうと思ってる」
「冬だってのに、わざわざ」
「北国の方が、長く打つやつが多い。俺も稼げるってわけよ」
「そういうもんですか」
 石神が切符を駅員に渡した。鋏を入れる音が、人気の少ない駅舎に冷たく響いた。
「ごちそうさん。達者でな」
「石神さんも、お元気で」
 頷き合い、石神と別れた。
 駅を出た。いつの間にか、雪がちらついている。
 警笛が鳴った。電車が来たようだ。
 藤岡は少し立ち止まったが、すぐにまた歩き出した。

     * * *

 年が明け、二月も中旬に入った。
 藤岡は、『にしむら』のストーブで餅を焼いていた。
 焼けた餅を、汁粉の椀に入れた。食べながらテレビを見ていたが、大して面白い番組はやっていない。藤岡は、チャンネルのつまみをガチャガチャと回した。結局、ニュース番組に落ち着いた。
「――青森で、雪に埋もれた身元不明の男性の遺体が発見されました」
 アナウンサーの声に、藤岡の箸は止まった。年齢は五十代とみられ、全身に暴行を受けた形跡があり、右腕が肘の先からないという。
「どうした、食い入るように見て。なんか面白いニュースでもあったか?」
 コーヒーカップを手に、西村が部屋に入ってきた。
「いや、別に」
「もうぼちぼち、来る頃だな」
 相槌を打ち、藤岡はテレビを消した。
 ほどなく丸山と田辺が来て、ゲーム開始となった。
 藤岡は起家だった。サイコロを振り、配牌を取っていく。
 どこかで、ウグイスのく声がした。
 今年は少し早いな、と藤岡は思った。梅はもうぽつぽつと花が咲いているし、窓から差しこむ陽の光は、おだやかで暖かい。
 積み込みはしていないが、手はまとまっていた。タンピン赤のリャンシャンテン。
 藤岡は北から切った。一瞬、石神のことを思い出したが、すぐに忘れた。
 ウグイスが、また啼いた。



     (了)

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