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法務部員、美大へ行く。 #02 / 残り続ける課題

このシリーズは、企業法務に従事する筆者が京都芸術大学でデザインを学んだ理由を開陳しつつ、筆者自身があたまの中を整理しようとするものです。私の卒業制作についてはこちら。


ついに京都芸術大学を卒業した今、これからどうしようかしらと考えています。手始めに、考えていることの整理のためにこのnoteを開設して、とりあえず書き下しています。

そんな折、そういえば…と思い出したある本をきっかけに、今回は書いてみます。

1 丸谷才一『文章読本』

丸谷才一『文章読本』(1977)の第4章「達意といふこと」は、次のように始まります。

しかし文章の最も基本的な機能は伝達である。筆者の言はんとする内容をはつきりと読者に伝へて誤解の余地がないこと、あるいは極めてすくないことが、文章には要求される。

丸谷才一『文章読本』(中公文庫、1980)70頁

この大事なテーマを具体に述べていくために、明治憲法と現憲法が比較されます。その伝達能力について、丸谷は明治憲法には手厳しく、現憲法は決して褒められたものではないが「マシ」である、という調子です。

丸谷は明治憲法の伝達能力を評するにあたり、単語レベルや個別条文レベルの話のみならず「明治憲法全体」も相手にします。

しかしある文章(この場合は明治憲法全体)の伝達の能力は、単位その中の文(センテンス)の一つ一つ(この場合は条文)が明晰であるかどうかだけで論ずべきものではない。個々の文がたとへ明晰で誤解の余地がなくとも、それらが互ひに矛盾してゐたのでは、読者はたちまち了解困難に陥り、眼を白黒させるしかなくなるだらう。

丸谷才一『文章読本』(中公文庫、1980)85頁

そのうえで明治憲法についてこう指摘します。

…臣民の権利の条項で、第十九条から第三十条まで、あれやこれやとうるさく留保をつけながらであるにはせよとにかく権利を保障してゐるのに、その反面、まづ第八条の緊急勅令で、次に第十四条の戒厳令で、そしてさらに第三十一条の非常大権で、それらの権利を根こそぎ奪ひ取るのである。このやうな撞着は、政治論的には権力支配の巧妙な装置と言へるかもしれないが(しかしわたしは政治論的にも醜悪だと考へる)、文章論の立場で言へば混乱と支離滅裂のしるしだらう。そこには文章が常に持たなければならない秩序がまったくない。

丸谷才一『文章読本』(中公文庫、1980)86頁

だが、この指摘の及ぶところは明治憲法にとどまらず、おそらく今ある法律の大半には「文章が常に持たなければならない秩序がまったくない」ことになりそうです。

「但し書き」とか「なお書き」とか、より大規模にはそれこそ前記引用の今日バージョンである緊急事態条項をめぐる議論とか、あるいは行政事件訴訟法の「事情判決」(違法有効)とか、法律の身にになってみれば、一応、ちゃんと理由があってやっている「混乱と支離滅裂」がたくさんあります。法律はしばしば、訳あってはみだしたり、ひっくりかえしたり、特別扱いしているものです。

2 外野にならないように

「文章読本」というジャンルは、丸谷以前にも谷崎潤一郎とか川端康成とか三島由紀夫とか当代一流の物書きたちも記しているような、文芸文章の指南書です。これが法律について何か言う場合、「外野が勝手になんか言っている」と一笑に付すこともできましょう。(ちなみに、こうした外野からの法律悪文論について、喧嘩を買ったり売ったりせず、ただその論点についてオトナな法律家たちが淡々と述べる本が、私の卒制補足記事のVol.1で散々引用した『法と日本語 -法律用語はなぜむずかしいか』です。)

そもそも、丸谷の新旧憲法の対比は別に(明治憲法を除く)法律文書全般を批判する目的ではないので、上記引用箇所にこだわっても仕方がないとはわかっているのですが、私はこの箇所を読んだ時に自戒しようと思いました。私の関心は、わかりにくい法律というものの見てくれ、表現形式、それ自体を対象にデザインしてやろうというもので、しかしこれは下手にやると、「デザインとか言う外野が、法律なんたるかを知らずうわべだけで何か言っている」になりかねない。

SNSでときたま、霞ヶ関のポンチ絵資料をデザイナーがその文脈を踏まえないまま改善してみましたなどと言って一見小綺麗になった画像を発信してはボヤを起こすのをみてきましたが、まさにその轍を踏む可能性がある。これを回避するには、法律に対する必要十分(どのくらい?)な理解をもって、つまり法律の内部者の目線を持ってデザインに臨むか、あるいは丸谷才一『文章読本』のごとく外部者としてしかし圧倒的に重要な存在となって問題を瑣末なものに追いやってしまうか。後者は土台無理なので、やはり前者の道をいくしかないと思います。この道では、デザインの技巧の上達のみならず、引き続き法律を学び続ける必要がある。その上で、両者の間を取り繕っていかなければならないわけです。

3 残り続ける課題

思うに、法律のやむを得ない複雑怪奇(混乱と支離滅裂)と、デザインによる「わかりやすさ」を仲介するうえで大きな課題となるのは、いったいどこまで法律をまとめてしまっていいものか、その明晰性や正確性をどこまで丸めてよいものか、かと思います。この両者の仲介の難しさを、「法学文献」という文脈ではあるが、碧海純一は次のように述べています。

「わかりやすさ」と「明晰性」とは、随筆のようなジャンルにおいては、大体において互いに親近関係にあるが、専門の法学文献においては両者が互に相容れないことも多い。

林大・碧海純一編『法と日本語 法律用語はなぜむずかしいか』(有斐閣、1981)119頁

そして、「わかりやすさ」と「明晰性」の優先をどうするかは、読者層にも依存するとも述べます。これはまさしくその通りで、すると「わかりやすさ」というものはやはり、著者1人でなんとかなるものではなく、伝える先という他人がいてはじめて成り立つ前提ができるということです。

ですから私が今後、私の関心事を突き詰めていくためには、①法律を引き続き学び続けること、②デザインの技術を磨き続けること、そして③世の中をよくみて来たる「読者」に備え続けること、これらがきっと必要です。重荷です。

と、『文章読本』という法律の内側世界から見れば「外野」、しかし超巨大で圧倒的な存在、これを前にして、おこがましくも、我が身の振り方をどうしようと思案した次第です。



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