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ひとの、高校時代の部活の写真を見せてもらった。

2024/5/12

ひとの、高校時代の部活の写真を見せてもらった。
私は、「高校生の青春って瞬間やけど、試合の写真って瞬間オブ瞬間やから、なんかこっちまでどきどきする」って答えた。
でもそれは、臨場感、当時の試合の緊張感を直に感じて高揚したのではなくて、その逆、過ぎ去った、過ぎ去り続けていく瞬間との距離を感じてちょっと狼狽えた。
ちょうど旅先で、ふだんとは違う時間の流れの中にいたから、このどきどきが何なのか、しばらく考え続けていた。

先のnoteに書いたけど、東京都現代美術館で開催中の津田道子「人生はちょっと遅れてくる」に行ってきた。
廊下を歩いてきた鑑賞者の映像が、別のディスプレイで「ちょっと遅れて」再生される。
ディスプレイの前で待っていたら、ちょっと前の私がやってきて、追いつかれる。
追いつかれた私はいま、二重になって滞留してるのか、足を止めなかった(かもしれない)私に追い越されて、ここに取り残されてるのか。

でもあの写真を見た時、私は、「過去は逃げていく」って思った。
たとえいまの、あるいはこれからの時間を経験するとしても、過去に経験した、あるいは経験しえなかった瞬間は、すごいスピードで私から遠ざかっていく。追いつけない。

あれ、じゃあ、過去は私に向かって走ってくるのか、私を置いて走り去っていくのか、どっち?と思って、しばらく考えたけど、つまり、こういうことなんじゃないか。

走り去る過去<<<経験する私<<<向かい来る過去

いやいやどういうこと。前も後ろも過去!
直感的には、過去・現在・未来に相当するイメージに近いけど。
過去から未来に向かって時間が流れるのではなくて、「経験する私」を定点として「<<<」の方向に瞬間が流れ去っていく。
というか「経験する私」を軸に考えたとき、そもそも「私」は「過去」しか経験しえないのかな。

たとえば「向かい来る過去」というのは、花火が打ち上がってからその音が聴こえるまでにラグがあるのといっしょで、私はまだその「瞬間」を経験してないんだけど、事象としてはもうすでに起こった過去である。
一方で「走り去る過去」というのは、写真に収められた出来事とは二度と出くわさないとの同じで、私がその「瞬間」を経験する機会はとうに過ぎ去っていて、さらにこのあともどんどんそれは遠く曖昧になっていく。

花火みたいに物理的にラグが生じる場合でなくとも、予想外のこととか衝撃的なことって、それが起こってからちゃんと自身で知覚できるまでに時間がかかったりする。だから「人生はちょっと遅れてくる」。
そしてたぶん、トラウマとか言われるものって、本来「過去は逃げていく」はずなのに、いつまでもその「瞬間」が「経験する私」にへばりついて離れない状態を言うんじゃないかしら。

1年前、新入社員の歓迎会で、「この会社で何をやりたいか」というスピーチをさせられた。その時私は土壇場でけっこうちゃんと答えたと思う。
弱い「私」が安心して適切に語るには物理的・心理的・時間的な距離が必要で、文章に表すことは「距離を取って語る」ことを可能にする。
そうして語られることを必要としている人や事象がこの世界にはたくさんあって、そうした言葉が紡がれる場を私は文芸編集者として守りたい。
とてもそんな、かっこよく喋ってないけど、でもまあ、だいたいそんなかんじ。

「走り去る過去」を留めるために言葉があると思ってたけど、「向かい来る過去」を適切に受容するにも言葉が必要で、へばりついて離れない瞬間を「経験する私」から引き剥がすにも言葉が必要なんじゃないかな。
と、考えているうちに東京に着いた。
明日からまた仕事だ。

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