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よるべなき男の就労事情

ハナブサはいわゆるひとたらしだ
ゆえに男にも女にも不自由はしない
彼がひと声掛ければだれひとりとして拒むものはなかった

現在彼は長屋に住む女に恋をしていたが
それを恋とは気づかず
同じ長屋に住む年老いた笠職人の娘に入れ込んでいた

娘は浅草から少し離れた「料理茶屋」で働いていた


枷(かせ)屋は呉服問屋の傍ら土地家屋を所有する地主でもありまして、自宅の裏手には未婚の奉公人の住まいと、神田や日本橋辺りには所帯持ちのための長屋をいくつか所有しておりました。
この時代地主が直接店子(たなこ)を「管理する」ということはなく、たな賃の回収等々は差配人(実質的な大家)を介し、地主が出張っていくことは滅多になかったのでございます。ゆえに地主は、奉公人以外の住人の様子を知る由もない…となりますが、ついぞ息子の異変には気づいておりまして、病の副産物として神田和泉橋近くの小さい長屋に住み着いた女には難色を示していたようでございます。

「それで倅はこの数ヶ月もの間、どこでどうしていたというんだい?」
帰ってくるなり奥に引きこもってしまった放蕩息子に、いちいち世話を焼いていられるほど「枷屋」の主人は暇ではございませんでした。なにせ稼業その他を教え込めるようなまともな身体を持ち合わせないことには心底がっかりしており、ゆえに倅の身上もろもろは、長く出入りしている大番頭の作平次に任せきりだったのでございます。
「へぇ。若の話によりますと、みつきほど前に上がったどざ…」
「あぁ、佐平次」
旦那さまはいつものように「違う違う」と目を細め、軽くかぶりを振りましてございます。
「へぇ」
「すまないがその…病のくだりはよしとくれ。それを聞いては気が滅入ってしまうんでね、はしょって頼むよ」
主人の長兵衛は息子の奇病に対し、頭では納得しているものの、ようよう受け入れがたく、表立ってその話をしたがらない様子でございました。
「言いたいことは解っているね?」
機嫌を悪くすることはありませんでしたが、どうにも噛み砕けないようで、
「ぁぁ、へぇ。承知いたしました」
そう返事をするよりないのでございます。
この作平次という男、痒い所に手が届く、本当によく気の利く古くからの奉公人でしたから、本来ならば主人に対するそういった「言われなくても解ること」は承知の上ではございましたが、いちいちこのくだりをやり取り致しますのには彼なりの思いやりと申しますか、どうにも繰り返してしまうのでした。

「若がおっしゃいますには、まだ日が高かったせいか、ついぞ歩き過ぎましたようで…田畑屋敷を見失ってからは霧に飲まれて居場所を見失ったようだと、申しており」
「結局どこにいたんだい」
「へぇ。それが…与瀬町の、手前の峠…」
「与瀬町だって!? はっ…。それだけの体力があるなら、反物の一本も持って歩いて商売でもしてきたらいいものを!」
「こればっかりは…。旦那さま、今月はもう寄合も仕入も済んでますから、ゆっくりと若と話をしてみてどうでしょう」
幼い自分から奉公していた作平次と致しましては、当然に若旦那様の誕生からを見守ってきたために真に心を傾けており、本音を言えばもっと旦那さまに心を砕いてほしいと願っているのでございます。
「あれに、まともな話ができるとは思えないがね」
「そんなことはありません…」
「おまえにはそうなんだろう」
枷屋の主人は、病弱で放浪癖のある息子に身代を任せるつもりなどさらさらなかったのでございます。ですが、大店の見栄とでも申しましょうか、大変に世間体を気にする男でもあったのでございます。

「して、得体のしれない旗本に厄介になっていたと?」
「へぇ。気づいた時にはどこぞの屋敷の中だったそうで。ご自身は…衰弱しきっていて食べることもままならない状態だったと。で、屋敷の住人に並々ならぬ手当てを受けた…とのことです」

「困ったものだね…。いっそ行方知れずになってもらった方が」
「旦那さま。滅多なことは」
「わかっているよ、作平次。あとのことは解っているね。頼んだよ」
「へい」

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さて、この呉服問屋のぼんぼん…老舗の御曹司様でありますが、その名も立派に「蓬生(ほうせい)」さんとおっしゃいました。が、しかしながら何分放浪癖がある放蕩者と名が知れており、巷では「枷屋のぼん」またの名を放蕩者の阿呆(あほう)せい、または阿呆助…さらには実の名にかぶせ、縮めて「ほーすけ」さんとバカにされていたのでございます。
ところが、在ろうことか放浪の末に女を引き連れて帰って来たとの噂が密かに囁かれますと、放蕩者の阿呆助さんは放蕩者の阿呆平さんと、寿限無よろしく名が伸びまして、最近では「ほーすけべい」と呼ばれているらしいとのことでございました。

ハナブサはそう言ったお家事情や刃傷沙汰には大変に鼻が利く輩でございましたから、密かに入手したそれらの情報をもとに、枷屋の主人が息子の奇病に悩まされ、そのせいで意に沿わない女に入れ込んでいるらしいことを嗅ぎつけたのでございます。
どうやらお金の匂いがするその事情を利用しない手はございません。ちょうど、追い出しを掛ける予定の長屋にその女「紗雪(さゆき)」が住まわった事情を加味し、特に急ぎでもない仕事を前倒しして働きかけていたのでございます。本来であれば小さな長屋のことなどは片手間に、たらたらと甘い汁を吸うがごとくじっとりと攻め入るところを、思うところあって急遽仕込みを掛けるに相成ったのでございます。

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ハナブサは仕事の手を緩めることはございませんでした。が、今回迂闊なことに追い出しを掛ける長屋に住まう女に懸想をしてしまわれた。それを勘ぐる、自分の手元にいる女もまた仕掛の一部として長屋に住みつき始め、ゆえにあからさまに意中の女を庇うわけにはいかなくなったのでございます。

ひとまず女の興味をそらすため、料理茶屋で中居をしているという長屋に住まう別の女に目をつけた。己の中ではいつもの遊び心と決め込んでいたものの、どうも気持ちが落ち着かない様子で、もやもやとした日々を重ねているようでございました。
そんな事情から自分の行動が裏目に出ているとはつゆ知らず、とはいえ金の匂いをかぎ分けるその鼻は健在で、なにやら別の美味しい仕込みを嗅ぎつけたようでもありました。

「あんた、この辺じゃ有名な男なんだってね…。茶店の女どもが羨ましがってたよ。どこで知り合ったのかってさ」
どんな女でも「一目見たら恋に落ちる」と評判の男でしたから、当然にこの女中もすぐさま蛇のように芯の通らない体でハナブサの誘いを受け入れたのでございます。しかし、
「あたしにとっちゃどうでもいいことだけどさぁ、店の主人はあんたが座敷に上がるってだけで大喜びさ。…あんた、小判でも落として歩いているのかい?」
しきりに場を持たせようと、女である限りの手練手管を推しならべ話を広げようと持ち掛けますが、一方のハナブサはまったく心ここに非ずでございまして、ただひたすらに徳利の数を並べることとに精を出す始末にございました。
「なんだい…。色男って言ったって、面白くもなんともない…」
そうは言いながら、ただひたすらに、ものも言わぬ色男の傍らで、酒を口に運ぶ仕草を眺めているだけで躰が痺れていくような、そんな錯覚に酔わされていることに女は気づいてはおりませんでした。

ここ、浅草から少し離れた料理茶屋~「游苑(ゆうえん)」にて中居をするこの女、名を「お栄(えい)」といいました。父親は笠職人を生業とする「甚五(じんご)」という初老の男で、普段はまったくとぼけた輩でして、通りに出ればスリに会い、そば屋に出掛けりゃ煙管(きせる)を落とし、茶屋に腰かければ手拭いを忘れる…という、なんとも締まりのない男なのでございます。
そのように寡黙で無作法な男ではありましたが、ひとたび仕事にかかれば目の色が変わり、大変に腕のいい職人でありましたから、特に食うに困ることはございませんでした。しかしハナブサは、この甚五にそれだけではない…なにか得も言われぬ危険な香りをかぎ分けているようでございました。ハナブサの、筋の通ったキレイな鼻は、甚五の裏の顔をしっかりと嗅ぎつけていたのでございます。

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