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『資本論』は何を意図していたのか

世の中には、何百年と読み継がれる本があります。古典と呼ばれる本です。カール・マルクス著『資本論』もそんな一冊と呼んでいいかと思います。『資本論』の特徴を一言で言えば異常に難解であるということです。そこまで難解な本がなぜ古典と言える本になったのでしょうか?

マルクスが『資本論』を書くにあたって参照したアダム・スミスやリカードやJ・S・ミルはそこまで難解でなく、主張も分かり易いのになぜ『資本論』は難解なのか。そこには何か意図があったのかと疑ってしまいます。『資本論』って結局、私有財産制をなくして、全ての資産を共有して貧富の差をなくそうという共産主義の実現こそが、資本主義の行き着く先であるという話でしかないので、そこまで難解な話でもないと思うのです。そしてその論は既に破綻していることは明らかです。

マルクスは、資本主義から共産主義が必然的に生まれる。それは労働者の革命によってということを『共産党宣言』で述べています。”共産主義者はこれまでのすべての社会秩序を暴力的に転覆することによってのみ自己の目的が達成されることを公然と宣言する。”ここだけみると、テロリストの宣言のようにも聞こえます。実際、マルクスは当時最も警戒すべき人物として、プロイセン秘密警察など各国の秘密警察によって生涯監視下におかれていたそうです。

『資本論』の意図は何だったのか

マルクスの意図が社会秩序の暴力的転覆であったことを考えると、来るべき共産主義というバラ色の未来と対比するために資本主義というものは悪魔的でなければならない、そのために貨幣や資本というものに対し人々が簡単に理解できるような話にしてはならないということがありそうです。だからやたら難解な話が展開されます。そう労働者は搾取されている、本来労働者が生み出す価値が資本という悪魔に取り込まれた資本家によって労働者から搾取されている、だから労働者は本来の価値ある存在であることから疎外されているのだという論が展開されます。

やたら難解にしたおかげで、マルクスの意図はああだこうだと論争があり、自分こそがマルクスの意図を正しく理解しているのだということが勝手に盛り上がったりしてきたのは、知的なリソースの無駄遣いのような気がしないでもないですが、まあまんまとマルクスの罠に嵌っているだけなので御愁傷様としか言いようがないです。その議論の中から資本主義を打倒しなければという運動が起こって社会が混乱することがマルクスの意図したことでもあるわけなのです。理論という衣を被らせたディスインフォメーションというわけです。

実際、前述したようにマルクスは秘密警察の監視下にあり、ベルギー警察に逮捕され、追放されてパリに移住したが、フランス警察の執拗な監視や脅迫のため、ロンドンに逃れ、そこでもロンドン警視庁とプロイセン秘密警察の監視下にあり、祖国ドイツにも戻ることを拒否されています。そのような状況下で執筆された『資本論』であるがゆえに、直接革命的な行動はできないと考えたマルクスが純粋な経済理論の書として出すことでアカデミズムの中から革命への同調者を増やしていくという戦略を考えたとすれば、それは『資本論』の受容のされ方からみて、大成功であったといえるかもしれません。マルクス自身はそれを目撃はできなかったですが。

『資本論』を読むことの意味はあるのか

マルクスの『資本論』における分析が全て間違っていたわけでもないでしょうが、もはやマルクスの時代とは経済社会の状況も大きく変わってしまった現代において、マルクスの『資本論』を読むことの歴史的意味は、如何に人々を混乱させる議論を巻き起こすことができるのかということの分析とそういう議論に嵌ってしまわないようにするにはどういう態度であるべきかを理解することでしょう。そういう風に『資本論』を読むという試みがほとんどないのは残念な気がします。それがディスインフォメーションに対する構えを教えてくれるものなのにと思うからです。まあ変な議論に巻き込まれるよりは読まない方が良いかもしれません。

しかし、ここまでマルクスが読まれるのもレーニンによる革命が成功したことが大きな要因であることも確かです。レーニンの革命はもちろん労働者による革命などではなく、資金もいろんなところから出ており、マルクスの想定とは全然違うものです。そもそも革命を成功させるには資金は必要だし、軍を味方につけることが肝要です。まあ革命自体新たな混乱を生むので、実際良いものであることはあまりないようには思います。革命によって全てをよくできると考えること自体が、理性偏重主義の過ちであるとは言えないでしょうか。



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