見出し画像

わたしがうまくいくとき、いかないとき。


十代の頃、いくつかの文章のコンクールに応募して、わたしは自分の中のある法則に気づいた。

「そろそろ結果発表だな」と意識しているときは決まっていい連絡は来ず、出したことすら忘れて日々を暮らしているときは受賞できる、という法則。これは大人になってからも健在で、「まだかなまだかな」と待ち焦がれ始めてしまうと、「今回はだめなんだろうなあ」と予感がし始める。これは文章のコンクールに限ったことではなく、例えば仕事でも「いい仕事こないかなあ」と思っているときはスマホは鳴らず、何も期待していないときに、ひょっこりいい話が舞い込んできたりする。かといって忘れて暮らす、というのはむずかしいのだけど。

わたしはこれをずっと、ジンクスのようなものだと思っていた。でも最近、単なるジンクスで片付けずに、もう少し、わたしがうまくいくときとそうでないときの法則として言葉にできるんじゃないかな、という気がしてきている。

というのも、少し前にとあるコンテストで入賞したとき(そのときも発表日のこと忘れてた)、審査に携わった方に「力が抜けてたのがとてもよかった。狙ってない感じが」と言われたのだった。出すからにはあわよくばという気持ちはもちろんゼロではなかったし、どんな作品が賞をもらっているかという分析だってしたけれど、それよりもっと、平凡な言葉で言えば「創作を楽しむ気持ち」がその時のわたしにはあり、「まあ今やれることはやったから、あとは読み手に任せよ~」という感じで、自分の手から放したのだった。本当に期待してなくて、数字にしたら受賞できる可能性は1%ないなと思っていて、それでいいやと、応募したまた翌日から創作の日々に戻ったのだった。

そういえば、そうだった気がする。はじめてこの法則に気づいたころから。「まだかなまだかな」と結果発表の日を覚えてしまっているときのわたしは、思い返せば最初から「絶対やってやるっ!」モードで、肩にありったけの力を入れて鼻息を荒くしていた。ガチガチに狙っているわたしであって、おそらく出来上がるものにもその鼻息の荒さがにじみ出てしまっていたのではないかと思う。

一方、応募したことも忘れてしまうくらいのときは、力が抜けていて、目の前のことをたんたんと楽しみながらやれているときだったのだと思う。だから出したあとも過度に結果に期待せず、また次の種を蒔くように日々を暮らせていたのではないか。

わたしは狙い過ぎるとうまくいかない。重大な発見をしてしまったかもしれない。たんたんと、たんたんと、楽しんで。そういえばnoteにしても、狙った記事はコケるもんね。どうか、どの記事が鼻息荒いか、伝わってませんように。


おわり

この記事が参加している募集

なりたい自分

with ヒューマンホールディングス

いただいたサポートは、なにかたのしい経験に変えて、記事を書くことに使います!