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上方の茶の湯は江戸の蕎麦?

蕎麦の「いき」
 出雲で生まれ育ったからなのか、私は蕎麦喰いである。そして江戸っ子にとっても蕎麦は粋な食べ物ということになっている。粋な食文化について九鬼はいう。
味覚としての「いき」については、次のことがいえる。第一に、「いき」な味とは、味覚が味覚だけで独立したような単純なものではない。
 なるほど、おいしければいいというのでは粋ではない、というのはわかる。私は中華料理全般が好きだが、それらが粋だとは思っていない。中華料理は「味覚が味覚だけで独立」、私の言葉で言い換えるなら「味で勝負」することに重きを置きすぎているように思えるからだ。そして彼はこう続ける。
「いき」な味とは、味覚の上に、例えば「きのめ」や柚の嗅覚や、山椒や山葵の触覚のようなものの加わった、刺戟の強い、複雑なものである。
 たしかにその意味では、ネギやわさび、七味唐辛子などの薬味が欠かせない蕎麦は粋なものといえよう。江戸っ子の好きなウナギや寿司、天ぷらもみなそうだ。ただ、香辛料といえば中華料理こそ本家本元ではなかろうか、と思いきや、次の言葉で中華料理は一掃される。
第二の点として、「いき」な味は、濃厚なものではない。淡白なものである。味覚としての「いき」は「けもの店の山鯨」よりも「永代の白魚」の方向に、「あなごの天麩羅」よりも「目川の田楽」の方向に索めて行かなければならない。
 すべてではないが、総じていえば中華料理は濃厚である。例えば中国伝来のちゃんぽんに比べれば、蕎麦の淡白なことは言うまでもない。うどんも中国渡来ではあるが、日本に根を下ろすにあたって淡白に変わっていった。そして最後にこうまとめる。
要するに「いき」な味とは、味覚のほかに嗅覚や触覚も共に働いて有機体に強い刺戟を与えるもの、しかも、あっさりした淡白なものである。
 つまりあっさりしていながら、味わいだけではなく、匂い、舌触りなどにもこだわるというのがいきな味なのだ。蕎麦にお目見えしたときには蕎麦独特の香りを楽しむ。そしてズズズッと吸い込み、舌触りやのど越しを楽しむ。蕎麦を吞み込むと、鼻腔から再び蕎麦のにおいが抜ける。「有機体に強い刺戟を与える」というのは、味覚、嗅覚、触覚、視覚等に衝撃を与えるという意味であろうが、彼の定義によればやはり「いきな食べ物」の筆頭にあがるのは蕎麦になりそうだ。

二八蕎麦へのカルチャーショック
 ところで蕎麦喰いの私が東京、特に下町で驚くのはその蕎麦屋の数である。私の住んでいた西日暮里では、確実にコンビニより多かった。「生蕎麦」を変体仮名で書いた看板は、出雲そばを蕎麦のスタンダードだと思っていた私にはカルチャーショックだった。いや、もっとショックだったのは、蕎麦の白さだった。間違ってうどんが出されたのではないかと思いつつ、口に入れるとほのかなそばの香りがする。
 そしてしばらくして気づいた。江戸っ子には「田舎そば」というコンセプトがあることを。北関東や東北など、蕎麦殻ごとひくために黒っぽいものを指してこういうらしい。そして我らが出雲そばもこの「田舎そば」に該当し、少なくとも江戸・東京ではマイノリティであると気づいたのはごく最近だ。
 逆に現在のそばの直接の先祖、「そばきり」発祥の地とされる信州の更科そばは、蕎麦殻は混ぜないが、つなぎに小麦粉を入れるため真っ白だ。江戸は「二八蕎麦」、つまり二割分の小麦粉をつなぎにした蕎麦が主流である。田舎そばが普通だと思ってきた私にとって、蕎麦の中核しか使わないが、つなぎに小麦粉という「不純物」を入れた更科そばは、酒でたとえるなら「大吟醸」。十割の田舎そばは「純米酒」。江戸っ子の好んだ二八蕎麦は、なにやら中途半端な存在に思えてくる。

「西高東低」だった食文化
 そもそも蕎麦は江戸時代まで粋な食べ物ではなかった。西日本のうどんが上だと思われていた時代である。いや、それだけではない。酒も肴も、食文化は「西高東低」で、上方から江戸に「下る」ものとされていた。軍事力と政治力だけでは文化大国の上方に太刀打ちできない。しかし18世紀後半から少しずつ江戸の庶民による文化が花咲きはじめたのだ。
 そして江戸には大量の北関東や奥羽、甲信越からの人口が流入した。彼らの多くが農漁村の次男以下であったという。一方、西日本から江戸に「下って」来る者の中には近江商人や伊勢商人など、豪商も少なくなかった。
 おおむね現在の総武線を境に、前者は北側に住んで職人階級に、後者は南側に居住し、商業に精を出した。その結果、総武線の南北で全く異なるタイプの街並みが出てきた。つまり銀座、日本橋といった高級品を扱う店舗が林立する南側と、浅草、神田、門前仲町等の門前町、両国のような相撲のメッカなど、いわゆる「江戸っ子らしい」北側に分かれたのだ。そして「蕎麦は神田」、というイメージがあるが、東日本の「食いつめ者」たちが住む下町で蕎麦が独自の美意識をもって発達していったことは極めて興味深い。

西の茶の湯と東の蕎麦
 江戸落語に「不昧公夜話」というのがある。お忍びで屋台のそばを食した出雲松江藩の茶人大名、松平不昧が、蕎麦の民藝的価値に気づいた。そして諸大名を招き、自ら蕎麦を打って食べさせた、という話だが、大名たちは蕎麦を食べたことがなく、不昧公ほどの食通文化人が茶事の後に出すものだから、どんなに素晴らしいものか、と期待しつつ、上品な料理を楽しむかのように庶民の蕎麦を食べている様子を、落語の聴衆たる江戸っ子たちは笑い飛ばしたという。ところで「いき」と「上品」について、九鬼はこう述べている。
「いき」に関係を有する主要な意味は「上品」、「 派手」、「渋味」などである。(中略)うち、「上品」および「派手」の属するものは 人性的一般存在 であり、「いき」および「渋味」の属するものは 異性的特殊存在 であると断定してもおそらく誤りではなかろう。
 茶の湯に比べると蕎麦はどう見ても「上品」ではなく、「派手」の対極にある。しかし「渋味」に関して言えば茶の湯に引けをとらない。さらに「渋味」についてこう続ける。
「派手」は対立者に「地味」を有する。「いき」の対立者は「野暮」である。ただ、「渋味」だけは判然たる対立者をもっていない。普通には「渋味」と「派手」とを対立させて考えるが、「派手」は相手として「地味」をもっている。
 つまり蕎麦と茶の湯に共通する「渋味」の対立概念は、あえて言えば「甘味」なのかもしれないが、これは美意識とはいいがたい。また、「地味」といえば、ラーメンとスパゲティと蕎麦とうどんを並べて、どれが最も「地味」かといえば、一般的には「蕎麦」だろう。その「地味」についてさらに続ける。
地味は原本的に消極的対他関係に立つために「いき」の有する媚態をもち得ない。その代りに樸素な地味は、一種の「さび」を見せて「いき」のうちの「諦め」に通う可能性をもっている。地味が品質の検校を受けてしばしば上品の列に加わるのは、さびた心の 奥床しさによるのである。
 つまり蕎麦のもつ地味さのなかには茶の湯を通して発展した「わびさび」的要素があり、世の中には何一つとして同じものはないという「諦め」をその中に含むというのだ。それが蕎麦が「いき」な食べ物という所以なのだろう。この文を読むと、もしかしたら西日本で発展した茶の湯に相当するものが東日本にもあるとすると、それは蕎麦ではないのか、と思うようになってきた。

江戸っ子にとっての「民主的」蕎麦
 上方で発達した茶の湯に対抗するかのように、「後進国」江戸では蕎麦にうるさくなったのではなかろうか。例えば江戸っ子は引き立て、打ち立て、ゆでたての蕎麦を、「食べる」のではなく、豪快に「たぐる」。そして田舎そばはかみしめてこそ風味が広がるが、細長い二八蕎麦を江戸っ子はだし汁にちょいとつけるだけで噛まずにのど越しを楽しむ。噛みながら香りを楽しむのは野暮な田舎者のすることなのだ。こうした「作法」を、上から下に範を垂れる茶の湯と異なり、自分たちの「粋」という美意識のもとに形成し、普及していったのだ。蕎麦がいかに「民主的」なことか。
 他にも上流階級が担い手だった茶の湯と正反対な「民主的傾向」がある。茶は文化の香り高い宋から西日本にやってきた舶来品だった。一方、俗に七十五日でできるという蕎麦は東日本の山間地でもできる救荒作物、つまり非常食の安物であり、文化の香りどころか粋ですらなかった。しかし江戸にやってきた東日本人たちは、これを卑しみながらも、自分たちの先祖が命をつないできたものとしての記憶を忘れていなかったに違いない。なんせ、縄文遺跡からも発見されるほど古い歴史があるのが蕎麦なのだから。
 さらに江戸っ子の「民主的作法」は続く。まともな蕎麦屋では茶葉による茶がでない。茶の香りと蕎麦の香りが相反するからだ。だから出されるのは蕎麦茶であり、最後には蕎麦湯で締める。そして茶の湯の心構えがその時その時の出会いを大切にする「一期一会」ならば、蕎麦のそれは、その時その時の作業を大切にする「ひき立て、打ち立て、ゆでたて」である。そしてなによりも、茶の湯のこころが「和敬清寂」であれば、蕎麦のこころは「媚態・意気地・諦念」からなる「いき」なのだ。

「ただ喰うことばかり」のほかは野暮
 先述した通り、西日本の茶人大名、不昧公は、落語の中では蕎麦を知らなかった。しかし茶の湯を問うして「下手物(げてもの)」の美を理解していた彼なら、蕎麦のもつゲテモノのうまさを拾い上げるだけの味覚とセンスを持っていたに違いない。そば処出雲の松平不昧が蕎麦のうまさを発見した、というと、あまりにも出来すぎだが、民衆の暮らしの中にあるゲテモノこそうまい、という、後の大正時代の民芸運動に通ずるこの感覚は革命的だったのではないか。民衆の味を当代一流の文化人が認めたというのは、まさに食の革命であった。 当時の江戸では節分に年越しそばをたぐり、引っ越ししたら向こう三軒両隣に蕎麦を配ってあいさつし、12月になると忠臣蔵の討ち入りの前に食べたという「討ち入り蕎麦」をまたたぐる。まさに江戸っ子のソウルフードだった。酒では上方に勝てないが、麺では蕎麦がある。これは江戸っ子たちのプライドをくすぐったに違いない。そして茶の湯が「茶道」となって家元制を敷き、堅苦しくなったのとは対照的に、だれも「蕎麦道」を組織化しなかった。
「茶の湯とは ただ湯をわかし 茶をたてて のむばかりなる事と知るべし」
と歌った千利休をもじるならば、
「お蕎麦とは ただ湯をわかし 放りいれ、喰うばかりなる事と知るべし」
 であって、余計な家元制や虚飾は野暮というものだろう。(続)


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