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口唇残香【短編小説】

「そろそろ出ようかな」
 その言葉を合図に、三十分ほど先に出社する貴方を見送るため、玄関に足をはこぶ。
 靴を履き向き直ると、玄関ドアの硝子がらすから挿す朝陽あさひが貴方の外郭がいかく曖昧あいまいにさせる。 
 親切な上りかまちが二人の目線を合わせ、舞台を整える。
 互いに少しだけ頭を傾け、寄せると唇が重なる。
 一秒程の優しい接触。
 わずかに漏れる吐息からは、いつも珈琲の香りがした。 
 味は苦手だけど、その香りは好きだった。


 


 

 目を覚ましてリビングに向かうと、寝癖をつけ目を擦る私に「おはよう」とスーツ姿で声をかけられた。
 テーブルには湯気が浮かぶマグカップが二つと、空の白皿が二つ。
 夫はドリップ珈琲、私にはアールグレイの紅茶を淹れてくれていた。
「もう少しでトースト焼けるから、顔洗っておいで」
 パソコンを操作しながらそう告げる夫に、短く返事を返して洗面台に向う。
 
 戻ると、丁度チンッと甲高い音が鳴ってトースターから食パンが顔を出していた。出てくる瞬間がモグラ叩きを連想させ、食パンを叩きたい衝動に駆られるが、失笑されることは想像に容易くグッと堪える。
 ミミの端をつまむようにして皿にパンをのせる。
 夫はまるでグラウンドをならすようにバターナイフで均等にマーマレードを塗っていく。
 私は苺ジャムの塊を真ん中に落とし、スプーンで荒く広げていく。味の濃淡を楽しみながら食べ進めていく。
 テレビから流れてくる馴染みのキャスターの声と、パンをかじる軽やかな音が、静かに朝に響く。
 私の大きな欠伸を見て、夫が短い笑みを浮かべる。
 エアコンから吐き出された冷気がレースカーテンをゆっくりと撫でる。
 机の上では曖昧な陽光が緩やかに揺れていた。
 慌ただしい一日が始まる。そんな予感をまるでさせない二人だけの優美な時間。
 
 しずかで、満ち溢れていた時間。
 
 そんな日々を反芻はんすうする。
 

 




 食卓には湯気が浮かぶマグカップが二つと、食パンがのった皿が一つ。
 
 しずかな朝。
 
 朝食を終え、冷めた珈琲の中に人差し指をそっと落とし、下唇をなぞる。
 上唇と合わせ音を鳴らすと、ほんの微かに香る。
 霧散むさんしていく貴方を感じながら。
 
 
 今日も、一日が始まる。
 
 
 

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