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拾い集める物語

バスや電車などを使うようになったのは、父が他界した後だ。父は私が公共交通機関を使うのを好まなかった。バスや電車を使うなら自分が車に乗せていくというような人で、それは娘に大変な思いをさせたくないということもあったろうが、どちらかというと周りに迷惑をかけたくない、人の世話になりたくないというニュアンスだった。かといって、いつも機嫌よく車に乗せてくれるわけでもなく、とても嫌な言い方をする時も少なくなかった。
だからバスや電車を使って好きなところに行けるようになって、ちょっと自由を手にした感じがある。
母も免許を返納し、車を手放して、私たちの生活は不便になったが、その代わりに自家用車に乗っていたら見えなかったものも見えてくる。

家からバス停までは徒歩で5分弱だ。車椅子で”徒歩”と言わなければならないのが妙な気持ちになるが、とにかくゆっくり行ってそのくらいだ。
今まで知らなかった人たちと挨拶を交わしたり、季節の移り変わりにそって植物の様相が変わったり、時々猫が目の前をよぎったり、こんなところにこんなものがあったんだという様々な発見がある。空の色や、星、風の匂いや、夕暮れ時の晩御飯の匂い、行きかう人々、暗黙のルール、車に乗っているとそういう物事には気づきにくい。

noteのネタ探しはこれに似ている。
ちょっと目線を変えるとか、物事の細部に目をやるとか、日々起きる出来事の仕組みのようなものに思いを馳せると、ネタは無数に転がっているはずだ。小石ひとつとっても物語がある。
しかし、私たちの生活は車で移動するみたいに、ドアからドアへ、ここからあそこへ一気に行ってしまうから、すぐ目の前に転がっている石に気づきもしないのだ。

だが私は車で疾走するのも好きである。自分で運転はできないし、福祉タクシー以外の誰かの車に乗ることは今はないが、真っ直ぐな道をひたすら走るのも、くねくねと山を登り下りするのも、首都高みたいに道路と道路が交差したり、トンネルに入ったり、道路の下に川が流れていたり有名な大通りが見えたりするのも好きだ。
そんな風景の中にも、小さな物語は無数に転がっている。

そういうものをちまちまと拾っては眺め、私は今日も文字にしている。


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