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ASDの息子と普通の限界

未熟児で生まれた双子の彼らは私の両手に収まる大きさだった。今でもその瞬間の事を覚えている。初めての子供ということで、その大きさが私には普通だと感じたが、3人目の子を授かった時に双子の時はだいぶ小さかったんだぁと思わされる。未熟児なのでNICUに入りワチャワチャ、ヘリで飛ばされワチャワチャと当時は忙しかった。退院?してからも双子という事で眠れない日々は続き、私と妻はゾンビ状態であったし当時の記憶もあまり鮮明ではない。8ヶ月経ちようやく夜通し寝るようになった。

そんな双子の息子たちも今年の2月で10歳となる。ようやく二桁に突入だ。まずは健康に育っていることに感謝したい。長かったような短かったような、不思議な感覚だ。そういえばこんな事を言う大人が私が小さい頃にはいたなぁと思うと、私も歳をとったんだなぁと感じる。

そんな子供たちだが、普段の行動に親として疑問を持つほど手に余っていた。踵をつけずに歩いたり、同じところ(キッチンのアイランドなど)をぐるぐる回ったり、特に気になったのは彼らの機嫌が悪くなった時の泣き方だ。過呼吸のようなことをしてみたり、甲高い声で叫んだりと親としてどうしたもんかと嫁と話していた。

とりあえずファミリードクターに相談してみようということになり、事情を話すとASDだろうと言われる。そして、私も同時に(アスペに近い)ASDだと言われた。ASDは遺伝するとので、私から遺伝したで間違いないだろうと言われる。そういえば私も甲高い声で泣いていたなぁと思い出したのは、その後少し時間が経ってからだ。

ちなみに私の母親は私が10歳のころに癌で他界した。父親は今年で73だが年々弱っている。母親が生きていたころ、そんな父親は育児放棄に近い状態だった。子育てという子育てをされた思い出はない。この年代の父親としては普通だっただろうとは思うが。そんな訳で私が小さい頃にどんな行動をし、どんな子供だったのかは主観でしか分からない。

そんな私には4人の息子がいるのだが、上の双子はもうすぐ10歳、3番目が6歳、1番下が3歳になったばっかり。最初の3人の息子はASDだと妻と私の間で意見が一致していて、1番下の子はその傾向が今は少ない。ASDもその人の個性というのが私の意見なので、その事に関してネガティブな感情はない。寧ろ楽しみですらある。

嫁は所謂専業主婦だ。4人の子供の世話をしている。はっきり言って世話をするだけで1人で出来る量の仕事ではないのだが、それに加えてホームスクールまでしている。私は妻に専業主婦をやってくれとも、そうすることを期待していた事もない。話し合いの中で嫁が選んでやっている事であり、やりたい事をやっている嫁を私は嬉しく思っている。ちなみに嫁はHSPにOCDを持ち合わせている。この嫁のコンビネーションに子供のASDが混ざって非常に大変な日々を送っている。

ホームスクールが日本でどれだけ浸透しているかは分からない。簡単に言えば両親が教師となり、小学校から高校までの学業を家で行うシステムだ。私の住むところはカナダでも田舎のほうなので友達の多くに農業を営んでいる人が多い。そんな農業を営んでいる家庭ではホームスクールをしている家庭が多い。タフな女性が多いイメージだ。一度ホームスクールを選んだらそれっきりということもなく、途中から普通の学校に変える家庭もある。

そんなホームスクールを数年しているのだが、ここに来て双子の勉学が難しくなってきている。特に時間がかかるのは本や記事(文字)?を読んで理解すること。私もこれには理解出来る部分はある…本も3回くらい繰り返して読んだりすることもあったり。嫁もこのことを頭では理解しているが体験的に分からないし、どうやって教えたら良いのかも手探り状態だ。私から言えるのはASD持ちは好きなことにしか脳が働かない…ということだ。教えている立場の嫁は嫁自身の技量の問題だと捉えがちなので、ちゃんと誤解は説いたのだが根本の問題が解決するわけではない。

嫁は子供にちゃんとした学業を与えたいが、ASDの息子たちは『普通』の学び方は出来ない。ASDはその名前の通りスペクトラムなので人によって程度が違うし、一概にあなたはスペクトラムのこちら側と言うことも出来ない。普通に学校に行き普通に学ぶことが出来る人もいれば、そうでない人もいる。見ている限りでは私の子供は普通の学び方では苦労するのではないかと思う。

子供に苦労をさせるのも一つのやり方かもしれない。ASDというレッテルを貼ることで、社会に溶け込むことをわざわざ難しくしてどうするんだという考え方もある。私も公立の小学校、中学校を経て社会には色んな人がいることを学んだ。それはそれで楽しいこともあり、辛いこともあった。私が大丈夫だったんだから子供にも同じ道を歩ませる、というやり方もある。

同じことを言うが、私はASDも個性だと思っている。ASDはASDなりの、もっと言えばどの子供もその子供に合った学び方があり、生き方がある。私の子供で言えば文字を理解するのが苦手だ。でも絵を描くことやピアノの上達具合は少し異常(いい意味で)な気がしている。やれと言った訳でもないのに進んで絵を書き、ピアノの練習をする。ミニオンの映画を観ていた双子の内の1人が突然立ち上がり、ノートとペンを持ってきて忘れたくないことを書き始めたなんて事もある。

5教科を平均的に教えて良い成績を取るということはハードルが高いかもしれないが、好きな事に特化して飛び出る事は出来る。少なくても私はそう思っている。そしてお花畑な頭で妄想するならば、好きなことを伸ばした先に文字を使わなくてはならない状況が出てきたら、それは『好きな事』の範囲に入るはずである。回り道というか、学び方が根本から違うのでは無いかと思う。

だから私は嫁に子供の成績が(一般的に言う)悪い状態でも気にしないと言った。子供たちが好きなことに没頭できる環境を与えるのが親の役目なのでは、とも伝えた。好きでもないことを子供に強要してある程度の成績を保つことにどれほどの意味があるだろうか、とも伝えた。嫁は全てを受け入れた訳ではないが、少し気分が楽になったと言ってくれた。

ASDという『普通』の人とは少し違う人間に生まれ、『普通』の教育が出来ると私は思わない。それは学業だけに限らない。一般的に言う『普通』ではいられないし、『普通』のことも出来ない。一人一人違うのだから、一人一人の教育があり、一人一人の生き方がある。学業を完全に捨てるということではないが、子供が好きなことをして生き生きと楽しめる、そんな環境を子供たちに作ってあげたいと思う。

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