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父への手紙 21 社会の流れには微動だにしない

父は、最終的にグローバルなビジネス専門の企業の1社に勤めて、最後までこてこての昭和人間で社会人の幕を閉じた。

 誰とは言えないのだが、かなり信頼のできる情報筋(分かりやすくここでは「母」と呼ぶことにするが)、からの情報だと、父は赤字に転落した部門の立て直しや、新たな拠点を開拓する、一番しんどい仕事を主にやらされていたという。

 父の話だと、一時期、窓際で新聞だけを読んで世界情勢を把握、次の一手を考えるという仕事に従事していたという。

父の新聞の切り抜きと、株の運用は全く分からないが、株価だけは気にしてチェックしている行動パターンは、もしかしたら、窓際時代の後遺症が残っていたのかもしれない。

 新聞の切り抜きの未だに解明されていない謎の一つに、切り抜いて後、「そのまま溜める」習性が見られる。

また、切り抜いた後の新聞もなぜか溜める。

新聞を溜めなくてもいいように、切り抜いたのではないか、というのが野党の意見ではある一方で、与党には捨てられない大人の事情があるようだ。

 会社でも家でも新聞を隈なく読み、明けても暮れても読書ばかりの習性をもつ父であれば、世の中で何が話題で、何が必要とされてきているのかが概ね分かっているはずで、当時の私から見れば、未来に一番近い男であってもおかしくなかったはずの父が、一番世の中を分かっていなかったという事実を目の当たりにしたのは、最近のことである。

 人の転機は、読書、出会う人、旅行のいずれかの中で起きるとよく言われているが、旅行嫌いで他人の興味のない父が何かに出あうとすれば読書しかなく、その読書が日課だったにも関わらず、本の内容を速読しながら、世の中の動きは飛ばし読みしていたという仮説に最終的には至った。

 父と母は、NECの8801FRというパソコンを当時30万程で兄に購入してくれ、私も兄と一緒にゲームやプログラミングで遊んだことを覚えている。

外から見れば、「先見の明のある両親」に映ったはずである。

その父は、今は話せなくなってしまったので確認することはできないが、「キーボードって何?」聞いたとしたら、「あの、電子ピアノの鍵盤のやつ?」って答えそうな気もしている。

間違いではないが、現代的には大間違いだ。

 戦国時代、武田信玄は戦いに強く、多くの武将に恐れられてきたと聞く。

風林火山という言葉も武田信玄が旗印に用いたことで有名になり、なかなか偏差値の上がらなかった私でも知っている。

父は、まさに社会の流れに対しては、「動かざること山のごとし」だった。

 武田信玄の「動かざること山のごとし」は、攻撃の時は素早く動き、守りの時は静かに構え、山のようにしっかりと構えることを意味している、緩急のある言葉だが、父は、明けても暮れても構えっぱなしで、いざという時には、裏が取れていないため、ギャンブル的に発言することが多かった。

そこで、息子である私や兄が、突っ込んだ質問をすると決まって

「だと思うよ」

という返答がくる。攻めも守りも構えっぱなしなのである。

ブランド認知の低い死筋商品が売れないために、棚から微動だにしない状況を思い浮かべて欲しい。

勝ちのチャンスはなく、ただひたすら一度手にした棚という場所を、ひたすら死守する商品を見かけることがあると思う。

その人型バージョンが父であり、その棚を守れるのなら、他の棚で起きているイノベーションや戦いには目もくれないという才能を、岐阜県の神岡町の時代から育んできたというわけである。

父は、新聞、読書、株価や為替変動、報道番組など必ず見ていたが、全世界が泣く程、その動きに動じない人生で幕を閉じた。

父への手紙

 よく他人によきアドバイスができる専門家は、自分の家庭では、同じようなことが出来ないなんてことを聞くことがある。

医者という職業柄、多くの成人病を抱えた人い医学的見地からアドバイスをする一方で、自分自身が成人病を罹っていたり、企業の経営者をコーチングでチームを立て直すお手伝いをしている傍ら、家庭では家族のコーチングができない、というのはあるあるネタでしょう。

 親父は、1対1で素面の時に、経営者としての考え方を聞いた場合、かえってくる回答は、非常にプロフェッショナルでした。

これだけまともな回答が出せるのに、なぜ家庭では上手く機能しないのだろうと不思議に思っていました。

 部下の育成に応用できることが、子育ての子供へのアプローチの中から参考になることが多くあるものの、会社でのアプローチを家庭に応用できるものは多くはない気がしています。

 経営者であれば、Aの方向に進むと言えば、部下やチームは不満があったとしても、進んでくれ、方向性が正しければ、大きな利益へと還元されます。

 もし同じことを家庭でやろうとすれば、「何を偉そうに!」とティッシュペ―パーの箱を投げつけられうのがオチでしょう。

 自分も育児を始めて観察をしていると、自分の子供は、親が思っている以上に世間のことを自分で学び、自分なりに適応する能力が日々高まってきている。

勉強や記憶力に関しても同じで、家庭の外では一人でしっかりできていたりするものの、家で親が言うと、その通りには動かなかったりする。

どこの家庭でもあると思われる「我が子問題」だと思います。

 これは、我が子に限らず、「家族問題」とも言えます。まともなアドバイスも、相手が家族だからこそ、ついリスペクトを忘れてしまい、同じ内容を間違った伝え方で伝えてしまうことで、ティッシュペーパーの箱を投げつけられるか、手元にあったタオルを投げられるような行為に発展してしまうということです。

 社会におけるイノベーションに関するインプットだって、会社で議題に上がれば、その妥当性などを調査して、投資に見合うものと判断がつけば、導入に向けて先に進むでしょう。それは、俯瞰してものを見ているのと、周囲の様々なアイデアのぶつかり合いや、周囲から背中を押されることで前進できるというものです。

 しかし、家庭となると、自分が俯瞰でも、相手は主観で真っ向勝負を挑んでくるし、ケガしない程度の有形商材が飛んできたりもする。

そうなれば、主観で対抗したくもなるでしょう。

親父は、いわば、ローテクの貴公子。

士農工商で言えば、農民としての才に長けた人物なので、そこに産業革命を起こされても理解できないというのは、今なら理解できます。

せめて親父が現役時代に、農業に使える人工知能の話が出来れば、理解合えたのかと思うと残念でなりません。

 きっと、「世の中の流れがどのように変わろうと、自分を見失うな」ということを、身をもって体現されたということですね。漸く理解できました。ありがとうございます。

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