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「自分は、ここにいていいんだ」と思えるまち

2017年12月に夫の仕事の関係で約3年間住んだ南アフリカから帰国し、夫婦の地元である静岡に帰ってきた。

一般的に日本人が駐在で住むような南アフリカの住環境は、各住宅区画は広く自然環境にも恵まれていた。さらには美味しい食事、週末には朝からマルシェが開かれてゆったり過ごせる。

どこか窮屈で、自分たちの肌に合わなかった、東京での生活。好きな場所や好きなこともたくさんあったけれど、いつしか帰国後に再び「東京に戻る」という選択をしたくない、というのが夫婦の共通見解となっていた。

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(南アフリカが、生きる場所の価値観を見直すきっかけに)

大切だと思うのは、「生きることへの価値観」の懐の深さと、地域を「好き」と言えるひとの多さ

海外での時間を過ごす前から、私自身の関心は「日本のローカル」にあった。だから帰国後は、「まちづくり」に何かしら関わる仕事をしたかった。それも結構、熱烈に。

振り返れば、私がローカル・まちづくりという文脈に関心を抱いたのは大学時代からだ。大学には、高校卒業後に一度就職してから3年経って入学した。そのプロセスの中で漠然と「まちづくり」、そしてそこに関わる「ひとづくり」にゆくゆく関わりたいと思うようになった。

関心の軸は2つある。

1つは、まちが持つ、「生きることへの価値観」の懐の深さみたいなことだ。

この点に関しては、当時10代の私には辛いことが多かった。
大学への進学も考えなかったわけではないが、家庭の経済状況が難しかったこと。大学進学する友人のためだと担任の先生には成績操作を公言され、自分の内申点を譲ったこと。就職後は電車で相席になった見知らぬおじさんに大学で勉強する孫自慢をされた上に「あなたも遊んでないで、頑張りなさい」と言われる衝撃体験などなど。(そういうお年寄りを引き寄せがちなのは、なぜだろう。笑)

管楽器修理という自分の中ではやってみたい仕事ではあったものの、なぜだか応援されるようなことよりも、「あなたの選択肢は、誰かの選択肢よりも劣っている」ということを暗に示されているような気持ちになることが多かった。

もっと、それぞれの選択肢を応援されるようなあたたかい場所があっても良いのではないか。そんな思いが芽生えた。


もう1つ大切にしている軸が、その地域に住む人自身がその地域に誇りを持てるか、「好き」と言えるか、みたいなことだ。

暗い気持ちになることも少なくなかった高卒就職時代だっただけれど、地元周辺の地域にとても詳しくなったことは今の自分にもつながる財産だと思う。

その中でも、伊豆半島の有名温泉街のエリアで一緒に吹奏楽団に参加していた仲間のなかでの会話が自分にとっての大きな天気となった。「この地域には文化がないよね」という言葉だ。

意味合いとしては、狭義の文化芸術の話だったのだが、自分の中でその言葉が妙にひっかかったのだ。「そうかな?もっと違う見方をすれば、この街にもいくらでも自慢できるような文化があると思うんだけどなぁ…」と。

私はそんな2つの関心軸をもって、仕事を辞して21歳で大学に進んだ。

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(大学はまちづくり・ひとづくりをテーマにたくさんの人と学び合う機会に)

まちづくりに参画できることは、"特権"なのか

学生時代の話は割愛するが、日本中いろんな地域にインターンシップやフィールドワークに出かけて、どっぷりと「まち」について考える4年間を過ごした。

一度は東京で就職したが、結婚し海外で時間を過ごしたのち、地元に帰ってきた。縁があって、地元の建設会社で廃園になった幼稚園を改修し、地域のひとたち自身が運営するコミュニティスペースを立ち上げるお手伝いをは自めた。

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ここで過ごした1年半の間、本当に貴重な経験をさせてもらった一方で、子育てをしながら仕事として自分自身が関わっていると、多くの仲間が職業を持ちつつも自分の自由な時間を使ってまちをつくることに参画することが、一種の「特権」のように感じられ、心からうらやましかったし、正直今でもうらやましいなと思っている。

自分自身がコントロールできる時間と、精神と経済的なゆとり、そして社会への当事者意識や地域への愛とか興味。「なんだか楽しそう!」、そんな思いの人もいると思う。これってすごく素敵なことだし、そんな人が増えたらまちが元気になると思う。

一方で自分自身は、業務としてもちろんそれを縁の下の力持ちとしてできることに取り組んでいく立場なのだが、プロジェクトに関わる「地域のひと」と同じような関わり方をすることが、自分にはとても難しかったのだ。役割分担と言えばそうなのだけれど、どこか自分には同じように関われないことが「地域の仲間にはなれないんだ」という気持ちを強くさせていた。

東京へ新幹線通勤する夫より家事・子育ての負担は重く、夜や休日に地域内の打ち合わせに出ることはすごく調整が大変。私自身は思うようにまちに関われない、頑張ろうとするほど空回りして、自分だけでなく家族が精神的にバランスを崩してしまった。

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(ちょっとは落ち着いてきたけれど、子どもはまだまだ手がかかります笑)

「自分のままでいてもいい」場所は、自分の心が決めると思う

自分の中でうまくいかないことはたくさんあったけれど、それでも少しずつまちへの関わり方を変えていく中で自分の心の持ちようが変化してきた。

それを後押ししてくれたのが、生き博SHIZUOKAの存在だ。

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https://note.com/mihon_shizuoka

自分が最もまちに関わる心のバランスを崩していたとき。
偶然にも、自分のもう1つの軸である「ひとづくり」を地域を舞台に展開するチャンスに巡り合った。

正解のない生き方を、静岡を舞台に対話から考えていく機会を仲間とつくってきた。ここでも仲間とはたくさんぶつかったけれど、3年目を迎える今、自分なりの関わり方を見出すことができてきた。

受け入れてくれた仲間に感謝しかないけれど、正直に子どもが手がかかること、夫の理解を得られない時もあること、自分が葛藤していることをさらけ出していた。というか、さらけ出さないと続けられなかった。

結局、自己開示することや自分が置かれた状況を、自分自身がが受け入れない限り、「自分は、ここにいていいんだ」というまちは、生まれないんだなって、最近思うようになってきた。

だから、そのきっかけをくれて、今でも一緒に走ってくれる仲間に本当に感謝しているし、そのきっかけが仕事にも良い循環を生み出して、自分の関われるかたちで「まちをつくる」ことに参画できることが、再び喜びに変わってきている。

(仕事でも、広報やいろんな業務に関わる中でまちのことを考えて起こしているアクションをもっと伝えていきたいです。)


それぞれ自分次第だけど、ちょっとだけ背中を押せるようになりたい

どんなまちにも、たくさん魅力があるし、それぞれの置かれた立場で自分次第で関わり方があるなと思う。

だから、仕事や自分の活動で少しだけでもそのきっかけを増やすこと。
それから、「自分でもここにいていいんだ」と思える優しいつながりを自然と醸し出していくこと。

そんなことが、これからもっとできたらいいなと思うし、どこかほどよく、心地よくて、「ああ、今が幸せだな」って思える瞬間が少しでも増えることが「暮らしたい未来のまち」かなと思っています。

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