紙に刷られた言葉、声に出して読まれた言葉が放つ、強烈な魅力-ジャン=ポール・ディディエローラン『6時27分の電車に乗って、僕は本を読む』
売れ残った本は、どこへ行くのだろう。本が好きな読書人の中で、こんなことを思ったことがある人はどのくらいいるだろう。そして、書物を手がける著者の多くは、その「本の墓場」のありようを生々しく想像させられるような体験を抱えているのではないだろうか。売れなかった本、いや、そこそこ売れた本ですら、著者はたいてい、出版から数年後に、出版元から絶版処分と在庫の裁断処理のお知らせを受け取ることになるからだ。
『6時27分の電車に乗って、僕は本を読む』の主人公、ギレン・ヴィニョールはまさしく、これらの本がたどる末路の最後の段階を見守る仕事についている。すなわち、リサイクル会社に勤務し、ドイツ語で「破壊者」を意味する巨大な古紙粉砕機、「ツェアシュトー500」を操作して、書物をドロドロの再生パルプペーストに変えるのが彼の生業なのだ。
年老いた母親に対して「出版社勤務」を偽るギレンは、だが、書物に対する深い愛情を心に秘めた人物なのだ。正確に言うと、「書物」と言うよりは「印刷された文章」と言うべきなのかもしれない。それゆえに、日々の仕事は彼にとって自らの身を切るような辛い作業になってくる。本を多少なりともましな形で葬るために、ギレンは、「ツェアシュトー500」に呑み込まれながらも、何かのはずみでその内部のどこかに貼り付いて「生存」を果たした本のページを、大切に吸取紙のファイルの間に挟んで保管する。そして、この、自身に吐き気を催させるような仕事に向かう毎朝の通勤電車の中で、ランダムに生き残った、かつては書物の一部をなしたそのページを、ギレンは朗々と読み上げるのだった。
自分は変人だ、とギレンは思っている。害のない変人で、世の中から何とか目こぼしされてその片隅で生きている。しかし、実際にはギレンの社会での立ち位置はそのようなものであり続けることはなかった。公衆の場での「朗読」という行為が、彼を社会のはみ出し者の地位にはとどめ置かなかったからだ。朝の電車の車両には、ギレンの朗読を聞いて心を満たす人々が多くいた。そしてやがて、彼は見知らぬ老女らに乞われて、週に一度、老人ホームで「生き残ったページ」の朗読会をするようにすらなる。
かつて「ツェアシュトー500」の誤作動事故に巻き込まれ、両脚を失った元同僚のジュゼッペ。アレクサンダー格詩をこよなく愛する守衛のイヴォン。この作品のなかで本の墓場を見守る人びとは、「書物」という、古くからの、そしてもはや時代遅れとなりつつあるメディアの形式にたいして、それぞれが何とも甘く優しい愛着を抱いている。自分の身体の一部を無惨に巻き込んだ再生パルプペースト。それを原材料にできた紙をもとに刷られた家庭菜園に関する本を、1300部すべて捜索して買い取ろうとするジュゼッペのいささかパラノイア的な構想もまた、書物流通の古くからのネットワークを優しく指でなぞろうとするような繊細さに満ちている。
ギレンが一種「書物の葬送」の儀式として着手した「ページの朗読」が、それをナイーヴなまでに聞く立場の人びとの想像力を鮮やかに刺激し、彼らの心をいきいきと満たすありさまが、電車の車両、老人ホームのダイニングホール、それぞれの場で、音読される文章の断片とともにありありと描写される。
ギレンが読み上げるのはいずれも、バラバラに解体された書物から偶然に拾い上げられた一節であり、互いに関連を持つわけでもなく、ストーリーもプロットももはや再現不可能、前後の脈絡すらわからない。それでもなお、いや、それだからこそ、文章は人びとの好奇心をこの上なく幻惑的に魅了し、虜にするのである。
そして、ただ仲介者として(あるいは死刑執行人として?) 本を読み上げる役に徹していたギレンにも、ある日突然ギフトがやってくる。いつもの通勤電車の中でたまたま拾い上げた大容量記憶装置(USB)。その中には、めくるめく魅力をたたえた文章の世界が広がっていたのだ。
書き手は、巨大ショッピングモールの化粧室係。つまりは、モールの公衆トイレを清掃しながら客を案内し、心ある人からチップを受け取りながら生活する28歳の女性である。モールのトイレ清掃は、本来、美しくも楽しくもない仕事である。時には、この場に怨念でもあるのかと思うほど徹底的に汚して去るような凶悪な客もある。ただし、書き手のジュリーは、その厳しい日常を、まるで魔法でもかけたかのように、繊細に詩的に、そして愛情をもって、文章の中に紡ぎこんでいく。単調で辛い日常が、ジュリーの手で、天然色のポエムとして蘇り、ギレンの心をとらえて離さない。
吸取紙の間に挟まれた瀕死のページたちとは対照的に、大容量記憶装置の文章はひたすら饒舌だ。それは新たなドキュメントへと連なりながら、ギレンの読者としての想像力と好奇心をぐいぐいと惹きつけてやまないのだ。
ギレンはやがて、ジュリーの「手記」を電車の中で、そして老人ホームで朗読するようになる。こうして、書き手の知れないこの物語は、声に出して読まれることで、さらなる生命力を吹き込まれ、ギレンから、さらに聞く人たちの心へとその魅力を伝播させていくのである。
本とは、書物とは、文章とは、言葉とは、これほどまでに人の心をとらえて離さない引力をそなえたものなのか。とりわけ、書かれた言葉が、ギレンという個人の読解を通じて受容され、それが「音読」という次の段階を経て、さらに多くの人に伝えられ、それぞれのやり方で受け止められるという伝達のプロセスは、古くから社会の中に「朗読」という読書のあり方が根づいていたヨーロッパの文化のスタイルを感じさせて、とても興味深い。「音読」に耳を傾けるという行為もまた、文化史の流れにおいては、広義での「読書」から除くことは決してできない「参加」の形であったに違いない。
ヨーロッパにおいて、18世紀までの時代、本を自分で読んで理解するレベルの識字能力をそなえた人々が、平均して全人口の30パーセントにも満たなかったことは、文化史研究が証明するところである。19世紀における初等教育の普及、そして印刷物が安価に手に入るようになったことで識字率は急激に上昇し、今日ではほぼ100パーセントに達している。
だが、私たちはいま、「書物を読む」という、人類が300年かけて身につけてきた能力と慣習を、自ら放棄しようとしてはいないだろうか。文章を読解し、その光景を脳裏にありありと再現して、さらに心に落とし込むという行為は、クラシックではあるが、人間だけに許された最高の娯楽であろう。ところが、いま、ほぼ地球のどこにいてもスマートフォンが操作できる時代になって、ものごとをいちいち文章にしてそれを落とし込まなくても、すべてが音声や映像で再生され、より直接的、刺激的に伝えられるようになっている。その中で、味わうようにゆっくり文章を読み、自分なりにきっちりと受容する機会は、次第に希少なものとなりつつあるように思われる。ジュリーの手記は、確かにパソコンを使って書いたものではあるが、それを読むギレンが、ページをわざわざプリントアウトして持ち歩いていることは、まさに象徴的に思えた。端末のディスプレイから大量に溢れ出す言葉と、紙に刷られ、朴訥に語る言葉とでは、スピード感も細部の拾われ方も、全く違うスタイルで受け止められることはほぼ間違いないだろう。そして、ディディエローランのこの小品は、改めて、いまや撲滅危惧種に陥ろうとする「紙の文章」が放つ独自の魅力と生命力、そして、それがわれわれに与える根源的な楽しさを、辛味の効いたユーモアの中に見事に点描していると感じた。
物語のラスト、「言葉」を通じて結ばれる人間同士のリアルな邂逅は、SNSでの出会いとは根本的に違っている。それは、不器用で覚束なくて、まったくスマートではないけれど、人の心のより深い部分にしっかりと訴えかけるものなのだ。
このラストは本当に小粋で洒落ていて、思わず読者の表情に笑みを与えずにはいない。本好きの人のための、本物のフェアリーテイルだと感じつつ、最後のページを閉じた。