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選択肢はイエスかノーだけ?アラフォーの私がハタチの大学生と話して、考えたこと。

ある大学生と話す機会があった。その人は高校教諭を目指しており、大学の授業の課題に悩んでいる、という。
課題というのは、道徳の課題で、内容はざっくりまとめるとこういうものだ。

「ある仲の良い夫婦(年齢不詳)がいた。その妻が大病にかかり、医師は治療に必要な薬を提示する。ところが、それは夫が一生働いても支払えない程の金額であった。あなたなら、どうしますか?諦めますか?それとも薬を盗みますか?」

この課題が求めているのは、二元論に基づいて方法を選ぶのではなく、「別の方法」を想像することだと私は考え、大学生にその旨と私の考えるいくつかの例を伝えた。反応はすこぶる良く、「目から鱗だ」と言っていた。

この体験を述べたのは、なにも「学生に良い話をしたぜ」と自慢がしたい訳ではなく、そもそも私の考えがその課題の回答になっていたかも知る由はない。



人は日常的に、選択をしている。時には、選択を迫られる状況になることもある。大概は、イエスかノーである。だが、それらがどちらも適切ではないと感じるとしたら?

その時に人は悩む。苦しむことだってある。

その際には、ゼロイチ(二元論)ではない、「その間、あるいはその外にある、無数の可能性」を模索することが大事になってくるのだと思う。選択肢は多く、かつより豊かなものの方が良い。
「オルタナティブ(もう一つの、別の)な価値観」を模索すること。それが思考することに他ならないのではないか。その先に、新たな選択肢が生まれる。または、イエスかノーが新たな価値をもって明瞭になってくる。

イエスでもノーでもない時に、「オルタナティブな選択肢を創造し、ポップにその状況を乗りこなすことができる」ようになりたいものだとつくづく思う。
これには訓練が必要であろう。私ののびしろとしたい。

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