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ミュージカルと格闘する子

年寄りの独り言として聞いていただきたい。

40年ほど前、まだロンドンのウエストエンドで、現在はミュージカルの定番の「レ・ミゼラブル」や「オペラ座の怪人」などが新作として上演されていた頃の話だ。

当時筆者は親の仕事の都合でイギリスに連れていかれ、インターナショナルスクールに放り込まれていた。

その学校は何らかのプロジェクトでミュージカルを上演する予定で、筆者の知らない子たちがミュージカルの稽古に明け暮れていた。

そんなことも全く知らずにいた筆者は、ある時狭い学校の構内で、友達と歩きながらいくつかのミュージカルの歌を歌っていた。

筆者は自宅ではママさんコーラスを長くやっていた母と、台所で毎日歌を歌っており、日本の唱歌からクラッシック,それに当時流行っていたウエストエンドのミュージカルの歌を毎日のように歌っていた。

高校時代から合唱部で鍛えていた母は唄に関しては厳しく、息の使い方や語尾の使い方などかなり鍛えられた覚えがある。

異国に引っ越してきて、家の外に活動を広げられていなかった母にとっては歌は唯一続けられる趣味の一つであり、毎日のように二人で歌えるものは歌っていた。

地元の英語がある程度身についてきた筆者は、当時流行っていた「レ・ミゼラブル」と「オペラ座の怪人」,それに「メアリー・ポピンズ」などのミュージカルにはまり、CDを購入して毎日のように聞いていた。そして母が許す限りでそのミュージカルの歌を歌っていた。

母は息の使い方や声の出し方に厳しく、唄う時の腹式呼吸を覚えたのもその頃だったような覚えがある。

毎日歌っていると、自然と歌詞も覚える。ミュージカルの歌いかたは決して日常で使う英語ではないが、子音の使い方や流れる様な言葉の使い方はミュージカルから学んだ覚えがある。

ある時、興に乗った筆者は学校の入り口付近で覚えたてのミュージカルソングを大声で歌っていた。近くで授業をやっているクラスがあることも気にせず、四曲ぐらい一気に歌った。

すると、ある教室から先生が出てきた。

うるさくしたのだろうか、筆者はそこで歌うのを止め、遅刻ぎりぎりで次の授業の教室まで走っていった。

その時教室から出てきた先生は、学校のミュージカル・プロジェクトを牽引されていた人の一人で、どうやらこの先生に筆者の歌が聞かれてしまっていたらしい。

その数日後、図書室でその日の復習をしていた筆者の前に同じ学年の女の子がやってきて

「・・・・you do it !!!」と叫んでいった。

あまりの剣幕に驚いたが、復習に集中していた筆者は、その子が何を言っていたか半分も分からなかった。

気が付くと、その女の子の友達が図書室に入って来た。

筆者は思わず聞いてみた。

「Is she alright ?」
「yeah. She should be alright. Are you alright?」
「Yes, I was half listening. Is she really alright ? She sounded upset」

良く聞いてみると、先ほど叫んでいた女の子はミュージカルに関わっていた子だった。

しばらくその友人の女の子が図書室と外を行き来し、筆者にこう言った。
「Do you think you can give her some advice ?」

何のことか良く分からないまま図書室を出ると、周囲に集まっていた人達が、筆者に歌い方をその子に教えてやれという。

歌い方と言っても、コツがいくつもある。いっぺんに沢山教えても意味が無いと思った筆者は、声帯を傷めない歌い方のコツや、腹式呼吸のやり方、そして語尾を強調する歌い方をその子に教えた。

声帯を傷めないためには、鼻の奥を震わせる歌い方。
腹式呼吸をやるには、肺に息を入れると横隔膜が固まってしまうからもっと下のへそより下とウエストの後ろ部分に息を入れるやり方。
語尾の子音を強調して、韻を踏んでいる言葉を強調する歌い方。

この三つをその女の子に教えた。

鼻の奥を震わせるのを分かってもらうには,筆者の鼻をつまんでもらって鼻の上の方に振動が来ているのを体感してもらう。

腹式呼吸は筆者の下腹部とウエストの後ろに手を当ててもらって、息の溜め方と,肺に息を入れるのではなくもっと深い所まで息を入れ,体に入って来た空気を無駄に使わず腹式呼吸で16カウント息を続ける方法をやって見せた。

語尾についても、韻を踏んでいる歌詞を観客に分かってもらえるよう、大げさに聞こえるくらい語尾の子音を強調するやり方をやって見せた。

あっけにとられていたその子は、「thank you」を言うのが精いっぱいだった。

日はあっという間に過ぎ去り、ミュージカルの発表会の日が来た。

演目は「The Match Girls」という古いミュージカルで、筋書きと言いい、歌の良さと言い、キャラクターたちの下町言葉と言いすべてが素晴らしく、息をつく間もなくミュージカルの世界に浸ることが出来た。

演目が終了し、出演していた友達に声をかけにいった所、件の女の子が遠くにいた。

筆者は思わず「great job !」とその子に向かって叫んでいた。

その子はミュージカルの主演を任されており、一時間以上もの演目をほぼ歌いづめだった。

彼女の歌の歴は知る由も無かったのだが、恐らく相当なプレッシャーをかけられていたのだろう。筆者の所に怒鳴り込んできたときは、恐らくストレスがマックスまで達していたのだと思われる。

しかし本番での彼女は、主役のKateという役を見事に歌い切り、満場の拍手を浴びていた。

筆者は我慢できなくなり、立ち上がってスタンディング・オベーションをした。

100年近く前にロンドンの下町のマッチ工場の女工たちが、劣悪な労働環境に反旗を翻してストライキに臨むそのストーリーは、聞いていて面白く、主役の彼女がストーリーを引っ張っていくのは見ていて引き込まれるものがあった。

このミュージカルを聞いて、少しは自分も何かの手伝いを出来たのだろうかと思う同時に、この作品を日本で上演したいと思った覚えがある。

同時に、主役として周囲を引っ張っていかなければならなかった彼女の苦労が身に染みて分かった。

一時間以上も歌いっぱなし、出ずっぱりの彼女は練習期間からかなりのプレシャーを駆けられていたのだろう。その彼女に,筆者のやった短いデモンストレーションが役に立ったか分からないが、彼女がとにかく一生懸命に演じていたのが40年近くたっても筆者の瞼の奥にとどまっている。


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