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壊しすぎないためには、まず何よりも作りすぎてはいけない。

 あらゆるものが過剰に捕獲採取され、過剰に生産され、過剰に消費されるから、修復される暇もなく、すべてが、後戻りできないほどに壊されていく。過剰にエネルギー放出させるために、これ以上ないほどまでに物質を細かく砕き、世界を破滅に導く爆発力を人類が手に入れる。
(中略)
壊しすぎないためには、まず何よりも作りすぎてはいけない。過剰な資源発掘と過剰な生産による過剰な生産物の多幸症的な洪水が、それをミミズやトビムシやキノコや地中水中の微生物が分解できる能力を上回ることで、分解可能なゴミが大量発生し、ゴミを焼滅させるために、地球の表面を覆う土や岩を砕き、石油やガスを地中から掘り起こさなくてはならなくなる。

藤原辰史 著
『分解の哲学 腐敗を発酵をめぐる思考』

 僕たちの社会における「循環」は、もはや地球や自然のサイクルとしての「循環」からはかけ離れている。うずたかいゴミの山にさらなるゴミを積み上げながら、「SDGs(持続可能な開発目標)」というその場しのぎの言葉を発明して、ゴミの山を見ないようにしているのではないか。

 藤原辰史の鋭い言葉をさらに引く。

 たしかに、過剰に生産され、消費され、破壊される社会を「循環」と呼ぶことだってできる。だが、この循環過程のなかで循環するのは物質ではなく、貨幣である。

藤原辰史 著
『分解の哲学 腐敗を発酵をめぐる思考』

 「循環」を駆動させる哲学が変わらなければ、「開発」や「成長」というもっともらしい言葉のもとに、ゴミの山を増やしながら貧富の差だけが開いていくような仕組みが続いてゆくのだと思う。

 この循環では、「新作」がつぎつぎ登場し、生活は新品で溢れ、「モデルチェンジ」もつぎつぎと財布から貨幣を吸い取り、膨大な新品が無傷のままで使い捨てられる。そのあいだに、労働力も自然とのあいだで物質代謝を続けてはいるが貨幣の循環力にはやはり負ける。過剰さは、この使い捨ての加速的循環によって生まれている。このような社会では、ついでに人間も使い捨てられる。賞味期限が人間に適用される。

藤原辰史 著
『分解の哲学 腐敗を発酵をめぐる思考』

  チェコの作家、チャペックのSF小説を巡る思考のなかで、これらの言葉が紡がれたことは、僕にとって大きい。ベタにオーウェルの『1984』を引くまでもなく、フィクションが現実や思考に与える影響を思う。

 書く意味は、ある。

 そして、僕らの「書く」には「読む」が必ず含まれていて、それは咀嚼であり消化であり、「分解」だと思う。そういう意味では、本当の意味で「読む」ことこそが(高速で流れるタイムラインを読みとばすのではなく)、僕らには足りていないのだと思う。