コロナウィルスに翻弄されたウィーンの4週間
2月15日深夜に羽田空港を発ち、オーストリア、ウィーンに向かった。
私の勤務校では毎年、2月半ばから4・5週間、英語とドイツ語の集中学習を目的に短期留学プログラムを実施している。受け入れ先の学校の対応がほぼパーフェクトなので、引率は特に必要ないのだが、行けば行ったでいろいろサポートすることもあり、たいてい毎年この期間に自分の研究調査を合わせて出かけ、調査の合間に現地の友人とコラボして美術館や宮殿ガイドツアーなどの文化アクティヴィティをセッティングしている。2月のウィーンはまだ寒く、観光シーズンではないものの、比較的静かな時期であり、参加学生にとっても自分にとっても、勉強や仕事に集中する環境としては理想的ともいえる。何しろもう10年も継続しているプログラムなので、2月のウィーン行きは、私の中でもなんとなく年中行事のようになっている。
しかし、結果論から言えば、10年目という記念の年とは言え、今年はこのプログラム、絶対に中止しておくべきだったと思う。この記事を読んで、「こんな時に海外に行くから悪い」といった類の批判の嵐がリアルに聞こえてきそうだが、しかし、私たちが出発した段階では、これほど短期間にここまで急激なパンデミックが進行するとは、誰も予想していなかっただろう。日本でも、まだ2月前半の段階では、むしろ、コロナウィルスは武漢、中国に渡航歴のある人と、まだ下船が許されていなかったダイヤモンド・プリンセス号の船内の問題としてとらえられていたのは確かなのだ。
[最初は東洋人嫌悪から]
ただし、だからと言って、何の憂いもなくウィーンに向かったわけではない。コロナウィルスの流行が中国から徐々に日本に上陸していたことから、他のヨーロッパ諸国では、東洋人が暴言を吐かれたり小突かれたりするというニュースがぼちぼち入ってきていたからだ。ドイツなどの情報を見ていると、公道であからさまに子供のグループに「コロナ、コロナ」と囃し立てられたり、石を投げられたりという憂鬱な話題もてできていた。
あとになってもしみじみ思うのだが、同じヨーロッパ、同じドイツ語圏といえども、人の心や精神性の違いはかなり大きい。未知のウィルス流行という状況に直面して、他者に対してどのような態度をとるのかは、人によっても土地によっても実際には全く違うのだ。
到着してから最初の10日ほどは、ニュースが伝えるような酷い扱いを受けることはほとんどなかった。ただ、ウィーン人の心性を知る身としては、地下鉄の中、図書館の閲覧室、そして早朝に訪れるヨガスタジオで、私と接触したり隣に座ったりするような状況で、オーストリアの人たちがえも言われぬ苦渋のオーラを出しているのをキャッチするのが何とも辛かった。ウィーンは歴史的にはハプスブルク家にゆかりを持つ大都市で、そもそも住人は一般的に言って礼儀正しく、他人に対して攻撃的なアクションをとるような行動様式を持ち合わせていないのだ。特に、研究者である私が出入りするような場所には、知的レベルの高い人も多い。そんな彼らが、最大限に丁寧に、フレンドリーに接しようとしつつも、心中、「東洋人イヤだな。ウィルス持っていたらどうしよう」と不安がっているのがありありとわかった。この間の10日間のうちに、日本で一般の人たちの間にも感染が急速に広まり始めていた事実も、もちろん背景としてあったはずだ。いずれにしても、こんな反応を見るのが何とも切なくて、史料調査の合間にカフェに寄ったりする楽しみは、すべて自粛することにした。外食は控え、人が集まる場所もできるだけ避けるようにした。
研究調査上のスケジュールにも若干影響は出てきた。今回、かなり前からアポイントをとり、学術的なアドバイスや専門知識を乞う予定だった研究者の中には、直前になって会う約束をキャンセルしてくる人もあった。その不自然な言い訳を聞きながら、まあ、このタイミングで日本人に会いたくないという気持ちは痛いほどわかるので、自分が気を悪くするよりは、むしろ相手のことがひたすら気の毒になってしまい、「会う約束をしてしまってごめんなさい」と心の中で逆に詫びていた。
こうして仕事上のミーティングがキャンセルになったのは仕方ないとしても、オーストリア国内でコロナ患者がまだ出ていないこの時点で、親しい友人の数人が、会った時、別れる時のハグ&キスをあからさまに拒絶する態度をとってきた方がむしろこたえた。私自身もいきなりガバッとハグする方ではないのだが、もうこちらの顔を見ただけで、強い態度で「ハグはイヤよ」と言わんばかりに握手の手をグッと出してくる人もいて、「あー、接触したくないのね」と、何とも寂しい気持ちになった。もちろん、身体的接触の回避は、感染予防の第一歩である。数週間後、流行が本格化したいま、「同居していない人とは触れ合わないように」という指示は、政府広報でも頻繁に流しているし、いまではみんなハグ&キスどころか握手ですら避けている。ただこの時点では、オーストリア人同士は全く普通にハグし合っていたので、その疎外感は半端なものではなかった。
[ザルツブルクで世間の荒波に揉まれる]
オーストリア短期留学ブログラムでは毎年、期間半ばにザルツブルクに小旅行に出かけ、英語でレポートを書くというフィールドトリップを行なっている。今年はこちらにも付き合うことになった。私にとっても何より大好きな街ザルツブルク、こちらのトリップでも現地の友人に依頼して、市内ガイドを引き受けてもらった。ところが、ザルツブルクの雰囲気はウィーンとはまるで違っていた。もちろん、若い日本人20人近くの団体が目立ったということもあるのだろうが、私たちに出くわすと、あからさまに手やマフラーで口を塞ぎ、「オエーッ」というような反応をしながら通り過ぎる女の子のグループ、そして、怒りを通り越して笑ってしまったのは、いかにもドイツの田舎から観光に出てきた風の、ティーンエイジャー連れのお父さん。私たちの姿を見ると、「おーっ、やばいぞ、感染するぞ、みんな用意はいいか?」と声がけしているので、何をするかと思えば、家族全員、ポケットの中に病院で使うような使い捨ての青いゴム手袋を忍ばせていて、皆が一斉にそれを嵌めはじめたのである。ゴム手袋でいったい何を防ぐつもりだったのか。空気感染だろうか。この家族は、いったいどんなメディアからどういう形で感染予防の情報を得ているのか。情報伝達がきちんとなされていないこと、そして、情報を正しくキャッチする能力を持たない人が、ヨーロッパにもたくさんいるのだということを、改めてこの滑稽な一家に教えてもらった感じである。
ザルツブルクでは運の悪いことに、学生のなかに体調を崩す人が出てしまい、あまりに具合が悪そうだったので、知人のアドバイスで州立大学病院の救急外来を受診した。具体的には何かのアレルギーのような症状で、咳も熱もない。だが、この時点ですでにダイヤモンド・プリンセス号下船者から感染拡大のニュースは世界で知られるようになっていた。どう見てもコロナウィルスの症状ではないのに、第1診で即隔離入院措置が取られ、4日間、隔離病棟に留め置かれた。ようやく退院となって迎えに行き、渡された診断書の最初の項目は、「COVID-19ネガティヴ」。つまり、こんなかけ離れた症状でもコロナウィルス感染を疑われ、その検査を真っ先に受けさせられたということだ。日本人=コロナという図式がすっかり出来上がっていることを、嫌でも認めざるを得なかった。
この時期になると、オーストリアでも、イタリアと国境を接するティロル州をはじめとして、ぼちぼち感染者が出はじめた。そして奇しくも、私たちの滞在中、2月29日に、ザルツブルク州で初の患者が確認され、自宅で隔離観察を受けることになった。イタリア滞在歴のある地元在住の女性で、ザルツブルク市長が記者会見のとき、「旅行者、観光客の中から初の患者が出なかったことは本当に幸いだ」と強調していたのが印象的だった。オーストリア随一の観光都市であり、これから夏にかけていくつもの音楽祭のスケジュールを抱えるザルツブルク、観光客=病原菌の媒体、というイメージの形成は何としても回避したかったのだろう。
[そして本格的な感染拡大へ]
ザルツブルクから戻ると、またいつも通りの日々が過ぎていった。
ところが、3月5日くらいから社会の様相が変わってきた。イタリア滞在歴をもつティロル州の罹患者や、イタリア人が訪れていたスキー場などから少しずつ広がっていた感染がみるみるうちに拡大し、3月8日には患者数が100人を超えてきた。それからはまさに感染爆発状態で、一日にほぼ100人ずつ患者数が増大、現在3月15日の時点で、検査での陽性件数は860人となっている。オーストリアは日本の北海道ほどの広さの国で、人口は約800万人。これを思うと、流行拡大の深刻さが日本の比ではないことがわかるだろう。
3月10日はとても奇妙な日だった。暖かな晴天で、朝一番で国立図書館の閲覧室に入ったが、ほとんど人がいない。閲覧者がページをめくるざわざわとした感じや、キーボードを打つ音すらなく、静けさが鼓膜を圧迫してくるような、これまで体験したことのない不思議な緊張感がなんとなく空恐ろしい雰囲気を醸していたのが、鮮明に記憶に残った。この日の午後、セバスティアン・クルツ首相が記者会見を行い、大学、高等学校の休校、屋内100人以上、屋外500人以上のイベント禁止措置を発表することになる。この時点で、ウィーン市内の美術館、博物館、宮殿はすべて閉館を決め、ウィーン国立歌劇場も楽友協会も、すべての公演をキャンセルとした。ウィーンの観光名所、シュテファン寺院も礼拝以外の入堂を認めなくなった。午前中に座っていたあの図書館も、この日以後は臨時閉館となったのだ。
通っていたヨガスタジオにも異変が起きていた。夜のクラスはいつもほぼ満員なのに、この日を境に人がパラパラとしかいなくなった。もちろん、私自身も、ウィーンでこれ以上罹患者数が増えるのであれば、換気の悪いヨガスタジオは危険だし、プラクティスを中断しようとは考えていた。その点では他の人も同じ考えだったのだろう。更衣室でもそんな話は出ていた。ただ、ウィーンっ子たちの全体の雰囲気としては、まだ誰もパニックになってはいないし、公共交通機関での通勤を自転車に変えてみたり、在宅勤務に切り替えたりと、みんなそれぞれできることを粛々とやっているわね、という穏やかな雰囲気の会話がなされていた。
そして翌日。朝7時にスタジオに行ったら、インストラクターの先生が何となく悲しげな様子。参加者それぞれに、体調や、仕事への影響などを丁寧に尋ねている。運動量の多いクラスだったが、この頃には、すでに先生たちは生徒の身体に直接触れるようなアジャストを避けるようになっていた。クラスが終わると、それほど親しくもない先生なのに、やたらに「身体に気をつけてね」と繰り返す。そして、帰宅してメールを開くと、緊急ニュースとして、スタジオの即時臨時閉鎖のお知らせが来ていた。私が参加した朝のクラスは、実質ここのスタジオで最後のクラスだったということだ。
ヨガスタジオのメールから数時間後、クルツ首相が2度目の記者会見を行い、週明け16日より、薬局、銀行、郵便局、ドラッグストア、スーパーマーケット以外のすべての商店の臨時閉鎖を指示した。カフェやレストランについては一律15時閉店とされていたが、週末も罹患者数が減らない状況の中で、15日にはさらに、飲食店の全面閉店が決まっている。
[オーストリアでも買占めが!!]
このあたりから、街と人の雰囲気がガラリと変わってきた。みんなが落ち着いて、自分ができることを粛々と、という雰囲気ではなくなってきたのだ。朝、たまたま日用品の買い物でスーパーに行ったら、乳製品の棚からチーズやヨーグルトが消えていた。そして、ほどなくここの街でも、人々がトイレットペーパーを買いに走り始めたのだ。聞くところによると、オーストリアでトイレットペーパーの買占め行為はこれまで一度もなかったことらしい。友人は、しきりにSNSの影響を指摘していた。日本やアメリカでトイレットペーパーの棚が空になる衝撃的な画像と同時に、不安のネガティヴ感情もシェアされていったというわけだ。13日金曜日の夕方には、24ロールの大きなパックを両脇に抱えて神妙な顔つきで歩く人の姿を多く見かけた。コロナウィルス流行でトイレットペーパーがなくなる、という不安構造に入る段階で、パニックの始まりと見ていいのだろう。続いて、乾燥パスタ、缶詰、バナナ、牛乳などが次々と棚から消えていく。週末の金曜日ということもあったのだろうが、爆買い、買占めの勢いはまさに凄まじく、食料品の棚が軒並み空っぽになるなか、まもなく訪れる復活祭用の、パステルカラーに彩られたウサギや卵の愛らしいオーナメントやチョコレートだけが、誰も手をつけないまま山積みにされていた様子が、何とも哀しかった。
たまたまこの日は大学時代の地元の友人と行動をともにしていたのだが、彼もまたトイレットペーパーが買えず、最後にたどり着いたプラーター駅の高架下のドラッグストアで、売れ残ったラストの2ロール入りパックを若いハンサムな警察官と取り合いになり、結局、「警官だってクソくらいするんだぜ!」というキメのひと言で譲らざるを得なくなっていた。心が翳り、息も詰まるような苦しい気持ちの中、この野卑なジョークが売り場に呼び起こした笑い声が、何となく救いだった。ケルンテン出身というこの警官は、これからオーストリア=チェコ間の国境封鎖作業に向かうと言う。これを聞いて、ヨーロッパ中部がすでに完全なパンデミック状態にあることを、まさに肌で感じることになった。
[「全人類が兄弟となる」夢の儚さ]
今年は5週間の予定で順調なスタートを切った短期留学プログラムも、3月15日に「不要不急外出自粛」と「小中学校、専門学校を含む全学校の休校」措置受けて中断を余儀なくさせられた。いまは、オーストリア国内の全空港封鎖という最悪のシナリオに備えて、学生たちの帰国の日を早めるべく、航空券の調整に追われているところだ。
オーストリアに来て4週間。世界におけるコロナウィルス感染拡大展開のあまりの速さは、この時間を振り返ってもうまく整理できないほどだ。私が到着した時期には、ウィーンの人にとって、コロナウィルス流行は対岸の火事だった。だからこそ、「東洋人が運んでくる謎のウィルス」というイメージも形成されていたのだろう。それが、まず思いもよらずイタリアが爆発的流行に陥り、その後、イタリアとの人的往来を通じて南部から最初はじわじわと、そしていまや凄まじい勢いで広がっているのだ。そしてそれが、人びとの心の中に、日増しに深いトラウマを刻みつけつつあるのは、確かなことだと思う。
オーストリアはまだましだとはいえ、こちらに来てから「コロナ」と呼ばれた経験は、前述のように何度かある。若く、グループで移動する学生たちはもっとひどかったようだが、基本、単独行動の私ですら、バスに飛び乗ったら「やだ、コロナが乗ってきた」と笑われたこともあった。そして、これはなかなか繊細な問題ではあるのだが、ウィーンでもザルツブルクでも、あからさまに「コロナ」と嘲笑したり、「ゲーッ、やだやだ」というようなジェスチュアをして見せたりする人たちのほとんどが、明らかに移民か、その何世代目かのような人たちであったことが何とも悲しい。1990年代から、多くの時間をこの地で過ごしている私の目から見ても、留学生だった20世紀末に比べて、現在のウィーンの住民層は人種的に著しく多様化している。中世から絶え間なく首都に流入したスラヴ系、ハンガリー系の人よりも、世界情勢の変化とともに、アラブ系、アフリカ系の人びとが圧倒的に増えてきた。慢性的に少子化傾向にあるオーストリアで、移民の人びとがうまく同化して社会を支えていけば理想的なのだろうが、一方で社会から異分子を排除しようとするベクトルも否定し難く存在する。外国人人口が著しく増大するなかで、オーストリアの伝統文化をどのように守っていくのかという議論も、そこに深刻に絡んでくるだろう。そして、この土地に根強く存在する右派ポピュリズム政党主導の外国人排斥運動もまた、長い間、彼らに強い牽制と圧迫をかけ続けてきた。他国からこの地に拠点を移してくる家族にとって、オーストリアは理想的な場所なのだろうか。ウィーンは3年連続で「世界で最も住みやすい都市」にランキングされてはいるが、これは必ずしも移民の人々にとって、ということではないだろう。富と成功を求めてこの街にやってきた彼らが、数世代という長い時間、「オーストリア人」あるいは「ヨーロッパ人」というカテゴリーから差異化され、排除されてきたことに疑問の余地はない。
今回のコロナ騒ぎで、最もヒステリックな反応を見せたのが、このグループの住民であったことが、苦い記憶として心に消し難く残っている。それは、暴言を吐かれたことへの怒りではない。日本人を「コロナ」と嗤う彼らの行為が、自身がヨーロッパ社会のなかで差異化され、排除され、貶められた長い経験を通じて心の中に溜め込まれたコンプレックスやルサンチマンの裏返しであることは明らかだ。移民の人びとが受けたこうした経験が、人種差別、文化差別であることはいうまでもないが、彼ら自身がその辛い体験を、他者への差別や嫌悪、敵意としてそのままトレースしてしまうという現実が、切なくてたまらないのだ。
コロナウィルスのパンデミックは、政治的、経済的にも、グローバリゼーションの可能性をたちまち懐疑で包み込むことになった。それと同時に、ウィルスの流行は、人間同士の絆や愛情、他者理解の可能性をも恐怖の中に霧散させ、相互の差別意識や憎悪に挿げ替えているように思われてならない。
今年2020年は楽聖ベートーヴェンの生誕250年記念イヤーで、ウィーンでもベートーヴェン関連のイベントが数多く企画されている。ベートーヴェンが伝統の枠組みを大きく蹴破って作曲した最後の交響曲第9番。終楽章で高らかに歌い上げられる「全人類は兄弟となる」というシラーの詩句は、冷戦後にしばしば世界平和のテーマとして扱われ、演奏された。しかし、ベルリンの壁が崩壊したあと、多くの戦争やテロが人間の心を引き裂き、そして、未曾有のウィルスが人の身体だけでなく心をも蝕むさまを目にして、この歌詞のリアリティを現実として感じることがまったくできないのは、私だけなのだろうか。
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