見出し画像

原色オジイ図鑑

Vol.5 トングの爺

 音楽スタジオで楽曲のミックス・チェックを複数の人間で行なっていると、ときどき不思議な現象が起きる。

 例えば、ひとりのメンバーが「最初から最後までイン、イン、イン、という感じの、なんとも言えない異音が聞こえて不快である」とか言い出す。ところが、他のメンバーはおろか音響のプロである録音技師も、その音を聞き取ることができない。

「何を言っているのだ、コイツは」と思って即座にメンバーを解雇したりできないのは、これまで経験から、そうした現象がスタジオでは頻発すると知っているからで、また、特定の個人にしか聞こえない音があるくらいでメンバーやスタッフの首をギッチョンギッチョン切っていると、いずれ自分の首も同じ理由によってスパッと切られてしまうことがわかっているからだ。

 聴こえている音がそれぞれ違う。音楽にはそうした多面的な魅力があって面白い。

 こうした事例は、何も音楽だけに限られたことではないのかもしれない。

 と言うのも、以前に住んでいた町をプラプラと散歩していたときのことだった。

 なんでもない交差点で信号待ちをしていると、ギリギリのところでズングリとは呼べないくらいにズングリとした小柄な爺が、銀色の棒を使って交通整理のようなものを始めた。

 善意で町内のパトロールや、通学路の見守り隊などを行なっている爺さんたちと同じような回路からボランティア精神が発露した爺だと思って有難い気持ちになったが、少しだけ様子がおかしいのは、この交差点にはガッツリと信号が設置され、交通整理の必要性がまったくないところだった。

 ちょっと変だなと思いながら観察していると、爺のあたりからカチ、カチ、カチ、と軽い金属音が聞こえてきて、数秒前に思った「ちょっと変だな」が、いや、「かなり変だな」に塗り替えられて、俺より先に横断歩道を渡って転がって行ってしまった。

 先に横断してしまった違和感を追いかけながら、爺の側を過ぎて道路の反対側に渡った。すれ違うときに爺が握っている金属製の棒を凝視した。

 爺が持っていたのは大きめのトングだった。

 爺のトングは焼いた肉をひっくり返すには少し大きく、七輪に燃え残った木炭を拾うには少し小さい、みたいな絶妙なサイズのものだった。爺は信号が青になる度に、トングをカチカチと鳴らし、どうぞ、みたいな高さまで振り上げて通行人たちに横断を促していた。

 爺はとてもにこやかだった。トングを持っていること以外は、どこにでもいる爺が履いているような地味なズボンに、どこにでもいる爺が着ていそうなセーターを着て、どこにでもいる爺が羽織っていそうなポケットの多いベストを羽織り、どこにでもいる爺が被っていそうなキャップを被った、どこにでもいる爺だった。

 ところが、通行人たちは爺に一瞥もくれずに去って行く。そこには何も存在しないというような感じで、中年女性は平然と自転車のペダルを漕ぎ、親子連れの子のほうが謎のトングに注目するのではないかと思ったが、親子ともども完全にスルーして過ぎて行った。

 恐ろしいことだなと思った。

 トングの爺の不思議な感じに魅せられて、俺は爺のいる交差点を散歩道に採用した。平日や休日を問わずランダムに爺は交差点に現れ、なんとなくの気分で交通整理をする日を決めているようだった。爺に会えた日は嬉しく、会えない日は悲しかった。

 散歩というよりはトングの爺を見に行くことが日課になってしまった時期もあった。

 ある日、トングの爺と交差点で二人きりになった。信号は赤になったばかりで、爺さんはトングを下に降ろして、車道の遠くに連なるいくつもの青信号を眺めていた。俺は勇気を出して「こんにちは」と声をかけた。

 爺は俺のほうを向いてニコリと笑った。近くで見ると紅潮していないニホンザルのボス、みたいな顔をしていた。

 そして、爺はおもむろにトングを振り上げ、ここから見え得る限りで一番遠い信号をトングで指し、「ちょっと待っててなぁ」と俺に告げ、カチ、カチ、カチとトングを閉じたり開いたりしながら軽い金属音を出しはじめたのだった。

「今、あっちから順番に赤に変えるから」

 爺に超人的な力があるのか、単に時間が過ぎただけなのかはわからないが、遠くの信号機から順々に青信号が黄色を経て赤になり、目の前の歩行者用の信号が青に変わった。そして、爺は遠くの車道に向けていたトングを横断歩道のほうに向けて、カチカチと音を鳴らしながら、朗らかにいつもの交通整理をはじめたのだった。

 俺はキツネにつままれたような気分になりながら、散歩道へと戻って行った。

 振り返ると爺は何やら怒声を発し、交通のマナーを守らない自転車を追いかけて、ゆっくりと路地へ消えていった。いつものにこやかさからは想像しがたい爺の激情に驚いたのだった。

 ある日、爺は忽然と交差点から姿を消した。

 あまりにも静かに爺はいなくなり、もとからここにはいなかったかのようでもあった。いくつかの季節を見送ったあとで、トングの爺はもう交差点には現れないと俺は悟ったのだった。


イラスト:コバヤシカナコ