勝手にやってろ、想像力のねえ奴ら

※今回の記事は多分に逆ギレテイストの強いものです。アイドル、漫画を含めたエンタメコンテンツに関する言及は一切ありません。

また、当然ながら身内のフォロワーや知人を攻撃することも一切意図していません。

閲覧に際しては自己責任で判断して頂きますよう、切にお願い申し上げます。



想像力のねえ奴ら

こんにちはー、灰色です。

今回は初めて人様のnoteを引用して記事を書いてみます。取り上げたいのはこちら!

私がここ最近noteで……というよりは職業作家も含めた中でも最注目の書き手である、桃辿まいるさんが書いた記事でございます。

旅するメイド屋」という只者じゃない感漂う肩書きを持つ彼女のことについてはご本人のページから見ていただくとして、今回は当該記事の内容にだけ絞った話です。

もう公開から日が経っている中で大変恐縮なのめすが、とりあえず一言。


よくぞ言ってくれた!!

俺男だけどマジで同意!!!!

うなずく首の衝撃波で地面がエグれるぜ!!!!


立場的に方々からの反発も予想できたでしょうし、投稿には相当勇気が必要だったと思います。

幸い私はTLのテラフォーミングに余念がないので(ミュート中毒とも言います)、件の構文はゼロとは言わないまでもあんまり流れてこなかったんですが、いやー……

おぞましいわ。

え、おぞましいなんて形容詞はおよそ美を体現する彼女たち(美男子もいるのかは知らん)には似つかわしくないですって?

その想像力の欠如!

心のありよう!

それがおぞましいと言っておるのだ!!

ついロボットアニメのおっさん系敵キャラみたいな言い回しになってしまいました。失礼しました。

でもさ、あまりにもさ、

お前らのツイートって醜くないか?

Every Body👨‍👩‍👧‍👧👨‍👧‍👦 シャッフル🔀しよう世代👶🔀👵


まいるんさんが書いていた通りですが、あまりにも想像力がないと思うんですよね。どう想像力がないか、どのように人を傷つけうるかについては、私が改めて語るよりも引用元の記事をご覧いただいた方がよいかと思います。

真の邪悪とは己が邪悪だと気付いていない者だとはジョジョの奇妙な冒険6部で繰り返し出てきた言葉ですが、それを思い出さずにはいられません。

承認欲求、結構結構。

やっていくのも大変なことだと思いますよ。

特にそれを生業としている方々は。

自撮りでも水着でも、何でも武器にしたらいいですよ。いやほんと。

でもさ、ここまで暴力的になるのはどうなのよ。

もうコピペするのも嫌なんだけど、例の構文、「〜〜だから大抵のことはふーんで済む」ってことは、当然言外に「そうじゃない人たちはふーんじゃ済まなくて大変だね〜笑😂」ってニュアンスが含まれるわけじゃないですか。

「そんなつもりはなかった」なんて言うなよ。

冬の森に火を放っといて「生き物を殺すつもりはなかった」なんて言わさねえぞ?

もちろん俺は男ですので、一連のツイートで直接傷ついたり悩み苦しむことはほとんどありません。同性の方々を差し置いてこんな記事を書くのはどうなのよという気持ちもあります。さらに言えば、いわゆる美人、スタイルのいい人に目を惹かれないと言い張ろうものなら閻魔大王に舌を抜かれることは避けられません。

何より、人間は生きている限り常に他人を傷つけることから逃れられないというのが私の基本的な思想です。

ただ、今回のはあまりにも無神経で、邪悪で、想像力がなくて、無責任すぎると思うんですよね。

自分の言葉に対して。

私は、言葉に責任を持たない人間のことが控えめに言っても好きではありません。

ましてやこれでバズろうってのは、それだけたくさんの人を傷つけようってことと同じじゃないですか。何ならいいねの数の何倍も。

まったく、外見よりも体重よりもその厚顔無恥さがうらやましいぜ!

マジで、さぞかし面白おかしく楽に生きられるんだろうなと思いますよ。想像力がないってのは。

それでも私は想像力こそが人間らしさの数少ない証明だと思っていますが、その話は長くなるのでやめておきましょう。



慎ましいユーモアの死

かつて流行ったインターネット古代語の中に、「全部嘘構文」とでも呼ぶべきものがありました。これまた死語ですが、いわゆるコピペというやつです。

残念ながら初出は見つからなかったのでコピペで恐縮ですが(コピペに対してコピペで恐縮するとはこれいかに?)、以下がその一例もしくはオリジナルです。

俺天然パーマなんだけど先週の日曜日の話。
最近俺が彼女と別れたのを知ってか知らずか友達が男2女2(友達・友達の彼女・彼女の友達・俺)で遊園地行こうと言い出した。
俺はそんなに気が乗らなかったが仕事始まってから友達に全然会ってなかったし、気分転換になるかもと思って遊びに行くことに。
遊園地に着いて遊んでると、友達が別行動にしようと言い出した。
知らない子なので最初は気まずかったけどそのうち気軽に話せるようになり、だんだん楽しいと感じるようになった。
話してるうちにその女の子とは思ってたより気が合うし可愛いし付き合ってもいいと思った。いや、正直付き合いたいと思った。
3時くらいになって遊園地が物凄く混んできたので俺はその女の子に「(はぐれないように)手繋ごっか?」と言った。
彼女は男と付き合ったりした事が無いらしく俺がそう言うと何だか恥ずかしそうにしてた。
でもここで2人モジモジしてはぐれても困るので俺から彼女の手を繋いだら爆発した。

まぁさすがに爆発したのは嘘だけど、手繋いだのはガチで嘘。
でも4人で遊びに行った事だけは本当に嘘。
ただ昔彼女がいたってのはマジで嘘。
俺が天パーなのは本当。
誰か助けてくれ。

天パは今関係ないだろ!!!毛玉くっつけんぞ!!!

それはともかく、いにしえの時代からこの手の「彼女いる自慢→嘘だけど」パターンのコピペは数多生み出され、遍在していました。

もっとも、これらは大昔の2ちゃんねるで主に流行したコピペで(爆発したの時点で大昔じゃないと言われれば返す言葉もありませんが)、当時同所ユーザーの多くが個々人の真偽はどうあれ「非モテ男性」という属性コードを共有していたがゆえの現象ではあるのですが。

それでも一つ言えるのは、同類のコピペ全てにこの構文ほどのパンチ力があったかはともかくとしても、上記の青春語りのような「純粋な自慢」に対して、「わざわざネットで書き込むのはなんか違うよね、別に面白くないし」という意識がそこにあったということです。この青春語りのどこが自慢なの?という人にまでフォローする元気はありません。

代わりに彼らは「全部嘘構文」のように誰も傷つけない自虐、「慎ましいユーモア」とでも呼ぶべきものを駆使して、互いに共有されたコードの中でバカ話に花を咲かせていました。

ひるがえって、現在主流のコミュニティとなった各種SNSにおいては、かつて当然だった匿名性(外見本名は元より、社会属性や性別に至るまで)がいわゆる陰キャ(この言葉も大嫌いなんだけどさ)の振る舞いとされ、自撮り画像や動画を付けての発信が当たり前となりました。

そのため、「シンプルな自慢」もしくは一時期大流行した「自虐風自慢」も、以前のように反発を買うことはありません。そこに異性へのセックスアピールという要素が加われば尚のこと、【承認と注目を得たい発信者⇄刺激的な異性の画像が欲しい(or反応が欲しい)受信者】という両者は強欲なWIN-WIN関係を構築し、かつてのような「慎ましいユーモア」は消滅しました。

ここで念のため断っておきますが、過去のインターネットが配慮の行き届いた優しい世界だったかといえば、一切そんなことはありません。その時代を懐かしんで回帰しようとも全く思いません。差別的な言説や匿名性を悪用した攻撃が無秩序に跋扈していたのは、紛れもない事実です。今回私が切り取ったのは、あくまでその一つの断片であり文化の上澄みです。脱線しましたが、このことにだけは触れさせてください。

本題に戻りましょう。「慎ましいユーモア」は、ダイレクトに欲望を刺激・充足するサイクルに対して、完全に無力となりました。今回記事を引用したまいるさんも稀有な「慎ましいユーモア」の持ち主であるため、そうした点からも本件のおぞましさをひときわ敏感に感じ取られたのかもしれません。

「慎ましいユーモア」の「慎ましさ」とはすなわち、直接は見えないけれどもそれを受け取るかもしれない人々に対する気遣いであり、どこかの誰かを傷つけてまで自分のための自慢話はしない、という心掛けでした。

それを美徳とするか余計なお世話とするかは今回横に置きます。大事なのは発信者にその意識があるかどうか、つまりツイートをする本人(拡散したりもてはやす側も含む)に想像力があるかないかです。

世の中のあらゆる場面で、本当にたくさんの女性が外見や体重に関する悩みを抱えていることは、TLを見ているだけでもしばしば感じます。世間からの無神経な攻撃や風潮に苦しめられている人は数えきれないでしょう。男性にも「男らしさ」の呪縛といった問題はありますが、こと外見や年齢にまつわる有形無形の外圧に関しては、やはり女性に対するものの方が未だに多くを占めると思われます。

どう足掻いても、私には他人の苦痛や苦悩を完全にトレースすることはできません。けれど、だからこそ想像力を保ちたい、磨きたい、そうすることでせめて自分は自分の親しい人たちだけでも傷つけたくないとは思っています。

何も◯◯イズムがどうとか、そういう崇高な理念の話をするつもりはありませんし、大義名分なんて持っちゃいません。

ただ、あれこれ苦しみながらも日々頑張ってる気のいい友達のことを考えたら、想像力を欠いた暴力に迎合することはとてもできないってだけの話です。

かくいう私も、ちょうど今週とある本を読んで、その潔いほどの無神経さにひどく気分を害することになりました。いかにも優しげなタイトルの皮を被ったその本は、なくなりかけていた偏見を復活させて余りある、世にも恐ろしい無意識の暴力性に満ちた一冊でした。

この比較競争社会で打ちのめされた人へ寄り添うような謳い文句をまとっておいて、その実は非の打ち所がないサクセスストーリーをポエティックに披露していくという、見事なまでにマッチョな内容。徹頭徹尾そこにあったのは、「理解者の顔をした強者」が高みから弱者を見下す、傲慢な眼差しでした。たとえそれが無意識であったとしても……いえ、無意識ならば一層タチが悪いとしか言えません。

これまでの人生で、あれほどに最悪な読書体験をした記憶はありません。読書とは決してノーリスクで実り多いだけの行為ではなく、少なからずギャンブル性を孕んだものだということを、手痛く思い知らされた次第です。

この社会で本当に「選ばれなかった」者は、そもそも出版社から本を出して人々に語りかける資格を手に入れられない。この容易に思いつく懸念点をどう解決してくれるかと期待していたのですが、結果はまさに恐れていた通りになりました。

タイトルを書いて検索されるのも嫌なので、書名は気になったら直接聞いてください。何ならプレゼントします。私は二度と開かないので。

この話以外にも、身長が高くて困ってる(別に2mあるわけではない)話とか、内輪ネタの中で出身大学を匂わせるとか、そういう諸々にケチをつけていったらキリがないのですが、さすがに全部取り上げると散らかりすぎるのでやめておきます。

男性のそういうのもまあ大層無神経ですよね、ってだけにしときましょう。



でも、この記事こそが暴力ではないか?

というところで、ここまでの話を根本からひっくり返すようなことをこぼします。

先述した通り、人間が何か発信するときは、常に誰かを傷つける可能性があると私は考えています。

というより、際限なく想像力を肥大化させて被害妄想の域まで達してしまえば、誰であれ加害者に仕立て上げられるのです。

それゆえ、自分たちの攻撃性を無視して被害者の代弁という大義名分を振りかざすこと、それを盾に暴力的な弾圧を行うこと、その傲慢さを、私は心底嫌悪しています。

しかし、そんな弾圧者たちとこの記事を書いている自分の間に、どれほどの違いがあるのでしょうか。

一度書き終えてからここまで推敲していたら、少しばかり足元がおぼつかなくなってきました。

これだけの文字数を書いたので投稿自体はするのですが、やっぱり難しいものですね、こういう話題は。

失礼しました。本題に戻りましょう。



We are the losers

久々にマイナスの感情を剥き出しにしてしまいました。お見苦しくて申し訳ありません……ってのも白々しいんでやめときましょう。

さてさて、ここで引用元の記事にまた戻ります。まいるさんは、SNS社会において日常的に発生する「比較」の不毛さにも言及されています。この部分の主張にも私はほぼ全面的に同意しているのですが、加えて以下の言葉を紹介したいと思います。

オリンピックスポーツでは、金メダリスト以外の全人類が敗者。

松下育男「これから詩を読み、書くひとのための詩の教室」という本の一節に出てきた言葉です。細かな解説は省きますが、実にインパクトのある一文でした。他者との勝敗や比較のみに自己を委ねることの危うさと虚しさを、松下は極めて鋭く示唆しています。

また「クッキングパパ」でも、流し見しただけなので詳しい話の流れは知らないのですが、あるキャラクターが「甲子園常連じゃない学校のベンチで野球するのに意味はあるのか?自分たちは負けるために野球をやってるのか?」と素朴に問いかけるシーンがありました。前後の文脈を知らずに引用するのは本来避けるべきなのですが、あまりに鮮烈な台詞だったので紹介させてください。これと似たような大会至上主義の是非は現実でも近年しばしば議論されるようになりましたが、この台詞の切れ味には目を見張ります。

無論、ここで競技スポーツの素晴らしさだの、教育のあるべき姿だのを論じる気はさらさらありません。ただ、世間で名誉とされるもののために、果てしなく優劣の比較競争に身を晒し続けることへの疑問という視座は、とても印象深いものでした。

もっとも、想像力なき人々がこうした考えに至るかは分かりません。というか、まず無理でしょう。ですから、彼ら彼女らに対して語りかけるつもりは少なくとも私にはありません。徒労に終わる確率が高すぎます。

そうではなく、他者との際限ない比較に疲れ果てている人に向けての、ちょっとしたご紹介でした。

では結局どんな姿勢が望ましいかという点については、まいるさんの記事が一つのヒントを出してくれているので、是非そちらをお読みください。



勝手にやってろ

またまた元記事に戻ります。

まいるさんが書かれた、「ふーん」で片付ける力が必要かもしれない、というお話について。

これも常々私が考えていることだったので驚いたのですが、私の場合はもっとずっとガラが悪いので、「勝手にやってろ」を合言葉に毎日を生きています。

しかも私は非常に狭量なので、邪悪な物事だけでなく興味範囲外のこと、真剣に考えたら疲弊してしまいそうな世界の諸々についても、「勝手にやってろ」で済ませてしまうことが多々あります。

本来これは、現代に生きる一市民としては全く望ましくない、恥ずべき姿勢なのでしょう。

無関心を正当化するお前こそが自覚のない邪悪だと言われてしまえば、返す言葉もありません。

ただ、一ついいですか。

キャパがないんですよ、そんなに。

毎日必死に、なんとか好きなものに縋って、有人たちに助けてもらってやっていけてる身なんで、他のことにまで構うエネルギーがないんです。

どんな人間でも、使えるエネルギーや脳の容量には限界があります。私のように貧弱な輩なら尚のことです。そんな人間が、それでも毎日をやり過ごしていくには、嫌いなものや怒りを覚えること、ストレスを感じることにまで意識を向けてる余裕はないんです

だから、勝手にやってろ。

キレ散らかした末に何を言ってんだこいつはという感じですが、私のスタンスはこれに尽きます。

想像力のない人間は、私にとってはハッキリ言って同じ人間ではありません。そんな連中に理を説くことは時間の無駄でしょうが、同じようにわざわざ気にして反応してやることもエネルギーの無駄にしかなりません。

今回私が最も伝えたかったことは、この勝手にやってろ精神です。

想像力のない奴らに苦しめられている人へ。

あなたのモヤモヤやイライラに、こんな言葉遊びがどれくらい役立てられるかは分かりません。

そんなに簡単なものじゃないでしょうし、知ったような口をきくな、余計なお世話だと言われてしまうかもしれません。

だから私は、あなたに寄り添うとか、理解者になるとか、そんな偉そうなことをするつもりは毛頭ありません。

ただ、一つだけ。

あなたの限りあるエネルギーは、とても貴重なものです。

それをくだらない連中のために浪費してやる必要は、どこにもありません。

想像力のない奴らには、勝手にやってろの一言と共にブロックでもくれてやればいいのです。

そうして、あなたの好きなもの、大切なことにこそ、そのかけがえのないエネルギーを注いであげてください

不毛な比較レースでなく、あなただけのエネルギーの向け先を見つけられることを、心から願っています。

そしてさらに欲を言えば、その使い道を私にも教えてもらえたら、これほど幸せなことはありません。




拝啓、桃辿まいる様

この度は記事の引用を快諾くださいまして、誠にありがとうございます。

今後のnoteも心から楽しみにしております。

今回私の記事はほぼ全編にわたってまいるさんの記事に同意し尽くす内容となりましたが、最後に一つだけ、僭越ながらも異を唱えることをお許しください。


でっかい愛!

豊かな知性!

鋭いユーモア!

俺にとっては160cm44kgGカップの女さんよりもアンタの方がよっぽどうらやましいんですが!!!このUUUR人間が!!!!リスペクト!!!!


おわり。









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