理解って自分の型にはめることじゃない
理解って、自分の知ってる型にはめることじゃない。
もちろんはまることもあるけれど、むしろ大抵は自分の型のバリエーションを増やさなきゃいけないと思う。「受け入れ」の方が近いかもしれない。
大人はもしかしたら、無意識的であれ、自分が十分な型をもう持ってると感じているかもしれない。
でもそれはとても傲慢なことだと思うし、型はいつまでも十分に持っていることはないと思う。
アンコンシャスバイアスと呼ばれるように、無意識のうちに決めつけていることが誰しもある。
そうやって考えてくうちに、「理解」って2種類あるんじゃないのかなと思った。
二種類の「理解」
一つの理解はもちろん、知ってる型にはめる、もしくは型から論理的に説明できるようになることだ。
解けない数学の問題があるところから、
知ってる公式を使って答えを導く。
自分と似たような境遇の人を見て、その気持ちわかるよ、って言う。
でも最初に公式を学んだり、新しいスマホを手に入れた時はどうだろう。
円の面積の計算式をみて、なるほどねってなるだろうか?
正方形よりは少ないなとか、ならせば大体こんなもんかとか、そういう考察はある程度できても、
πってそういうやつなんだ〜となる。
アイコンを長押ししたらアプリ消せるんだ、スワイプしたら画面移動できるんだ、そういうのって触りながら覚える。
これも「理解」だと思うが、受け入れるイメージが強いように思う。
これが二つ目、受け入れる方の「理解」だと考える。
こちらの「理解」を最初にして、基本操作を覚えるから、もっと多くのことを論理的に、一つ目の方の「理解」をできるようになる。
分からないと怒る人
分からないものにはイライラすることもある。
分からない自分が許せないとか、自分に分かるように説明できない人がムカつくとか、理解したいのにできない、思い通りにならないことにモヤモヤするとか、色々な理由があると思う。
子供はよくそれで勉強を嫌いになるらしい。
でもこれって自分の持ってる型に無理にはめようとするから「理解」できないんじゃないかなと思う。
大人は子供よりは多くの型を持ってることが多い分機会は減るかもしれないけれど、場合によっては同じことが起こってしまう。
これは一つ目の方の理解に頼りすぎで、意識的に受け入れることで、緩和できることもあるように思う。
全てを理解できるわけがない
世の中にはサイコパスだって、連続殺人鬼だって存在する。アスペルガーだって、LGBT+だって、存在する。
多様性を「理解」することは、同じ気持ちを知ることじゃない。むしろサイコパスと同じ気持ちになれちゃ困る。
世の中には必ず自分の知る型にはまらないものがある。
自分は電気電子工学科であった。これは「電気」と「電子」という二つの学問を組み合わせた学科である。
世の中には電気を使った様々な製品が存在する。「電気」はそういった製品の設計などに関する学問で、「電子」は物理現象から仕組みを解き明かす。
電池に豆電球を繋ぐと光る。
これは電流が流れ、豆電球内のフィラメントが熱くなり、光るからである。
ではなぜ電流が流れるのか?なぜ熱くなるのか?なぜ光るのか?
こういったことを調べるのが「電子」という学問である。
いくら突き詰めようが、更に疑問は湧いてくるはずだ。どこかで現象として受け入れて、覚えることで、ある事象について「理解」した気持ちになっている。
「豆電球に電流が流れると光る」ことと、「電池を繋ぐと電流が流れる」ことを受け入れて知っていれば、「電池に豆電球を繋ぐと光る」ということが理解できる。
今までだってそうやって、二つの「理解」を組み合わせて、「理解」を広げてきたんだと思う。
受け入れること
多様性を「理解」するとは、存在を知って、受け入れて、互いを尊重し、寄り添えるようになることだと思う。
勉強だって、根本をつきつめればどこかで受け入れることで「理解」している。
「理解」できないと思った時、ちょっと意識的に自分の型にはめようとしてないか振り返りたい。そういうものだと受け入れたい。
そしたらまたもっと「理解」が進むこともあんるじゃないかなあ。
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