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さいきんどうやって読んでるかって

2023/8/2

椅子を2つくっつけて家にいるみたいな格好で寝そべって本を読んでたら、先輩社員のおじいがぽてぽてぽてっと歩いてきた。手に持ってる紙を私に見せて
「内線表が更新されて、初めてあなたの名前が載ったね」
それだけ言ってまたぽてぽてぽてっと歩いていった。ラブすぎる。

このおじいはこないだ家庭菜園のトマトを大量に職場に持ってきてくれて、うち半分くらいを私が食べた。「ありがとうございました美味しくいただきました」と空のボウルをお返しすると、一言
「トマト好きなの?」
牧歌的すぎないか。

それはさておき、上司が「売れてる書目をこの1年で100冊読んでね」と言うからたまげた。同期に話すと「多いことの比喩としての100?」と訊かれた。ほんとの100だ。

年間100冊というと、だいたい週に2冊くらい。通常業務にプラスされる形で読むから、ちょっと忙しいと1日1冊とかいうペースで捌いていくことになる。ぶっちゃけそんなには読めないからまあ、自分のペースで。

仕事で読む本は、読書と思わないことにした。必要資料に目を通す。だって読書は本を読んでる時間より、その物語に思いを馳せたり、その人物を起点に別なひととの関係を考えたり、それをnoteに書いたり友だちに喋ったりする時間のほうがよっぽど大事だから。いまやってるのは、筋トレ。基礎練舐めてるやつは舐められるから。インプットが足りないままだと土俵に立てない。

好きなことを仕事にしたら趣味がなくなるなんて言うけど、ちゃんと好きで読みたい本は確保してる。いまはちょっと仕事で必要資料に目を通すのに忙しいから、趣味で読書する時間がないだけで、、。借りっぱなしの本もあり、積読の本棚が充実していく。可愛い、不思議、ナンセンス系が多い。あなたたち、できるだけ遠くへ私を連れ出してくれ。

連れ出すといえば、夏はどうしてこんなにも開放的で閉塞的なんだろう。暑いから、あらゆるものは膨張するのに、暑いから、一歩もどこへも行けそうにない。

先週末は予定がないので引きこもろうかと思ったが、仕事の本は家で読まないほうがいい気がするので外へ出た。平日夜も、会社に残って読むか(涼しいし、お菓子とかあるし、下校時刻の過ぎた学校みたいでけっこう快適だ)、それに飽きたら夜カフェでも開拓してそこで読もうと思っている。それか人ん家に転がりこむか。テスト期間のあにきみたいに、私が居ても居なくてもいっしょみたいな過ごし方するひとがほしいな。

えっと、なんだっけ。そう、外へ出た。土曜も日曜も完璧だったけど、んーと上手く文章にできないので割愛する。ミステリーとか警察ものとか、その手のエンタメ小説を読んでて気づいたことは、自分はきちんと必要な情報を取りながら読むのが恐ろしく下手だということ。登場人物が、多くて、まじで、だれかわかんない。

これは書き手の情報の出し方が悪いということでは決してなくて(だって売れてるんだから!みんなが気持ちよく読めるようになってるんだ本来)、読み手の(私の)情報の取り方がとてつもなく悪い。すべてをすっ飛ばして読んでいるのだ。

じゃあふだん一体どうやってなにを読んでるのかしらんと考えてみたら、たぶんかなり大部分を雰囲気で読んでる。そりゃもちろん分析とか書くなら精読するけど、一読する時は文体の手触りとか温度感をたしかめる程度で、気になった(気に入った)ところしかちゃんと読んでない。でもたぶん思った以上にぜんぜんまったくちゃんと読んでないことが、ここ最近の読み落としの多さでわかった。かなりわかった。

真面目に読んでるはずなのに、あれいまこれだれとだれが喋ってるんやっけってなる。そういやここ数ページ喋ってるこいつ、、一体だれ?みたいな。ページを遡ってみるとちゃんと、向かいのカフェの店主とか、娘の担任とか、隣町の署の警部補とか、ぜったいにちゃんと登場時の紹介文が載ってある。あるのに読んでない。どういうことか。

たぶんなのだけど、これまで私が読んできた本の多くは、情景とか人物の描写に割く文字数が多くて、登場時の1行を読み飛ばしてもその後の行動とか言葉遣いでなんとなくキャラクターの雰囲気が掴めていく。というかそっちの、小さい描写の積み重ねによって立ち現れる雰囲気こそが重要で、職業とか役職とか血縁関係は、その人物の特徴を表す一部でしかない。

思えばこれは、子どもから大人にかけての人物把握の変化に似ている。自己紹介をする時、私たちはまず職業や学部や出身地や出身校や所属団体に言及するし、他人の紹介を聞くときもそうした社会的条件と目の前の人の印象を照らし合わせて「ぽい」とか「ぽくない」とか思ってだいだいの位置付けを把握する。

けれど昔は、駐車場とかでドッジボールや鬼ごっこの類いをしているメンバーに「よくわからんけどたぶん近所の子」とか「よくわからんけどたぶんだれかの友達か兄弟」程度の認識でなんとなく一緒に走り回ってる子がたまにいた。私ももしかしたら、兄の友達あたりに「よくわからんけどたぶんだれかの妹」と思われてたかもしれないし。

そんなことより「こいつが何者か」を把握するには、走りが速いとか、炭酸が飲めるとか、鼻くそを食べるとか、先生にチクるとか、年中半袖とか、そういうことのほうがずっと重要だった。そう考えたら、私が好んで読んでる本たちはやはり子どもの頃の時間に通じるなにかが色濃くあるのだと思う。

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