『ロードス島攻防記』塩野七生著 聖地巡礼
<概要>
歴史エッセイ家、塩野七生の海戦三部作の一つ。イスラームにとってのクリスチャン海賊「聖ヨハネ騎士団(英語では「病院を経営する騎士団」という性格から「ホスピタラー」という)」をロードス島から排除して、イスラームの自由な航行を実現させたオスマン帝国大帝スレイマン一世のロードス島攻防記(ただし主役は聖ヨハネ騎士団の三人の騎士)。
<コメント>
塩野七生ファンとしては、絶対行きたかったロードス島、
念願の初上陸。今風にいえば、私にとっての聖地巡礼です。
ロードス島はギリシャ領ですが、実はトルコのマルマリスというリゾート都市から船で1時間半の場所。
ロードス島は、トルコからも簡単にアクセス可能です。私はマルマリスフェリーを利用。今は外国語サイトもGoogle翻訳で日本語サイトのように簡単に予約可能(WEB事前購入しない場合、発券所で長い購入客の列に巻き込まれる事態に)。
オスマン帝国衰退以降、近代史においてはトルコとギリシャは骨肉の戦いをしてきたし、今でもキプロスを巡って抗争中。このためトルコに施政権のある北キプロスに訪問実績のあるトルコ人はロードス島にはいけない、とマルマリスフェリー予約書に注意書きがありました。
ということで、両国は仲が悪いのですが、北キプロス訪問実績のあるトルコ人でなければ、パスポートだけで簡単に行き来できるのです。
実際の入管では、パスポートチェックが外国人とトルコ人でレーンが分かれていたのでわかったのですが、たぶんロードス島訪問の半分くらいはトルコ人。ちなみに東洋人(モンゴロイド)は私だけ。島でも東洋人を見かけたのは数人ぐらいで、ほとんどが白人、そしてちょっとだけ黒人、という具合(マルマリスも同じ印象)。
どこに行っても見かける中国人含め、気持ちいいぐらい東洋人いないので、外国に来た感満載なエリアでもあります(全般的にトルコ内のメジャー観光地以外は同じ印象)。
今回のトルコ・ギリシア訪問では、マルマリス近隣の空港、ラマダン空港からマルマリスまでバスに乗って約一時間半、マルマリスで2泊して、中日に連絡船に乗ってロードス島に日帰り訪問したのです。
船は9時過ぎに出発し10時半過ぎに上陸。帰りは17時出港で18時半過ぎにマルマリスに戻る、という日程。
そしてスレイマンが補給基地の拠点にしたマルマリスから実際にロードス島に上陸してみると、塩野さんの文章の正確さに驚きます。
港に並列に並ぶ風車、
港をぐるりと囲む城壁の様子、
丸い石を敷き詰めた石畳の様子、
騎士団長居城など、
本書に描かれた島のディテイルがそのまま、私の現実となって視認・体感できるのです。
特に体験したかったのは、聖ヨハネ騎士団がベネチアの当時の最新築城技術をお手本にして長年に渡って構築してきた「城壁」。
この城壁はオスマン帝国の大砲に対抗すべく、ちょっと風変わりな城壁となっています。
というのも本書に記す通り、新市街からみるとまったくその城壁が見えないのです。
つまり、高さを誇る城壁ではあっても、堀を深くしてその高低差をつけた城壁で、これが二重にもなって旧市街を囲っている。
この城壁は当時の最先端だったそうで、オスマン帝国の主力武器「大砲」から守るための城壁。
そうしてその城壁の厚みは大砲に耐えるべく、
基本的に西洋や中国の城壁は都市を囲む城壁で、日本のように城だけを囲む城壁ではありません、中国では城はイコール街のことであり(城市という)、これは西洋も同じ。
ロードス島も今でも城壁内は旧市街(現地ではOLD TOWNと表示)で、新市街は城壁外となっています。
結局オスマン帝国スレイマンはこの城壁を崩すべく何度もトライし続け、もう破れるという段階になって相手に最大限の条件を与えて降伏を勧め、聖ヨハネ騎士団をロードス島から追い出すことに成功したのです。
その後の聖ヨハネ騎士団ですが、マルタ島で同じように強力な城壁を構築して以降(今のマルタ首都名バレッタはロードス島を追い出された時の騎士団長バレッタに由来)、その後はナポレオンによってマルタ島を追い出されてしまいます。結局今は本部をローマ市内におき、(日本は認めていないものの)世界最小国家として残存。
一方のスレイマンは、ロードス島が自分の支配下になったことで、東地中海におけるイスラーム貿易圏を掌握し、ますますオスマン帝国の世は繁栄したのです。
*写真:🇬🇷ロードス島 聖ヨハネ騎士団長居城(2023年7月撮影)
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