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『信じていたのはなんなのか…』〜記憶と記録と615〜

世の中 思った通りにはいかない
当たり前だけれど
数年間ガマンしてきたこと
終わりのメドを勝手に感じていたから
終わらなかった時のショックは大きかった

数年前に相談して
少ない人数の中「やるしかないね」と
二人で役を分け合った
私情で大変なことがあったということで
相手は役を退いた
そのときは納得していた
数年後その事情が取り除かれると
思っていたから

なぜ大変なのか
詳しくはわからない
ただ自分だって大変だった
それでもやってきた
今回のことは納得がいかなかった
でもやるしかない
そう考えたとき次のことが思い出された

「『その人のことを信じようと思います』っていう言葉ってけっこう使うと思うんですけど、『それがどういう意味なんだろう』って考えたときに、その人自身を信じているのではなくて、『自分が理想とする、その人の人物像みたいなものに期待してしまっていることなのかな』と感じて」
「だからこそ人は『裏切られた』とか、『期待していたのに』とか言うけれど、別にそれは、『その人が裏切った』とかいうわけではなくて、『その人の見えなかった部分が見えただけ』であって、その見えなかった部分が見えたときに『それもその人なんだ』と受け止められる、『揺るがない自分がいる』というのが『信じられることなのかな』って思ったんですけど」
「でも、その揺るがない自分の軸を持つのは凄く難しいじゃないですか。だからこそ人は『信じる』って口に出して、不安な自分がいるからこそ、成功した自分だったりとか、理想の人物像だったりにすがりたいんじゃないかと思いました」

「信じる」ということに対する芦田愛菜さんのコメント

器の小ささを思い知る
自分は未熟すぎる
まだまだ修行が必要だ

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