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【書籍紹介】がんー4000年の歴史 ピュリッツァー賞受賞作 人類と「がん」の闘争史

著者 シッダールタ・ムガジー 田中文(訳)

 医師、がん研究者(血液学、腫瘍学)。1970年、インド、ニューデリー生まれ。スタンフォード大学(生物学専攻)、オックスフォード大学(免疫学専攻)ハーバード・メディカル・スクールを卒業。コロンビア大学メディカルセンター准教授。

本書はがんの歴史書であり、がんいう太古からの病 ーかつて「陰で囁かれた」秘密の病ー の年代記である。


感想

 比較的長文のノンフィクションですが、ストーリーに引き込まれ一気に読了しました。そしてこのストーリーは事実であり、がんの歴史です。

 本書が一線を画すのは、メディカルサイエンスの進歩だけを描いたのではなく、「がん」を取り巻く行政、患者、製薬企業、即ち、政治・社会・経済をも含めた闘いの歴史を詳細に描き出したことです。
 それぞれの分野で、常識を恐れずに立ち向かった超人たちのストーリーが語られます。偏執的な挑戦と失敗の積み重ねが、ようやく「がん」正体に近づいていく歴史は、医療にとどまらないイノベーションの本質を見せてれますし、医療の進歩は社会全体の責任であること具体的に教えてくれます。

 また、扱う範囲の広さだけでなく、歴史も深く探索されています。特に19世紀前後、解剖学や衛生学の誤解による悲惨な治療の段階から、がんが異常な細胞増殖によるものだとわかり始めたころの展開は、胸が痛むものでありますが、失敗の上に進歩が積み重なっていく歴史を追体験することができます。

 4000年以上前の太古から「がん」は知られており、ギリシャ時代になりようやく「カルキノス」という名前が付けられます。しかし、近世まで「がん」は正体が全くわかっていませんでした。あるはずのない「体液」の異常であることにされていたのです。19世紀になりようやくルドルフ・ウィルヒョウによって細胞の異常増殖であることが解明され、細胞増殖を食い止める化学療法、放射線治療、外科的治療が試みられるようになります。しかし、いずれも決定打とはなりませんでした。その後、がん細胞は遺伝子異常の累積に発生することが理解されるようになり、現代に続く、分子標的治療が開発されるに至りました。

 ストーリーはがん化学療法のパイオニアであるシドニー・ファーバーと、希代の慈善家・ロビイストであるメアリー・ラスカーを軸に展開されます。彼らを取り巻く人々との、挑戦はやがで次世代へと繋がっていきます。

 本書に登場する英雄たちを取り上げ、少しでも本書の雰囲気触れていただければと思います。

がんと闘った英雄たち

シドニー・ファーバー

 一介の陽の当たらない病理医であったシドニー・ファーバーが、がん治療を志した戦後の1940年代後半、がんの正体は不明であり、治療は塊ごととりだす外科手術か、放射線照射しかありませんでした。抗生物質が登場し、化学の力で細菌細胞を死滅させる戦略は医療の革命でしたが、がん細胞には無力でした。
 ファーバーはそんながんの中でも、外科的治療もできず、放射線のターゲットにもなり得ない白血病の治療に取り組みます。
 まず初めに、骨髄から正常な白血球を生産させようと、葉酸を投与する臨床試験を開始しますが、逆にがんの増殖を加速させる結果となり、この臨床試験を中止します。
 次に、急性リンパ性白血病(ALL)に対し葉酸拮抗薬の臨床試験を開始します。この臨床試験は多くの反対にあいます。当時小児のALLは打つ手がなく、静かに見送ることが最善と考えられ、早ければ診断されてから一週間もたたずに、余命を奪われるものでした。しかし、ファーバーは反対を押し切り臨床試験を開始します。そしてついに歴史上はじめて、化学療法により寛解を得ることができました。しかしその寛解は束の間であり、3か月から6か月後には必ず再発してきました。   そうであっても小児ALLにとって6か月は永遠ともいえる時間であり、このニュースとファーバーの名前は世界中に知られることとなります。
 その後ファーバーはさらに臨床試験を進めるためには、資金と政治が必要なことに気づきます。ジミー基金を成功させ、資金を得たファーバーは新病院を建て、より規模の大きな臨床試験やステロイドとの併用など新しいレジメンの試験を実施し、寛解の期間を延ばしていきました。その後、希代の慈善家・ロビイストのメアリー・ラスカーと出会い、議会公聴会の常連となり、がん研究の資金援助へと議会を動かしていきました。

メアリー・ラスカー

 ノーベル賞にもっとも近い医学賞であるラスカー賞の設立者です。40歳のころまで様々なキャリアを積み上げてきたメアリー・ラスカーはその後の人生をがん撲滅の運動に捧げます。
 1943年、米国がんコントロール協会(ASCC)を訪ねた彼女は、そのあまりに非効率な運営に愕然とします。当時委員を務めていた専門医たちは、詳細な標準治療の手続きを定めることに労力を費やし、がん研究のための資金を集めることにかけては「素人」でした。メアリー・ラスカーは、その後莫大な援助金をASCCに寄付し、自ら運営に携わるようになりました。そして資金集めの「素人」集団である専門医で固められた委員会に、広告代理店、製薬会社の重役、などを引き入れ、広告とプロモーションにより、爆発的にがん研究資金を調達していきます。議会にも働きかけ、がん予防の国家的意義を訴えて予算を引き出し、医学研究の資金としていきます。
 ラスカーより生まれ変わったASCCは全米がん協会(ACS)に名称を変更し、のちに国家的な禁煙キャンペーンを展開し、肺がん罹患者数の減少に寄与しました。

フライとフライライク

 化学療法多剤併用療法の先駆者です。がんを撲滅するのに2剤、3剤の薬剤を同時に使用する事が必要であることは理論的には正しいアイデアに思われましたが、それを実際に行うことはほとんどの医師を尻込みさせました。患者の生存を脅かす無謀な治療と考えられたのです。
 フライとフライライクは12か月にも及ぶ周囲への説得により、NCI(国立がん研究所)で命を脅かすような4剤併用療法、VAMP(ビンクリスチン、アメトプリテリン、6-MP、プロドニゾン)の臨床試験を実行します。
 想像されたとおり、血球数が壊滅的に低下し、患者は生死の境をさまよいます。フライとフライライクは病棟に張り付いてケアを施します。できることは寒がっている子供に毛布をかけるなど、些細なことしかありませんでした。苦痛に満ちた3週間ののち、数人の患者に予期せぬ回復がもたらされました。正常の細胞が徐々に増え始め、白血病細胞は消え去っていたのです。その効果はあまりに完璧で、かつ持続的でした。反対していた医師や世間も見方を変え、積極的治療に楽観的ムードがもたらされます。
 しかし楽観主義は長続きしませんでした。数人の子供たちが頭痛やしびれなどの神経症状を訴え来院してきたのです。脳には、血液脳関門という生体のバリアがあります。これは毒物が脳に入らないように進化した生物学的機能ですが、結果として、これによりVAMPが中枢神経に達することができず、がんにとっての聖域となってしまったのです。

 フライはウィリアム・ピーターズと共にその20年後、自家骨髄移植を併用した超大量多剤併用化学療法(STAMP)の臨床試験を行います。壮絶な副作用との闘いの末、初期の患者さんには劇的な寛解が認められます。1984年試験はフェーズⅠを終え、その冬のサンアントニオ乳がん学会で発表されると好意的な評価を得ました。その雰囲気を得てフェーズⅡに進み、その後無作為化臨床試験であるフェーズⅢはがん・急性白血病研究グループB(CALGB)のスポンサードを得て、全米の施設に広がっていきます。1990年代前半には超大量多剤併用化学療法の論文は1177件にも上りました。しかし、その後良い報告と効果がないという報告の両方が発表されるようになり、2000年を迎える手前、STAMPは有効ではないという結論に致ります。

ハルステッド

 解剖学の遅れていた1800年代後半の米国を離れ、ウィリアム・ハルステッドはヨーロッパで正しい解剖学を学びます。やがて、切除した乳がんの再発は、切除した部位の近くから発生していることに気づいたハルステッドは、根治的乳房切除術(ラディカルマステクトミー)を開発します。
 従来のように腫瘤に沿って切除するのではなく、マージン(切除縁)をとって切除するのです。マージンをとっても再発することがわかると、これはマージンが足りないからだと考え、さらに切除範囲を広げていきます。小胸筋だけでなく大胸筋も取り除く手術を実施し、これをドイツ語で「根」を意味する「ラディカル」からとって、根治的乳房切除術(ラディカルマステクトミー)と名付けます。さらにその考えは押し進められ、周辺のリンパ節切除も行い、ある外科医は肋骨の切除まで進めました。身体的負荷は高まりますが、それを慮って切除範囲を狭めるのは「誤った優しさ」と考えられました。この積極的な切除は、勇気ある外科医の文化として、その後100年近くに渡って浸透していきます。
 しかし、このハルステッドの方法は本当に乳がんの患者を救ったのでしょうか。乳がんの生命予後を知るには、かなりまとまった患者群に対して5年後、10年後、どうなったかを観察しなければなりません。
 1900年代前半にはケインズが腫瘤のみを取り出す腫瘤摘出術を試み、一定の成果を得ますが、多くの外科医に嘲笑され、無視されます。
 ハルステッドの術式の評価は1981年に発表される、フィッシャーらが行ったNSABP-04試験の結果まで待たなければなりませんでした。その結果、乳がん対して根治的乳房切除の有意な差は認められないことが明らかとなります。現在では根治的乳房切除術はほとんど行われておりません。

レントゲン、ベクレル、キュリー夫妻

 ハルステッドのが根治的乳房切除を発表した1895年10月末から数か月後、レントゲンが電子管の実験中にX線を発見し、生物組織を透過するほどの強力なエネルギーを持つ性質を見出しました。これは大した発見のようには思われていませんでした。しかし、1896年、アンリ・ベクレルが自然界に存在する物質であるウランも電子管と同様X線を放出していることを発見します。
 そして1902年、キュリー夫妻が自然界にあるラジウムからより強力なX線が放出されていることを発見します。さらにラジウムからのX線は細胞分裂が盛んな組織に選択的に作用することがわかり、がん治療に応用されていきます。

ハギンスとビートソン、ジェンセン

 ハギンスはテストステロンを抑制することによって、前立腺細胞が縮小し、さらに前立腺がん細胞は激しく縮小することを発見します。ビートソンは、子宮を全摘、つまりエストロゲンを枯渇させることで乳がんが縮小することを発見します。
 ハギンスと一緒に仕事をしていたジェンセンは乳がん細胞にER(エストロゲンレセプター)があることを発見し、乳がん治療薬タモキシフェンの開発に繋がります。
 外科医たちの反対があったものの、タモキシフェンの臨床試験は進み、実用に繋がる結果を得ます。

がんの正体に近づく

テミン、レトロウイルスの発見

 1958年若いウイルス学者のハワード・テミンはラウス肉腫ウイルスをニワトリの正常細胞に移植すると、無制限に増殖する系を成功させます。テミンはこれをがんを純化させた現象ととらえました。
 通常、ウイルス感染した宿主細胞のDNAには変化がありません。しかしラウス肉腫のウイルスはDNAにくっつき変化させたのです。ラウス肉腫ウイルスがRNAウイルスであることから、テミンはRNAからDNAへの逆転写が起こっていると考えました。そして日本人ポスドクの水谷とともに逆転写酵素を発見し、ラウス肉腫ウイルスが通常のウイルスではなく、遺伝情報を逆向きに書かくことができるレトロウイルスであることを発表しました。
 同時期に逆転写酵素を発見していたマサチューセッツ工科大学のウイルス学者、ボルティモアと同調し、レトロウイルスのライフサイクルに対する新説を発表します。
 腫瘍学者は即座にテミンの説を受け入れます。

src

 カリフォルニアで、ウイルス学者のスティーブ・マーティン、ピーター・フォークト、ピーターデュースバーグの3人がラウス肉腫ウイルスの研究を進め、がんをつくる遺伝子を探り当て、「src」と名付けます。srcはがんを作る遺伝子という意味で、がん遺伝子を呼ばれました。
 その後、srcは極端に活性化されたキナーゼであることが分かります。srcタンパクはリン酸化を加速し、細胞分裂を誘発します。
 しかし、この研究のどこにもヒトレトロウイルスが登場せず、この説は無視されます。

 しかしその後、カリフォルニア大学サンフランシスコ校のマイケル・ビショップと、NIHの研究者であるハロルド・ヴァ―マスは、srcに似た遺伝子が様々な動物の正常細胞にあることを発見します。さらにその後、ニューヨークロックフェラー大学の日本人ウイルス学者、花房秀三郎が正常細胞にあるsrc遺伝子と、ウイルスのscr遺伝子の違いを見出します。
 ウイルスのsrcは異常に活性化したキナーゼでタンパクを無差別にリン酸化することによって細胞分裂を促すシグナルを永久に流しっぱなしにしています。これに対し、正常細胞のsrcは制御されていて、厳密な制御のもとで細胞分裂の間にオンになったりオフになったりするのでした。
 レトロウイルス学者は長い間、ウイルスが活性化したsrcを正常細胞に組み入れてがん化させると信じてきましたが、srcはウイルス由来でなく、もともとの正常細胞に由来していることがわかりました。

 がんは外来性の遺伝子が細胞に挿入されて発生するのではなく、正常な遺伝子が化学物質やX線で内在性の原がん遺伝子が活性化して発生するからだと理解されるようになりました。

 ビショップとヴァ―マスの「原がん遺伝子」説はがん発生の包括的な理論として学会に定着します。
 さらにその後クヌードソンは、網膜芽細胞腫が発生するには、二つの正常な網膜芽細胞腫遺伝子(Rb遺伝子)が二つとも不活性化されなければならないことを発見し、がん発生の2ヒット理論を構築します。Rb遺伝子はがん発生を抑制するがん抑制遺伝子でした。
 ビショップとヴァ―マスとクヌードソンはがん遺伝子とがん抑制遺伝子との働きをつなぎ合わせてがんの発生を説明しました。

ras の発見、シグナルカスケード

 ロバート・ワインバーグが1982年、がん遺伝子rasを発見します。同時期に同じように遺伝子を追い求めたいたグループも発表します。その後1983年から1993年までの間に、数々のがん遺伝子、がん抑制遺伝子が同定されます。myc, neu, fos, ret, akt,/p53, VHL, APCなどです。この発見と遺伝子がコードするタンパクの研究が進み、細胞増殖のカスケードが明らかとなっていきます。
 これらの研究の成果として2000年1月にワインバークとハナハンが「がんの特徴」と題する論文で6つのがんの特徴をまとめました。

HER-2

1984年、ワインバーグが発見したneu遺伝子と、製薬会社であるジェネンテック社が発見したがん遺伝子HER-2が同一であることがわかります。
 ジェネンテック社で働く科学者ウルリッヒは活性化したHER-2遺伝子を不活性化する方法を模索していました。UCLAの腫瘍学者デニス・スレイモンは、ウルリッヒの講演を聞き、自分の持っているがん組織の標本が必要だとひらめき、協力を提案します。その結果、乳がん患者ではHER-2が増幅している乳がんと増幅していない乳がんにきれいに別れ、HER-2が増幅している乳がんでより転移スピードが速く、より致死的であることが判明しました。

 その後、HER-2に結合して活性を抑制する抗体の作成に成功し、その薬剤をハーセプチンと名付けます。スレイモンとウルリッヒはジェネンテック社にハーセプチンに開発を掛け合います。しかし、1980年代は数々な抗がん剤が開発されていたものの、その無差別な作用は体にとっても毒であり、ほとんど失敗していたのです。そのため、ジェネンテック社もがんのプロジェクトの大半から資金を引き揚げていたのです。
 ウルリッヒは失意のうちに退社し、スレイモンは一人となります。しかしわずかな協力者の支援を得て、ようやく1992年、臨床試験にこぎつけます。

 臨床試験では一部の患者でがんの劇的な縮小がみられたものの、他の患者では一定の大きさのままであり、これをどう評価すべきかわかりませんでした。スレイモンは厳しい立場に立たされたことを悟ります。縮小の見られない患者は治療を中断し、試験は終了しました。

 しかし、スレイモンの早期試験の噂は野火のごとく患者団体に広がりました。HER-2陽性乳がんは進行が早く最も予後の悪い乳がんで、患者たちはどんな治療であっても可能性があれば受けるつもりでしたが、ハーセプチンはFDAの承認を得ていません。彼女たちに長い臨床試験を待っている時間などなく、今、効果のある薬が欲しいのです。ついにジェネンテック社は患者団体である全米乳がん連合と協力し、患者団体の提示する提案に耳を傾け臨床試験を開始します。

 1998年5月ASCO(米国腫瘍学会)でハーセプチンの驚くべき臨床試験の結果が発表されました。

分子標的治療の幕開け

 その後、blc-ablを標的としたグリベックの開発ストーリーが詳細に語られます。エストロゲンレセプターを標的としたタモキシフェンは、時代をさかのぼるものの、無差別な化学療法とは異なる分子標的治療と考えられます。

 現在我々は、分子標的治療の限界と、耐性と克服する方法ももつようになりました。さらに腫瘍免疫の理解など、がんへの理解が格段に進んでいます。

無駄な挑戦はなかった

「無駄な挑戦はなかった」私が本書で最も印象に残っている言葉です。がんは手ごわくいまだにその解明は不十分ですが、確実に正体に近づき、予後は大幅に改善されています。何世代にもわたり熱狂的に戦ってきた患者、研究者、がんを取り巻くすべての人々の積み重ねが今日に繋がっていると、強く実感できました。


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