私がお砂糖できない理由(VRCで感じたこと①)

皆さんこんにちは。じむの朔です。

普段はいろいろ活動していますが、今日は何者でもない、自分のために書き残そうと思い立ち、久々にこうした書き物をします。
自分のためなので、明日にはもう違うことを言っているかもしれません。
読みにくいところ多々あれど、大目に見ていただきたいです。


さて、前置きもほどほどに、本題に入ります。
「お砂糖」とは、だいぶざっくり説明すると、VRChatというVRのコミュニケーションゲームにおける、いわゆるカップル関係のことです。

私はVRChatを遊んで1年半になります。始めたばかりはお砂糖に興味こそあったものの、今では積極的になりたいとは思いません。
そのわけや、広く私の「恋愛」に関する想いを6つの項目で整理しました。

※「お砂糖」の解釈はいろいろありますが、ここでは「関係がVRChat内で完結しており、リアルの素性は知らない、関係をリアルに持ち出していない」とさせてください。

1 結論

結論から申し上げますと、私が怖いのは「人とのつながりに名前を付けること」です。
つまり、「お砂糖になろう」と誰かに言って、あるいは言われて関係を持つことです。誰かとの関係を「お砂糖である」と認めることも然りです。

お砂糖という関係そのものが嫌なわけではありません。
むしろ、安心して心を預けることのできる人の存在はありがたいし、なくてはならないと感じています。

では、「人とのつながりに名前を付ける」ことがなぜ恐ろしく感じてしまうのか、なぜ「お砂糖」と言いたくないのか、自分なりの考えをまとめてみます。

2,つながりに名前を付けるということ

人とのつながりに名前を付けるということは全人類がしていることです。
何も特別なことではありません。
ただここでは「家族」以外の、「友人」関係を基準とした「特別度」による名称付けについて言及します。
つまり、知り合い、友人、親友、そしてお砂糖といった具合です。

「特別度」などという一つのパラメータで人との関係を推し量ろうとするのが愚かな行為であることは十分理解していますが、ほかにわかりやすくまとめる方法が思いつかなかったため、ご了承ください。

名前というのは、ある存在を定義づけるというとても大きな力を持っています。そして名前が変わるということは、その定義づけが覆される大きな変化となります。

例えば誰かにその人との関係を聞かれた際に「友人」と答えたとしましょう。それならその人は友人なのでしょう。当たり前です。
そして「友人」という関係はほとんどの場合変化することはありません。
なぜなら誰にとっても「友人」の定義が広すぎるからです。
何人いても、会う頻度がどれだけでも、何年目の関係であっても、「友人」という名前は包含します。「知り合い」も同様です。「親友」は「友人」に比べれば定義は狭いですが、「知り合い」「友人」「親友」あたりは時間や環境で流動的に変化する関係です。

3,「お砂糖」により来る別れ

そこで「お砂糖」はどうでしょうか。
数多ある友人関係の中でもおよそ一人の稀有な存在で、その定義は非常に狭いです。
そして「お砂糖」という関係は、名前を付けてしまうとそれ以外の関係になるのが難しくなります。要は「気が付いたら友人に戻ってる」ということが起きにくいです。それはしばしば「お塩」と表現され、一定の区切りをもって関係を解消する手続きを経て、ようやく「友人」にもどります。

つまり、ある関係に「お砂糖」と名付けてしまうと、次にその関係に変化が訪れるのは「お塩」の時、というところまで確定してしまうのです。
「友人」でとどめておけば、仮にいつの間にか会わなくなっていったとしても「別れ」を特別意識することはなかったのに、です。

特別な出会いがもたらす特別な別れ、それがとても怖いのです。

そしてその別れを遠ざけるため、「お砂糖」の定義内に関係を固定するため、しばしば「お砂糖」という名前の目的と手段が逆転する現象が起きます。これらはリアルの恋仲でもある、普遍的なことなのですが、異なるのは「ネットでの関係」であるという点でした。

4,ネットの関係だということ

リアルの恋仲でも、誰かと付き合えば別れもあるし、だんだん心が離れていっても「恋人なんだからもっと会ってよ」なんて目的と手段が入れ替わって関係を戻そうとしていくのは普通なことです。
私はこれに関してはこういうものだと納得してます。

ではなぜ「お砂糖」が怖いのか。
それは舞台があくまで仮想空間であり、リアルと乖離がある場所だということ、相対的な時間の流れがとても速いことがあげられると思います。

VRChatはあくまでゲーム、ゲームなんです。
仕事が忙しければ来られないし、イベントに没頭することもあるだろうし、そもそも飽きてしまうこともあるでしょう。
画面の向こうに人がいることはわかってはいますが、どうしてもリアルに比べれば存在は希薄です。精神的なリソースを分配するにあたり、お砂糖相手を想うことはだんだん優先度が低くなってしまう気がします。

そして時間の流れが速すぎます。いつでも会える距離と時間の相対的な密度の高さが、出会いから別れまでのサイクルの短さを招いているように思います。別れが1週間後になるか、1年後になるかわかりませんが、リアルより比較的近い時期に来る別れをどうしても意識してしまいます。

5,周囲の変化も怖い

VRの世界は、どんな自分にもなれますが、リアルを持ち込まない以上、自分の存在を担保するものはなかなかありません。私を私と定義しているのは、他ならぬ「人間関係そのもの」です。周りの、私に対するイメージです。
人間関係が揺らぐとき、私の定義もまた揺らいでいるのです。

おかげさまで、私は「イベント企画・運営」という楽しみを見つけ、VRChatを遊んでいます。
そして、私の存在はもう、私だけのものではないと感じています。
そこでどうしても波風を立たせないように生きていたいという意識が働いてしまいます。
お砂糖は大なり小なり周囲を含めた関係に変化をもたらす一因になり得ます。
私はそれを上手に収める自信が全くないのです。

6,だから恋は眩しい

いろいろ書いてきましたが、自分なりに合理的にメリットデメリット考えて、「お砂糖」という名前を付けない方が良いという結論に至りました。

結局は心の持ちようだし、私が考えすぎなだけかもしれません。
「別にそういう関係じゃなかったし」という逃げ道を確保しておきたいだけなんだと思います。
でも「VRChatというゲーム」の中で、私が私の恋愛観を守るための、私なりの答えなんです、

だからこそ、そんな合理性だのメリットだの周囲の人間関係がどうだの、そんなの飛び越して誰かを好きになれたなら、それはとても素敵なことなんじゃないかと思います。
私はまだ「恋」を知らないだけなんでしょう。


命短し恋せよ乙女。
サービス終わるその日まで。

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