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ドサクサ日記 5/13-19 2024

13日。
人というのは複雑な生き物で、一側面とか一文や一言でその人を判断するのは不可能だとわかっていながら、一刀両断する仕草に多くの人が慣れてしまった。それとは反対の向きで、会ってみると素敵な人というのは案外に多くて、随分と邪悪なことを言う人だと評価していた人も、対面で話す分にはいい人ということが多い。そういう事実の前で引き裂かれたり、悩んだりしないのは危ういことだと思う。

14日。
Logicのアップデートが話題になっていた。AI機能が格段に良くなったらしい。これからは楽器が弾けなくても、簡単に音楽が作れるようにどんどん変化していくだろう。それは素敵なことだ。音楽家は失業するのかと言えばそんなことはなくて、優れた身体性を持つ演奏家たちは残る。金儲けに固執してしまえば、AIが作ろうが人間が作ろうが売れれば成功なわけで、大きなビジネスの現場ではAIが活躍するのだと思う。けれども体験として、AIが己の代わりをしてくれることはない。俺の代わりにバンドに加入して、メンバーと励ましあったり喧嘩したりしながら、なんらかの達成感や幸福を得ることはAIにはできない。それは自分にしかできない。AIはそうした体験をサポートしてくれるはずだが、結局のところ私ではないのだ。音楽は「やるもの」に近づいていく。下手だっていい。達成感こそが生、だと思う。

15日。
車で高速道路を走っていると、時折、ムキになって追い抜いていく車があって驚く。車間距離をゴリゴリに詰めて、退け退けこの野郎、みたいな感じでガソリンを浪費する車は恐ろしいというよりも、哀しい目で眺めてしまう。どんなにぶっ飛ばしても、1日くらいの時間を獲得できたりはしない。精々数分か数十分というところだと思う。SAで焼きモロコシを食べるくらいの人生のほうが豊かだと思う。

16日。
ヘアメイクさんからいただいた大量の干物をガンガン焼いて食べている。尿酸値的には良くない。干物ではなく、尿酸値爆上げ君と呼ぶべき能力を干された魚たちは有している。恐ろしいことだと思う。けれども、尿酸というのも身体には必要で、それ自体が悪者というわけではない。幸いにも痛風が発症したことは一度もない。干物は無論、むちゃんこ美味しい。干物か痛風かの二択だと思うと悲しい。けれども、本来は二択なわけがないのだ。干物と痛風の間にはとても複雑なグラデーションというか因果関係があって、干物即痛風とはならない。当たり前のことだ。けれども俺たちは往々にして、なんでも二択にしてしまいがちなのだと思う。そのほうが楽だからだ。プリン体を含む食べ物を忌避し続けて、最終的には菜食からの出家、みたいな人生も豊かかもしれないけれど、不健康な物を食べる自由もある。

17日。
古里おさむと風呂敷の楽曲のマスタリング。ラウドネスノーマライゼーションという配信や放送の規則に付き合うと、90年代的なギターサウンドの多くは音量のペナルティを受けてしまう。まあでも、人間は相対的に大きな音を良いと感じる場合が多いので、それを利用して音圧戦争みたいになった歴史もあって、こうした新しい悩みが発生するのは悪いことではないと思う。個人的な好みで言えば、もうそんなに大きな音に魅力を感じない。注意深く音を追いかけるようになってからは、小さい音と大きい音の差を潰すような作業が過剰に為されていない音楽のほうが楽しんで聴けるようになった。あまり大きな音が続くと、その圧に耳が疲れてしまうというのもある。けれども、この音楽にはこれくらいの音圧を感じたいよねっていうこともあるので、塩梅が難しい。まあ、音楽とは塩梅の表現なんだけれども。

18日。
さっと差し出したらコースターにされるような織布も、額に飾るとちゃんと芸術作品に見える。この差はなんだろうと店先で考え込む。みんなが喜んで支払っているのは、実は額代だと言えるのかもしれない。というか、額装という概念的な協力を得ないと、芸術性を発見できないのかもしれない。それでは寂しい。そこらに落ちている石を床の間に飾ったりする精神は素敵だ。誰かに笑われたとしても。

19日。
メキシコで原稿の締め切りを迎えるので、頭から湯気を出しながら原稿を書いた。マネージメントで止まっている案件もあるだろうけれど、基本的に来た仕事はなるべく引き受けようと考えている。あの人にこれを頼みたい、みたいな視点は自分の可能性を開いてくれる。自分にはできるとも思わなかったことについて、誰かが「彼ならできる」と考えていること。この食い違いのなかに未来が詰まってる。