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特別なASD

ASDが作る人格

ASDについて調べていると「ASDは個性じゃない」なんて強い言葉で記事を書いている人がいた。もちろん人それぞれ違う意見があって良い。その人を否定するわけでもないが、とても悲しい気持ちになった。

俺は個性であると思っている。さらに言えばASDを個性と認める事で見えることもあると信じている。ASDは個性じゃないと言っている人は多分ASDに非常に悩まされている人なんだと思う。ASDであることに問題があるとすれば、大きく分けて3つあると思っている。一つはASDの認知度と理解度、社会的な位置、そして日本の文化だ。

これらを理解し先に進めればASDを個性として受け入れ、もっと明るい未来が見えるのではないだろうか。

問題1 ー 見えないASD

まず第一にASDは日本語に訳すと自閉症スペクトラム症(Autism Spectrum Disorder)で、このカタカナの『スペクトラム』の部分が非常に厄介である。ASDの障害の特性は個々によって違うので一目見て分かるものではない。片足が無ければ一目見れば分かるし、風邪を引いていれば症状で大体分かる。俺の場合は医者に指摘されなければ俺がASDだと一生気が付かなかったかもしれない。自分でも気が付かないのに他人がパッと見て分かるとは到底思えない。

またASDを見えづらくさせる『対処法を覚える』というのがある。Aが来たらBを返す、Bが来たらCを返すなど、パターン化することで状況を乗り越える術を得る。何度も繰り返すことで、かなりスムーズな受け答えを出来るようになる。

他にもマスクの代償でも話したが自身を防衛するため、もしくは社会に適応するために仮面を被る。仮面を被っているとASDの症状はさらに見えにくくなる。周りからは普通に生活しているように見えても、本人は意識的、無意識に精神の限界まで追い込まれながら社会に適応しようとしているかもしれない。

ちなみに俺は会社内で仕事の話をしている限り、ASDだと気付ける人は居ないと断言できる。なんなら会社中の人と話して、中継役になっているくらいだ。ただ仕事の話から逸れて日常の話やら世間話などが始まると、何を言っていいのか全く分からなくなります。パーティー的なイベントに呼ばれるのが非常に辛いです。仕事場のクリスマスパーティーなんて、行かなくていいなら絶対行かないです。

周りにいる人にASD持ちであることを打ち明けることで見える化を図っても理解してもらえるかは分からないし、打ち明けたところで何も変わらない可能性だってある。最悪なのは「ああ、俺もそんな症状ある。」とか「まぁ、なんとかなるでしょ。」みたいな理解を示さない人たちだ。勇気をもって打ち明けたのに、まるでゴミ箱に捨てられたような紙くずのような感覚を受けることも。

見えにくく、理解されづらいASDです。心を開いて話せる人が居ないと孤立していき、社会からは変な目で見られます。一度社会から離れてしまうと、どうやって戻っていいのかさえ分からなくなってしまいます。ASD持ちはいじめを受ける率が高いとも言われています。

問題2 ー 社会的位置

一般的にも言える話だとは思うがASDにも向き、不向きがある。不動のルールの上ではその特性を生かせるし、マニュアルに沿って行う仕事であればストレスが少ないだろう。視覚情報を生かせる仕事、例えばCADオペレーターや、何度も確認作業のできるプログラマーなどはASD持ちに向いているとのことです。

ASDはマスクを被り社会に適応する。その副作用で自分を見失う事もある。自分が誰なのか、何が好きなのか、何が嫌いなのか、分からなくなる。そうなると自分の向き不向きを考えずに仕事を選んでしまうかもしれない。

運がよく本当の自分に向いている仕事につけた人は良いが、運が悪いASD持ちはどうなるだろうか。社会の中でのコミュニケーションが苦手であるASDが、本質的に苦手な職に付き上手くやれるとは思えない。もちろん全員がそうだと言っているわけではないが、確率は低いだろう。

ASDの特性を生かす仕事はたくさんあるだろうが、ASDの特性が評価されるかはほぼ運と言っても良いのではないだろうか。どれだけのASD持ちが運良く天性の仕事につけるだろうか。

新しく仕事を探そうにも、面接なんかはASD持ちの悪夢とも言えるイベントだ。何を聞かれるかも分からない一発勝負では、持ち味の2%も出せないだろう。日本に蔓延る勝負方法からすでに負け確だ。

ということはASD持ちはスタートの時点で同じラインに立っていないのだ。義務教育を終え、高等学校、大学、就職という一般的な道順では圧倒的に不利である可能性がある。しかし現在でも日本では大卒の方が生涯年収が高いし、新卒という形で社員を雇ったりする文化がある。

一般的なルートでの生き方でさえハードモードなのだ。俺も基本5教科よりも、音楽、美術、家庭科、技術(だったかな?)の授業の方が得意だった。しかし受験にはほぼ無関係という現実の厳しさといったら草

問題3 ー 日本の文化 - 普通と常識

ASDにとって日本は生きづらい。これに尽きる。カナダ生まれで現在日本で働いている俺の友達は、日本の温泉、日本の寿司と彼氏がカナダに来れるんだったら、日本になんか絶対住まないと言っていた。日本はなぜ生きづらいのか考えてみた。

Normal is overrated. 俺の知り合いが言った言葉で今でも心に残っている。直訳すると”普通は過大評価されている”となる。特にカナダに住んでからは日本に『普通』とか『常識』という言葉が溢れていることに気が付いたし、言い方を変えれば崇拝されているなぁとも思う。

例えば日本でレストランなどの公共の場所で、子供が大きな声を出すことはいけない行為だと親は指摘する。学校のルールに従えない子供は廊下に立たされる。仏壇のほうに足を向けてはいけない、向けるとバチが当たる的な事を言われる。子供は他人に迷惑をかけるなと言われ育てられる。その場の雰囲気を考慮する、周りの目を気にするなどなど、これが俺が知っている日本の普通。

俺は子供がレストランで子供らしく大きな声を出すことのほうが普通だと思うし、子供が学校の席で45分間ずっと座っているほうがよっぽど不自然。あんたの足は隣の家の仏壇の方向に向いているよ…距離か?距離が重要なのか?それとも壁か?壁があると足ビームが防げるんか?その場の雰囲気を考慮とか他人に迷惑をかけるってそもそもなんですか?なんで迷惑をかけちゃいけないんですか?助けが必要な時でも迷惑になるからって助けを呼ばないの?全然知らないおっさんの気持ちがそんなに大切ですか?

と、日本に住んでいない俺は言いたいことが言えてしまう。このような普通と常識がASDの身を狭くするし、生きづらくする。普通とは常識とは何だろうか。そう考えたときにこれを思い出した。

『赤信号みんなで渡れば怖くない。』

赤信号を一人で渡るから怖い。普通という言葉で人を集めて同じことをするのだ。何をしていても関係ない。例え間違ったことをしていたとしても、みんなが同じことをしていれば恐怖から逃れられる。誰かが少しでも違うことをすると『怖い』のだ。だから常識を作り、常識という言葉で人を集めて非常識を避けるのだ。それは同調圧力という名前になって非常識を潰す。

だから疑問を持たずに子供に親の価値観を押し付けるのだ。疑問を持ったとしても同調圧力に負けて、子供に自分の価値観で無いことを教え込む(自分の価値観があれば、の話)。別に同調圧力がどうたらって話をしたいわけではないが、この普通という概念が強すぎて普通じゃない人が潰されてしまう。

アホでない限り、人は一人ひとりみんな違うということは理解できるだろう。同じ人なんてこの世にいない。一卵性の双子でさえ性格から感性から身長から体重まで違うのだ。身長、体重、スポーツ得意不得意、勉強得意不得意、こだわり、社交性、楽観的、悲観的などなど違うから楽しいし、違うから興味が湧く。なのに日本では何かと普通であることを自身あり気に話す。子供が一歳になったらこのくらい話しているべきだとか、体重がどうだとか、社交性があるだとか、そんなガイドラインに縋っているからおかしくなるのだ。子供なんか健康であれば良い。それ以上は全部ラッキーでおまけだ。それなのにガイドラインに寄せようと頑張っちゃってる親は全員アホだ。今目の前にいる子供を見て、他の子供と比べる必要なんて一つもない。

現在の技術では心も気持ちも感情も数値化できない。数値化もできないのに揃えようとするから不具合が出る。一人一人違うから良いはずなのに、無理やり型にはめようとする。型にはまらない人間は社会不適合者と呼ばれる。

普通の反対

普通じゃない人を、普通じゃない物を、常識で通じない人を、常識外の事柄をみんな怖がっているのだ。普通や常識という言葉でどうしても言いたいならば、俺の普通で良いし、あなたの常識で良い。

みんな普通じゃなくていいし、非常識でいい。普通の反対は『特別』だ。みんなそれぞれの生き方で特別でいればいい。俺の特別は人の特別とは違うし、誰かの特別になろうとしているわけではない。自分の特別でいればいいのだ。

こんな考え方が出来るようになったのは俺がカナダに住み始めたからだと思う。最近HSPの嫁に「もうすっかりカナダ人だね」なんて言われてしまった。生まれ育った場所が日本でも、日本語が母国語であっても関係ない。日本人ってなんだ?俺は日本人か?日本でいいのか?と疑うべきだ。一人一人違う人間なんだから、住みやすい場所だったり国があるだろう。

ASD持ちで難しい事もあるし、そうでないこともある。ただASDも含め自分だと認めてあげることで、見えてくる世界もあるんじゃなかろうか。

最後にアインシュタインの言った有名な言葉をここに書いておく。

Common sense is the collection of prejudices acquired by age 18.
常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう。


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