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「終わりなき日常を生きろ」宮台真司著 書評

<概要>

サリン事件を引き起こしたオウム真理教などのカルトや自己啓発セミナーなどを題材に、今に生きる我々は「終わりなき日常」という普遍的真理のない複雑な世界を生きているが「オウム真理教」などの特定の価値観に染まることで自分の存在不安を解消するのではなく、浮遊する存在そのものを受け入れ「まったり」生きていけばよいと指南した著作。

<コメント>

若い頃、宮台真司や鶴見済(「完全自殺マニュアル」著者)、岡田斗司夫(「オタク学入門」著者)などの著作にハマっていた時期があったのですが、受講予定の某セミナーで本書が課題図書になったので、さっそく本棚の奥の方から引っ張り出してきて25年ぶりぐらいに再読。

当時はポストモダン全盛で「既存の概念は全て相対的なものに過ぎない」という中、存在不安を抱える私たちは「はてさてどうやって生きればいいんだろう」とした時に登場したのが「意味」で生きるのではなく「強度」で生きろと訴えた社会学者宮台真司(今の考えは違うらしい)。

私の印象では、実は当時でも今でも、ほとんどの人は「存在不安」を抱えて生きていないと思いますし、当時の私含む「存在不安」に悩む人間は、あまりいないタイプではないか、とずっと思っています。

ほとんどの人は「生きる意味ってなんだろう」と自分の存在に対して疑念を持つようなことはないのではないでしょうか?

現在の類型に置き換えれば、

第164回芥川賞受賞作「推し、燃ゆ」の「推し」への指向性を持つのが当時の存在不安的傾向のある人間で、ちょっと毛色は違いますが、最近流行りの「ネトウヨ」もなども存在不安解消のためのツールかもしれません。

一方で「リア充」なのが当時の「ブルセラ系女子高生」、ちょっと前だったら「マイルドヤンキー」という印象。

ちなみに作家の平野啓一郎は、文藝春秋の「推し、燃ゆ」の選評で存在不安について

寄る辺なき実存の依存先という主題は、今更と言っていいほど新味がなく・・・

文藝春秋2021年3月号

と表現し、いつの時代でも存在不安は、ありふれた文学の主題だと言っています。

でも不幸にして「存在不安」を抱えてしまうとタイヘンです。

絶対的価値観が崩壊したポストモダンの時代において「何をよる術として生きていけばいいのか?」そんな存在不安を抱えた一部の人たちは、オウム真理教などのカルトに身を寄せます。そしてサリン事件が起きる。存在不安を抱えるアイデンティティは、教祖による洗脳とマインドコントロールによって「絶対的価値観(宮台は「ファンタジー」と表現)」を脳に刻み込まれ、犯罪に手を染めてしまうのです。

私自身は当時、竹田青嗣の「現象学入門」を読んだことがきっかけで「ある意味、この世界は自分が作っているんだな」と目から鱗が落ちて以来、存在不安は解消。今は

「人生の意味は、その先にあるものを探すのではなく、自分が作るもの」

だと思っているので、存在不安はすっかり完治してしまいました。

一方の宮台真司は、生きる意味を与えてくれる形而上学的概念(=絶対的信念や特定の価値観、宮台流にいえばファンタジー)は葬り去って、そもそもそのような意味を求めず、むしろ存在すら意識することもなく、当時流行ったブルセラ女子高生のように、その日その日(=終わりなき日常)を「まったり」と生きればよい、と指南したのです。

これは仏教的解決方法にも似ていて仏教の場合は「煩悩(ここでは不安)を生み出す欲望そのものをなくしてしまえばよい」として修行に励み、解脱できれば欲望はなくなり「終わりなき日常」をまったりと生きることができるわけです。不安は欲望があるからこそ生まれるわけで、解脱してしまえば欲望そのものがなくなってしまうのですから。。。(詳細は以下、参照)


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